第四話
山も無ければ谷も無い。
中身が入れ替わって一週間が過ぎた。
学校や街路の並木道に咲き誇った桜は大分散ってしまい、薄桃色の残滓を残す枝には若々しい緑色が芽吹き始めている。
それらに目を楽しませつつ、俺は真新しい自転車を走らせていた。
時間は午前六時を少し回ったばかり。早朝の空気は少し肌寒く、運動で火照る身に心地良い。
額から噴出す汗が滝のように流れ落ち、首元までファスナーをきっちり上げたジャージの内側は汗でぐっしょり濡れている。そんなに激しく動いたつもりは無いのだけど、この量はちょっとビックリだ。
身体や生活環境の差異にも大分慣れ、入れ替わりの混乱は落ち着きを見せ始めた。
性別の違いは思った以上に勝手が違って苦労させられているが、それでもこなしていけば慣れるもの。とりわけ人間関係が今までと殆ど変わらなかったのは助かった。
でも全く同じという訳ではない。
変化の最たる自宅ではやはりというか、未だ戸惑うことばかりだ。
よく知っている人たちといえ、他人行儀になってしまうのは仕方がない。
でもいつまでもそれでは拙い、と思い切って二日前の夕飯の後にダイエットの相談を話題に出してみた。
「確かにちょっと太り過ぎとは思っていたけど、無理に頑張る必要はないんじゃないか?」
そう応えるお父さんはやや渋い表情だ。
「別に無理はしなくても良いでしょ。私は賛成よ」
対してお母さんは整った顔に微笑を浮かべていた。
「ふふっ、お父さんは過激な食事制限とか無茶な運動を想像しているんじゃない?」
「ダイエットといえばそういうものだろう?」
「ボクサーの減量と一緒にしないでよ」
お母さんの言葉で、お父さんがどんなものを想像していたのかなんとなく分かった気がした。
「そういうのは多分無理だよ。絶対続かないし」
何日も水だけで過ごしたり、ずっと汗を流し続けて無理矢理にでも体重を減らそうと過酷な減量に挑むプロボクサーの荒行はテレビや漫画で何度か見たことがある。
とてもじゃないけど、あんなのを今からやれと言われても正直困る。
よしんば成し遂げたとしても身体を壊しそうだ。
「まぁ、そうだな」
小さく頷き、お父さんは焼酎が注がれたグラスを口に運ぶ。
「それに短期間でハードにやるのはリスクが多いし、何よりリバウンドしやすいわ」
リバウンドは特に厄介だ。
痩せる事は俺の目標において前提でしかないのだから、ここで躓く事は絶対に避けなければならない。
「でも具体的にどうやればいいか、イマイチ分からないんだ」
ソファに背を押し付けると『ぎし』と“薫”だった頃には全く無縁だった軋みが耳と腰から伝わってくる。
ここ数日、この身体で過ごしてみて自分の考えがかなり甘かったと痛感した。
この身体のスペックを今更ながらに確認すると、身長172センチと女子としては割と高めで体重は95キログラムとシルエットは正しく樽。
最初はランニングなり適当に運動すればいい、と簡単に考えていた。
しかし数秒走っただけで息が上がり、頭はクラクラして運動どころではなかったのだ。
おまけに上下運動につられて腹や太ももなどの贅肉がぶるんぶるんと盛大に踊り狂うのも地味に厳しい。
おかげで体育の授業でやった体力測定は散々な結果だった。
何故にここまで肥えやがったのか、あのばかちんめ。
「ここまで身体が大きいと、下手に運動をしたら色んな所を痛めるわね」
それも身を以って確認済み、というか今も痛感しているところだ。具体的に言うと、足首と膝と腰が痛い。
つい溜息が出てしまうのも仕方の無いことだと思う。
「ある程度体重が落ちるまで、運動をしないで痩せる方法を考えた方がいいのかな?」
そう呟いたら、お父さんが何故か咽た。
「食事で痩せるって、結構辛いわよ?」
「そ、そうだぞ。それに育ち盛りの子に食事制限は認めんよ」
言葉尻に乗るように同意を示すお父さんに、お母さんは「そうね」と面白そうに笑う。
過去、食べ物に関して辛い事でもあったのだろうか。
「うーん、じゃあサウナとかで汗を流しまくるとか?」
と言ったものの、うちの近所にサウナは無いのだが。
「汗を出すだけじゃダメよ」
「出た分の水分はちゃんと補給しないといかんしな」
そ、そーなのか。しかし二人同時に駄目と言われると地味に凹むぞ。
「肝心なのは脂肪を燃焼させることだ。脂肪が燃焼されたから汗は出るのだから、その順番を間違えちゃいかん」
なるほど、そういう所は考えていなかった。
自然にコクン、と首が頷くと、お父さんは髭の濃い精悍な顔にニィと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「脂肪を燃焼させる、って言ってもどうすればいいんだろう」
「なに、難しく考える事はないさ。最初はゆっくり歩き続けるだけでもいいんだよ」
そんなもんだろうか。
ちょっと拍子抜けするような答えに俺はちょっとばかり首を捻る。
それを見てか、お母さんはクスクスと可笑しそうに笑った。
「歩いても運動をした気になれないなら、自転車で走るのもいいわよ」
自転車? と鸚鵡返しで尋ね返してしまう。
徒歩よりも早く移動するため、どちらかと言えば楽をするための道具という認識だから全く考えてなかった。
「ああ、自転車は良いな」
「歩いたり走ったりするよりも足に来る衝撃が少ないから、今のさくらには良いわね」
なるほど、そういうものなのか。
とにかく汗を出せば体重は減るだろうくらいに考えていた自分の浅さを思い知ると共に、思った以上に会話が弾んだ事に小さくない達成感を抱く。
「じゃあ、明日から自転車で走ってみるよ。ありがと」
ニヒ、と笑みが零れる。
思い切って相談してよかった、やっと入り口に立てそうだ。
「あ、待ちなさい」
やる気と若干の浮かれで高揚している俺の背に、お母さんの声が水を差す。
私の自転車はさくらの身体に合わないわよ、と。
「え?」
ソファを立とうとする腰が止まった。
「中学の時に買ってあげたのがあったんだけど、壊れたまま放置しちゃってるから錆びてしまってね」
「ああ、アレか……」
そういえば中二の夏休みに友達連中とちょっと遠出しようと自転車で出掛けた事があった。
その帰路で当時既に大柄だったさくらは、疲れからかバランスを崩して派手にすっ転んだ。
幸い、怪我は若干の打ち身と擦り傷程度で大したことは無かったんだけど、河川敷の土手を転がり落ちた自転車はチェーンが外れたりハンドルやら車輪が歪んだりと見事にぶっ壊れたんだ。
あの時は「もう自転車なんて乗らない!」って泣きじゃくるさくらを宥めながら帰ったっけ。
「そういえば忘れてたなぁ……」
ばつが悪くなり、二人から視線を逸らして頭を掻く。
その遠出の言いだしっぺは俺なんだ。
「それじゃ、明日買いに行ったらいいさ」
そんな俺の内情を知ってか知らずか、お父さんは軽い調子でそう言った。
「そうね、そうしましょうか」
「い、いいの?」
にこやかに相槌を打つお母さんに思わず聞き返してしまう。
「折角、娘がやる気になっているんだ。それくらいは安いものさ」
「そういうこと。その代わり、自分で言い出したのからさ、きっちりやり遂げなさいよ?」
二人から向けられる笑顔がじんわりと胸に染みてくる。
同時に奥の奥に身を縮めたモノがじくり、と痛む……。
それが何か分かっているけれど、今は『両親』に「ありがとう」と笑顔で答えるしかなかった。
翌日、学校から帰った俺はお母さんと一緒に近くの自転車屋に行き、ピンクシルバーのスポーティな自転車を購入した。
「へー。そんなこと始めたんだ」
今朝方の話をすると、原田は少し驚いたようだった。
「一週間くらいはこの程度で身体を慣らして、少しずつメニューを加えたり変えていくって言ってたかな」
「朝からそんなことやって疲れないの?」
ちょっと不安げに口を挟んだのは薫だ。その表情がダイエットの話題を出した直後のお父さんと重なるのは何故だろう。
「今日始めたばかりだから、まだ分かんねー。それよか汗の量の方がよっぽど問題だぜ」
そう答えて、今朝のげんなり感が蘇る。
三十分程度自転車を漕いだだけだったのにジャージのファスナーを下げた途端に湿った熱気がもわっと立ち上り、シャツは絞れるほどに汗を吸い込んでいた。
これにはお母さんも思案顔になり、小まめに水分を摂るようにと出掛けにお茶の入ったペットボトル一リットル分を貰った。
「あたしって汗っかきだからねー」
腕を組んで「うんうん」と頷く薫だけど、早くも他人事かよ。
あれはもう汗っかきというレベルに収まるモンじゃないと思うのだが。
「そういえばお前は随分気楽そうじゃねーか」
思えば不安のあまりぼろぼろ泣いていた筈なのに、翌日にはケロっとしていたよなコイツ。
強気に前向きにとやたら気合を入れた俺の方がどう見ても疲れている。
「へ? あー、なんていうか、男の子って楽だよね?」
ケラケラ笑うこいつを見ていると、割と真剣に語っていた俺がアホみたいに思えてきた。
殆ど毎日、下校する時に神崎家には立ち寄っているのだけど、思えば母ちゃんもあんまり気負ったように見えなかった。
「帰ったらまたトレーニング?」
「いや、今日は朝ので終わり」
「あ、そーなんだ」
「今日って言うか、しばらくはそんな感じ。トレーニングと体育の授業以外では必要以上に運動しなくていい、とか言われたよ」
「へー、なんか意外~」
興味津々にあれやこれやと聞いてくる原田は、どうやら冬の間についた無駄肉の処理に頭を悩ませているらしい。
一見して去年の秋と今とでどう違うかと問われても判別出来るものではないのだけど、本人としては大問題なのだろう。
ふと、会話に加わらずぼーっとこちらを見ている薫の視線に気付く。
そこについさっきまでの明るさは無く、まるで抜け殻のような虚ろな瞳がこちらへ向いていた。
「薫? どうした?」
ちょっと広めのおでこに軽くデコピンしてみる。
すると我に返ったらしい薫はわたわたと慌て、両手で額を庇うように押さえた。
…………。
「な、なに? どうしたの?」
円らな瞳を白黒させる薫。
それを正視することに堪えられず、明後日の方向へ顔を向けて顰めた眉間を揉み解す。
「ん~~、気持ちは分からなくは無いかなぁ」
クスクスと笑いを漏らす原田だけど、俺に注ぐ眼差しは妙に生温い。
いや、ありえんだろう。
まさかこの俺が、うろたえる“俺”を見てちょっと可愛いだとか……不覚にも程があるッ!