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第三話

「えっと、改めてよろしくお願いします」


 床に正座し、三つ指を突いて深々と頭を下げる。


「うん、こちらこそよろしく」

「ええ……、でも、変な感じね」


 対面に座っているのは薬王寺ご夫妻。今日から『親』と呼ぶ人たちだ。

 二人は多分笑顔を浮かべようとしているのだろうが、微妙に笑えていない。

 十七年間共に暮らしてきた娘にこんな他人行儀な挨拶をされれば、そりゃあどう受け止めれば良いのかと困るだろう。

 俺だって昔からよく知っているとはいえ、変な気分なのだから。

 娘さんを下さいって状況に似ているのかもしれないけど、なんか微妙に違う気がする……。


 あれから日が落ちた頃に両家の家族が神崎家に集まり、俺たちの現状を説明した。

 父ちゃんと兄貴、さくらの父ちゃんが事態を飲み込むまでには結構な時間を要したけれど、仕方のないことだろう。むしろ全員から一定の理解を得られたのは幸運としか言いようがない。

 本当はもっとたくさんの事を話し合わなければならないのだけど、夜も更けていたので差し当たっては今まさに直面している『俺たちはどちらの家で暮らすべきか』という問題を解決することにした。

 その結果が今の状況である。


 俺とさくらはそれぞれの『中の人』に準じる案を主張した。

 身体が変わろうと俺たちの意識や記憶はそのままなのだから、生活環境を身体に合わせる必要は無いと考えたのだ。

 だけど他の家族は揃って反対した。

 理由としては、まず世間体だ。

 いくら付き合いが長く、家同士が親しいといっても、ある日突然それぞれの家の子供が入れ替わって生活を始めたら、ご近所に不審がられるのは間違いない。

 こんな事情を一々説明するのも難しいし、それで理解を得られるとも限らない。さらに変な噂でも流れてしまったら最悪、この町で暮らしていくのも困難な状況に追い込まれる事も考えられる。

 次に戸籍や保険などの社会的な個人証明は『身体』に付随しているということ。

 いくら俺が『神崎薫』であると主張しても、社会的には『薬王寺さくら』として扱われるという事だ。

 こういったものを書き換えるためには通常、裁判所に告訴して認めさせる必要がある。

 それには俺たちの訴えが正当であると客観的見地から証明する根拠を提出しなければならないが、この『中身が入れ替わった』という状況を何処の機関にどういう形で証明させるのか。

 現に病院があの対応なのだ、それを用意するのは非常に難しい。もしそれを実現させるとしてもかなりの時間が掛かるだろう、というのが他の家族の見解だ。


「まぁ、ずっとこうしているのも何だし夕食にしましょう。『さくら』はお風呂に入りなさい。その間に準備をするから」


 小母さん――じゃなかった、お母さんの言葉に頷き返して俺は席を立つ。

 幼い頃からよくお互いの家に上がり込んで遊んでいただけに、何処に何があるかは大体把握している。リビングから廊下、そして洗面所兼脱衣所へと迷いなく歩き、明かりを点けて後ろ手に戸を閉めた。

 目の前に現れた洗面台の鏡には、ブラウスとキャメルカラーのプリーツスカート姿の“さくら”が疲れた顔で立っている。

 よく知った顔だけど、常にあったほんわかと柔らかい温かみが見えない……まるで別人のようだ。

 胸の奥が痛くなる。

 そこにあった何かが欠け落ちて、そこから血が溢れて滲むようにじくじく痛む。

 キュッと歯を噛み締めてそれを堪え、やや乱暴にブラウスを脱ぎ捨てる。

 きっとこういう思いはこれから何度も繰り返すに違いない。でも、乗り越えると決めた。俺がこんなところで躓いていたら、あいつも前に進めない。


 着ている物を全て脱いで浴室に入る。

 昼間に散々見回し、挙句にサイズ的に着れる物が無くてブラウスが乾くまで半裸で過ごしたのだがやっぱりこっ恥ずかしい。

 ガキの頃からよく知る幼馴染だし、色気も何も感じた事は無い。酷いかもしれないけど、ぶっちゃけてしまえば異性として意識した事も無い。

 だから恥ずかしいというより気まずいと言った方が正確かもしれない。

 しかしこれから付き合っていかねばならない『自分の身体』だ。それによく知らなければ、俺があいつに宣言したことを実現できない。

 ええいッ、そもそもグジグジウダウダと悩んでいる事が俺の性に合わねーんだ!

 ぶるぶるっ、と頭を左右に激しく振り回し、両手で挟むように頬を張る。

 すげー痛い。しかもちょっと振り回しただけなのに頭がクラクラする。涙がじわっと滲んだのを自覚した。

 でも沈んだ感情も一緒に少し飛んでいった、よし!


 何はともあれ身体を洗おう。昼からずっと汗塗れで不快指数はうなぎ登りだったんだ。

 そういやあいつ、かなり暑がりだったなぁ。持ち歩いているのもハンカチっていうよりミニタオルだったし。

 俺は殆ど汗が出ていなくてもさくらは汗だくになっていたことは結構あったし、やっぱり太ってるのが原因なのかね。

 シャワーの温水を顔に受けると、肌にべったり乗った脂と汗が溶けて流れていくような気がする。それだけでも顔に感じていた突っ張り感が薄れていくようだ。

 一頻り顔に浴びていた温水を同じく汗塗れの首に、そして肩へと下げていく。そこから下は手で湯を掬って掛けないと満遍なく濡れてくれない。

 “俺”の頃は頭から浴びれば大体全身が濡れてくれたのに、面倒くせえ。

 しかし乳がでかい、そして重い。下から片手で掬い上げてみたら割とずっしりくる。ふにふにぷにぷにと不思議な揉み心地だ。

 そして腹もでかい。前にも横にも素晴らしい存在感だ。あまりに自己主張が強すぎて、その下が見えねえ。

 乳の揉み心地は癖になりそうだけど、脇腹のぶにぶに感はそこはかとない危うさを覚える。


 腹の下は見えないが、当たり前だけどブツがねえ。

 慣れ親しんだ存在感の喪失は寂しさだけで片付けられない、何とも言えないものが込み上げてくる。

 でもそれ以上に、今の俺は危機感を覚えていた。

 確かにブツは無い。無いのだけど、そこに隙間は無い。

 足をくっつけて立っているワケではない、普通に肩幅に開いているだけ。なのに股から太ももにかけての肉がぶつかり合っている。

 これは走れるのだろうか。

 走れない事はないだろうけど、ずっと擦れ合ってたらまずそうな気がする。

 元の身体を基準に運動すればイケるだろうとか考えていたけど、ちょっと甘く見ていたかもしれない。



 色々あり過ぎた日は明け、お母さんに起こされて慌しい朝の時間が始まった。


「眠い……」


 革靴に足を入れて立ち上がるも、頭は傾げて身体も一緒に傾いてしまう。


「昨日の今日だし、あまり無理はしないようにね?」


 気だるい様子にお母さんは心配してくれているけど、頭痛なんかは無いし眠いだけだから多分大丈夫だろう。

 でも下手に強がっても余計に心配させるだけだろうから、とりあえず頷いて返しておく。

 いってきます、と扉を開いて外へ歩み出ると晴天の日差しに一瞬目が真っ白に眩んだ。


「あ、おはよー! ちゃんと起きれたんだ?」


 家から出て少し歩くと、前から手を振る小柄な人影がやってきた。

 一瞬、誰か分からなかったけど、よく見たら“俺”だ。こう、第三者の視点で自分を見ることなんて殆ど無かったから全然慣れない。

 それにしても改めて見ると、小さいな……。


「おはよう。早めに起こして貰ったんだけど、結構ギリギリだった」

「あははっ、“あたし”って朝に弱かったからね」


 言われてみればさくらの朝は大体ぼーっとしていたっけな。少なくとも目の前のようにハツラツとしていた記憶はあまりない。

 血圧が高い低いは朝に強いとあまり関係ないのかもしれない。


「ポニテにしてるんだ」


 こちらを見上げる“俺”――薫は後ろで結った髪を見て少し驚いた声を上げた。


「そのままだと首と肩が暑かったからさ」


 歩く度に後ろでぴょこぴょこ揺れる髪の束を指で触れ、朝の出来事をふと思い出す。

 最初はゴム紐だけで括ろうとしたのだけど中々上手くいかなくて、それを見かねたお母さんがブラシとヘアピンで纏めてくれたのだ。

 他にもブラジャーの着け方もよく分からなかったから、適当に着けていたのをそのまま直して貰ったりと初っ端から大変だった……。


「朝からえれぇ疲れた……こんな事、毎日やらなきゃいけねーのか」

「そーよぉ。それに比べたら男の子は楽だよねー」


 くっそ、気楽に笑ってくれやがる。


 ここは楽、これは面倒、こーいうのがちょっと分からない。

 そんなお互いの戸惑いを話しながら歩いているといつの間にか高校に着いていた。

 昇降口でまず自分の上履きを探すところからいきなり躓き、職員室で担任に昨日の顛末を話して教室へ。


「あ、来た!」


 教室に入るや高い声が鼓膜に鋭く突き刺さった。

 その声に反応するように教室中の視線がざっ、とまるで音を立てるような勢いで集中し、我知らず足が後ろへ後退しそうになる。

 あんな騒ぎを起こしたばかりだ。ある程度の予想はしていたけど、覚悟がちょっと足らなかったかも。


「真紀ちゃん、おはよー!」


 傍らから上がった能天気な声に一瞬呆気に取られてしまった。

 前々から暢気なところはあったけど、この状況に物怖じしないとは……。

 しかし俺以外の奴らはまた違った反応を見せた。

 こちらへ駆け寄ろうとしていた女生徒――原田真紀をはじめとしたいつもの面々はもちろん、教室中の連中が凍りついたように目を丸くしている。

 そりゃあそうだろう。自分の事をこう評するのは卑下するようでいい気分じゃないけど、神崎薫はあまり愛想のいい奴ではない。むしろつっけんどんで目立つのを嫌い、人付き合いはあまり得意ではない方だと自覚している。

 そんな奴がパァと咲くような笑顔で明るい声を発しているのだ。これを異様と言わずして何と言う。


「どーしたの?」


 そんな連中の様子に、薫は疑問符を浮かべるが如く小首を傾げる。

 なんだろう、この微妙な生温さ。ふと視線を巡らせれば、口元や目尻を微かに引き攣らせている奴がちらほら見受けられる。


「い、いぃぃぃいぃ、いや、ど、どうしたのはこっちの台詞なんだけど?」


 ようやくフリーズ状態から復帰出来た原田が、盛大にどもりつつも何とか言葉を紡ぐ事に成功した。


「え? あ、そーか」


 原田の言葉、というより俺を見上げてようやく周囲が何に戸惑っているのか理解が及んだらしい。それでも脳天気に「あはー」と笑っている辺り、こいつの神経は思ったよりもずいぶん図太かったのかと認識を改めさせられる。


「悪い。こいつ、朝から妙にテンションが高くてさ」


 フォローを入れたつもりだったんだけど、奴らに更なる追撃を食わせてしまったようだ。薫に向いていた視線が一斉にこちらに突き刺さる。

 ぐぬ……っ、なんつー居心地の悪さだ。やれるもんなら回れ右して全力疾走してぇ……!



「マジで……?」


 逃げたい衝動を堪えに堪えて教室に入り、事情を説明すること十数分。

 薫の席の周りに集まったクラスメイトは唖然とし、総じて口を半開いた間抜け面を惜し気なく披露してくれた。


「ネタならさっさとぶっちゃけてーとこだけど、残念ながらマジだ。おまけに戻れるかどうかもさっぱり分からん」


 胸の前で腕を組んで深く溜息を吐き出し、渋面の俺とニコニコ顔の薫を険しい目付きで見比べる原田に止めを刺す。

 ついさっきも似たようなやり取りをしてきたばかりだ。ただ、あちらの方は信じたかどうか非常に疑わしいので、後日、親を交えて話し合う事になっている。


「普通だったら信じらんないけど……こんな可愛すぎるカンちゃんなんてありえないからね……」


 そう答えつつ、円らな瞳で小首を傾げる薫をまじまじと見詰めて原田は唸っている。


「ありえないんだけど、違和感が全く無いのがまた……」

「違和感仕事しろって、こういう事か」


 鷲尾と黒部はとても複雑そうな顔だ。

 そういえば、と家の前で合流してからここまでの道程を思い出してみても、元々の自分を第三者の目で見るのを慣れないと思いはしても、どういう訳か違和感は覚えなかった。

 改めて薫を見てみれば、髪をいつものように逆立てていない以外は特に目立つ変化は無い。いつもと同じブレザーの制服を着て、ただ自然に椅子に座っているだけなのに“俺”とは明らかに違う。


「でも薬王寺の方は違和感抜群だな」

「うるせー、昨日みたいに振り回すぞ」


 俺へ視線を向けるやニィ、と底意地悪そうに口の端を吊り上げる黒部へほぼ反射的に悪態が口を吐く。

 この野郎、昨日はぐったりして割とヤバめに見えたんだけど何の問題もなく復活してやがる。そのバイタリティがウザいし、何処か楽しそうなのも激しくウザい。

 しかしこいつの言うことは尤もだと思う。


「中身がカンちゃんならなるほどって思うけど、口の悪いさっちゃんって何かねぇ……」


 苦笑する原田の言葉には頷かざるを得ない。

 正直な話、こんなガラの悪いさくらは俺も嫌だ。とは言えさくらの真似をするってのも気が引ける。


「まぁ、その辺はおいおい慣れていくしかねーな。あと、呼び名とかは身体に合わせるって事になってるから」


 これは昨日の両家族会議で決まった事。住む場所を身体に合わせたのだから、そこも徹底しようということになったのだ。

 色んなモノを失っていく気分でかなり抵抗があるのだけど、もうやけっぱちだ。

 それから担任が教室に来るまで散々弄り倒されたけれど、それはいつものやり取りと特に変わる事はない。

 クラスの連中もその空気を感じ取ったのか奇妙に張り詰めた空気は次第に緩んでいき、いつの間にか普段の騒がしさを取り戻している。

 その様子に、内心ホッと胸を撫で下ろす俺だった。

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