第九話
月刊状態を何とかせねば……。
魔の季節がやって来た。
一年のうちで最も楽しみの多いこの季節が、今の俺には懊悩に苛まれる試練の時となった。
街を歩けばそこかしこに立ち並ぶ誘惑の数々。それらを視覚に捉える度に歓喜の咆哮を上げる若い本能を、ただひたすらに抑え込む。
それは数多くの誘惑と煩悩に打ち勝ち、その道を極めんと苦行を重ねる修験者に通ずるのではなかろうか。
「ふぁぁ~~……この濃厚さ、クセになりそー」
とろーん、と大きな猫目をだらしなく緩ませる薫や――。
「でしょ~? でも数量限定、一日お一人様二個までだからコレだけなのよ」
そんな薫をニコニコ顔で見遣るお母さんや――。
「ん~っ、あそこの新作マロンケーキは当たりよね!」
現在進行形で歓喜の咆哮を上げている神崎の母ちゃんはきっと、誘惑のアクマに違いない。
そんな中、俺は目の前の皿に鎮座する黄色いクリームを細く束ねて螺旋を描くように盛られた魅惑の物体に焦点を合わせず、カップに注がれた紅茶を楚々と口へ運び、アクマ共の黄色いはしゃぎ声を聞き流す事に専念していた。
秋――色褪せ始めた草花に代わり、才、可能性が花開く季節。
灼熱の日差しは徐々にだが落ち着きを見せ始め、朝の清々しい空気には若干の肌寒さすらも感じる。
ダイエットは、60代を目前に控えた71kg。早朝のトレーニングに加えて放課後のランニングが追加になったせいで、疲労がちょっと溜まり気味なのが気になるところ。
「さくらちゃんも食べなよー。これ、美味しいよ」
幸福感に表情筋を完全に乗っ取られた薫の顔を見れば、目の前の物体がいかな威力を備えているか否が応にも理解できる。
しかしそれをこの身に受け、膝を屈するわけには行かない。それはこの半年の努力を水の泡と消えさせる魔の一撃に他ならないからだ。
「このところ疲れてるって言ってたでしょ? そういう時は甘いものを食べるのが一番よ」
トレーニングメニューや献立を作ってくれているお母さんがそう言うのだから、今日、このケーキを一個食べる程度なら問題ないのだろう。
だけどその後に襲ってくるであろう「食べてしまった」罪悪感と、一度味を覚えてしまった舌との長期戦を思うと心が重い。
「あんたって、そんなに我慢強い子だったっけ?」
二人の声を頑なに聞き入れず、静かに茶を啜り続ける俺を、神崎の母ちゃんが不思議そうな目で見ている。
言われてみれば、それほど我慢が利いた質ではなかった。
とすればこれは我慢ではなく、ここまで積み重ねたモノを崩すくらいならば、という意地であろう。
食欲の秋、俺の戦いは今まさに始まったばかりだ――なんて言うと危険なフラグが立ちそうだな。
秋といえば食欲だけではない。スポーツとか芸術とか、他にも色々あると思う。
「水、氷、水蒸気、この中で最も音が速く伝わる状態を答えよ……知らんがな」
「いや、知らんがなじゃダメだろ」
「こんなん知らんでも生きていけるし!」
「赤点ばっかりだと進級は出来ないけどな」
ぐぬぬぬぬ、と口惜しそうに唸る褐色の細マッチョを前に、俺と鷲尾は揃って溜息を吐く。
中間考査を目前に控えて嫌々ながら試験勉強に取り組むこの状況を勉学の秋と呼べるかどうかは分からないけれど、この季節は心踊るものばかりではない。
「今更だけどさ、数学とか科学が苦手なのになんで理数系を選んだんだ?」
「別に苦手な訳じゃねーぞ。計算が遅いっていうか、ちょっと時間が掛かるだけで」
問うた鷲尾の呆れた視線も気に留めず、黒部は広げた問題集を顰めっ面で睨み続ける。
計算が遅いだけで苦手ではない、というのは俺も似たようなものなので同意できる。加えて制限時間が焦りを煽るから、落ち着いて計算が出来なくなるのだ。
「それを苦手って言うんじゃないか」
その一言は黒部だけでなく、地味に俺の心にもグサっときた。
に、苦手ちゃうわ! 苦手だと思ったら負けなんだ!
「でもクロベエ、この問題は計算あんまり関係ないし簡単な方だろ」
難しく考えれば説明は長くなるが、これはイメージで答えられる設問だ。
「へ? でも水蒸気で音の聞こえがどうとか、意味分かんなくね?」
「待て。お前、なんか変なこと言ってるぞ」
こいつが何を悩んでいたのかがようやく分かった気がする。
鷲尾もそれに気づいたようで、呆れが更に深まってしまったようだ。
「設問は音の伝わる速度であって、お前が悩んでいるのは伝導率だ。問題をちゃんと読め」
「なぬ?」と、問題を読み返した黒部は、ややあって「おおぅ」と呻くや額をぺチンと叩いた。
「でもまぁ、伝導率でも答えは同じみたいだけどな」
「まじか?」
「分子運動と波とか、授業でやってたろ。で、答えは?」
「氷だ。つか、授業でやったか? 俺、全然覚えてねーわ」
大方、寝ていたんじゃなかろうか。
「あら、珍しい。集まって勉強なんて、台風でも来るのかしらね?」
盆に炭酸ジュースを満たしたグラスを載せて運んできたおばさんが、教科書やらノートを広げたテーブルを囲んでいる姿を見て軽く目を丸くする。
「うるさいな、邪魔するなよ」
唐突に現れた闖入者に鷲尾は邪険に返すが、おばさんは笑って流すだけで構いもしない。
「あぁ、さくらちゃん、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
立ち上がって盆を受け取ると、木のコースターと一緒に各人の前に置いていく。
その様子をおばさんがにこにこ顔で見詰めているのがなんとなく気になる。
「えと、何か?」
「あら、ごめんなさい。綺麗になったね、と思ってねぇ」
「そ、そうですか? 太ってるし、まだ全然だと思いますけど」
「そんなことないわよ。それくらいふっくらしてる方が愛嬌があるし」
悪びれもなく面と向かって言われると、なんだか気恥ずかしい。
かく言うおばさんは小柄でちょっぴり丸っこい体型、それに加えて柔和な面立ちと愛嬌という点については申し分ない。
多分、薫が歳を取ってちょっぴり太ったらこんな感じに……いや、待て。アレはあんなナリをしているが、曲がりなりにも男だ。中年太りなんてふっくらというよりも脂ぎっとりだろ、常識的に考えて。
「こんなに綺麗になったら、男の子が放っておかないでしょ?」
「そんな事は、無いですけど……」
放っておかない、というのがどういう意味かよく分からないけれど、最近ちらちらと盗み見るような視線が気になるようにはなった。
主に胸とか尻辺りに。
「あら、それじゃうちの義晴なんてどうかしら。身体だけは大きいから貴女と並んでも見劣りしないし、力仕事はお手の物よ?」
「えっと……え?」
「だから邪魔するなって言ってんだろ。用が済んだらさっさと行ってくれよ」
何の話? と戸惑う間に鷲尾が荒げた声で横槍を入れた。
「あらあら、照れちゃってまぁ」
「そんなんじゃないっての! いいからあっち行けって!」
全く悪びれた様子もなく、クスクス笑いながらおばさんは追い出されていく。
「お前のおばちゃん、相変わらず良い性格してんなー」
「言うな」
それを唖然と見送る側で、黒部と鷲尾が小声でなにやら話していた。
勉強を再開して間もなく、何処ぞからか視線が飛んでくるのをチクチク感じる。
「くっそぉ、だからウチで集まるのは嫌だったんだ」
それは他の二人も同様のようで、特に鷲尾の苛立ちは顕著になってきた。
今更だが鷲尾は個室を与えられていないため、今居るのは広めの仏間だ。
古めかしい日本家屋で襖や障子戸は開け放たれており、こっそり覗うポイントは数限りない。
「そうかぁ? 何処で集まっても大して変わんねーよ」
と、他所に上がり込むのに慣れている黒部は涼しい顔だ。
「あ、でも薬王寺の家でやった時はちっと寒気がしたな」
しかし前回の期末考査対策でうちに集まった時の事を思い出したらしく、その顔に苦笑で歪む。
「ああ……あれはなんていうか、怖かった」
「う……あれはその、ごめん」
続いて鷲尾も苦笑いを浮かべれば、俺は頭を垂れるしかない。
最初は俺の部屋で勉強をする予定だったのだが仕事が休みでうちに居たお父さんの猛反対に遭い、リビングで机を囲むことになった。
それはまぁいいのだけど、ダイニングやら庭やらをお父さんがうろうろそわそわとうろつき、厳しい視線を投げかけてくる。それが絶えず続けば、もう勉強どころの話ではなかった。二人が帰った後にお母さんを巻き込んでの大喧嘩が勃発したのは言うまでもない。
しかし今の話を聞くに、俺に投げかけていた視線と二人へのそれは、どうやらその性質が大きく異なるものだったようだ。
この勉強会のようなものは中学の時から続いている。切欠は何だったか忘れたけど、やる時期は大抵が試験前だ。
普段はあまり集中して勉強なんてやらない連中のやる事だから、一夜漬けに余計な調味料をテキトーに混ぜ込んでいるようなもの。効果がどうの、という以前に良いほうに転がるかどうかすら不明という悪足掻きだ。
そんなもんだから集中力が持つ訳がない。
「あー……ダリぃ、もう限界」
案の定、ダレた黒部が畳に背を投げ出して大の字になった。
それを咎める気力すら湧かず、見れば鷲尾も瞼が半分ほど落ちており、時折欠伸を噛み殺す仕草が見て取れる。
こうなってはもう、いくらノートと睨めっこを続けても時間の無駄だ。
時計は午後三時手前といったところ、続いたのは一時間と少しといつも通りか。
「そろそろ休憩するか」
休憩とは言ったが再開することは稀で、事実上の終了宣言だ。
「そーだなぁ……」
張りの無い声で応じながら、鷲尾はシャーペンを置いて大きく伸びをする。身体の大きなこの男がそういう動作をすると、広い筈の部屋が少し狭まったような錯覚を覚えた。
俺も感覚の鈍くなった肩を回し、或いは揉んで凝りを解す。
「辛そうだな」
「うん、このところ肩凝りが酷くてさ」
鷲尾の言葉に適当に応じながら、鈍い痛みを感じた所に指を宛がって重点的に揉み解す。
原因は大体分かっている、胸部に突き出している巨大な脂肪の塊だ。三桁の大台は割って久しいが、重量感は依然衰えない。
動けばユッサユッサと揺れ動いて邪魔だし痛いし、何もしなくてもずっしり重い。以前は大きさを維持しつつ如何に体重を減らすか、と頭を捻ったものだったが、今となっては少しでも軽くなって欲しいとしか思えなくなった。
おまけにチクチク感じる視線がウザったいったらありゃしない。今だって目の前の大男の目がチラチラ動いてるし。
「乳搾れば軽くなるんじゃね?」
「出るモンが無いわ、大ばか者」
むく、と起き上がった側から品の無い言葉を吐く褐色男の額に消しゴムを投げつけてやった。
ああ、原田のスラッとしたスタイルが羨ましい。
原田といえば、圧しに負けたとはいえ変な約束をしてしまったんだよなぁ。
なかなかの速度で着弾した消しゴムに声を無くして悶絶する黒部を眺め、内心小さな溜息を吐く。
良い奴だとは思う、見掛けも悪くは無い。でも惚れるかぁ? 今みたいに、素面でセクハラを飛ばすような奴だぞ?
試しにコイツと原田が寄り添って歩いている姿を想像してみる……いつもの如く黒部が突発的に天然セクハラ発言を飛ばし、原田がそれに激しくツッコむ。しかし物理的なツッコミが無いために黒部は止らず口論になり、ものの数分で殴り合いに発展し……。
うぅむ、コイツら大丈夫だろうか……あ、今の黒部は俺への応対で想像したから、原田相手だとちょっと違うか? いや、そういえばコイツって人によって態度を変える奴じゃないよなぁ。でも、いくらなんでも生粋の女の子に手は上げないだろうし……。
「……ん? どした?」
ふと気付くと雑談していた二人がじっとこちらを見詰めていた。
「そりゃこっちの台詞だ」
「ブツブツ呟いてると思ったら顔顰めて考え込むわ、唸りながら俯くわ、何してんだお前?」
頭の中でぼんやり考えていたつもりだったのだが、どうやら表に出てしまったようだ。
ぬぅ、ちょっと顔が熱い……。
「お前らさ、好きなコって居る?」
顔の熱さをごまかし半分、腹を括って踏み込んでみる。
まずは意識調査というか、そもそも黒部が恋愛ってモンにどれだけ興味があるのかがまず不明だ。それを把握せん事には話が始まらない。
「好きなコっていうと、女?」
鷲尾の問いに頷き返し、何が悲しゅうて野郎に好きな男が居るかなどと聞かねばならんのか、と密かに呆れる。
女子の会話には腐臭が若干混じっていることはあるのだが……それはとりあえず置いておく。
「んあー、あんまし考えた事ねーな……」
考える素振りを見せたのも一瞬の事、黒部の口からは予想通り答えが返ってきた。
しかし思うところがあったのか、珍しく歯切れが悪い。
「どうした?」
「んー……いやな、そろそろ考えた事もねーってのもどうなんだ、ってふと思った」
全然分かんねーけどな、と黒部は曖昧な笑みを浮かべる。
誰々が何処でどんな奴と一緒に居たとか、誰と誰が付き合ってるとか、そういう会話は学校ではそこかしこに溢れているもの。
顔見知りの男女が一緒に下校していたり、街でばったり出くわしたり、そういう場面に立ち会うこともしばしばある。
だけど自分の事で精一杯、頭がいっぱいな俺や黒部は、そういう事に気を回す余裕が無かったんだ。口を開けば背丈がどうとか筋トレがどうとか、そんな話題ばっかりだったから。
そんな奴がちょっとだけ、そういう事に気を割く気配を見せた。それがどれだけの意味を持つのか分からないけど、その気が全く無い奴にアプローチを掛けるよりはマシだろう。
まぁ、他に好きな奴は居なさそうって事で、良かったな原田。
「そういうお前はどうなんだよ?」
なんて事をつらつら考えていたら、問いがブーメランよろしく返ってきてしまった。
「へ? 私?」
虚を突かれて間の抜けた声で尋ね返す俺に、黒部は頷いて答える。
「居る訳がないだろう」
「即答かよ」
「当然、考えるまでもない」
言い出しっぺのくせに、と黒部は釈然としない面持ちで睨み付けてくるが、生憎こっちはお前らと事情が違い過ぎる。
今はまだ男を異性と割り切れない。
かといって女に走る気にもなれない。
この半端な状態には何時かはきっちりけじめを付けなければならないのだろうが、今は別の事で手一杯だ。
ふと、さっきから全く会話に加わっていない奴の存在を思い出した。
見れば太く逞しい腕を組み、やや俯いたその顔は眉間に深い皺を刻んで厳つさが何倍にも凝縮されているではないか。
何かを睨みつけるかのように険しく顰めた目元、しかしその瞳は忙しなく揺れ動き、どれ程の力が篭っているのか顎の辺りが強張って細かく震えているのが見て取れる。
これほどまでに真剣、というか深刻な形相を目の当たりにしたのは中学以来の付き合いでも初めてのことだ。
「おい、鷲尾」
その様子は黒部をしてただならぬと思わせたらしい。
恐る恐る、といったその呼び掛けるも反応は無く、こめかみを汗が一滴流れ落ちていった。
「どうした? 大丈夫――!?」
今度は俺が呼び掛けてみたが、やはり反応は無し――と思ったが、伸ばした手が肩に触れたその瞬間、びっくうっ! とまるで跳ねたような反応を見せた。
反射的に引いた手が宙を泳ぎ、唐突に訪れた沈黙が飲み込んだ息を吐く事を忘れさせた。それは数十秒続いたようでもあったし、ほんの一瞬だったのかもしれない――。
「…………あ、すまん。ちょっと考え事を」
「どう見ても『ちょっと』て面じゃねーんだが」
――苦悩に歪んだ形相を一瞬で仕舞い込んだ鷲尾と、即座にツッコミを入れる黒部にとっては、沈黙が長かろうが一瞬だろうがどうでもいいことかもしれないが。
「本当に大丈夫か? すごく悩んでいたみたいだけど」
「どうしたんだよ、お前ら。そんなに深刻な顔してたのか?」
軽く吹き出しながらそう返す鷲尾はいつものコイツで、さっきのアレは何だったんだろう、とまるで狐につままれたような気分だ。
まぁ、本人がこんな調子なのだから、俺たちが気にしてもしょうがない。
集中力の切れたその後は結局勉強には手が着かず、雑談や持ち込んだゲームで遊び倒して日が暮れた。