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最終話

最終話はいつもより増量にてお送りします。

「薬王寺先輩! す、好きです! 付き合ってください!」

「嫌よ」


 彼にとっては一世一代の大勝負であろう告白を、言葉短かに斬り捨てる。

 目の前の男子生徒は顔を盛大に強張らせ、大きく見開いた眼が「何故!?」と問い詰めて来るが、落ち着いて考えれば分かりそうなもの。


「あのね、何処の誰とも知らない人にいきなり『付き合ってくれ』なんて迫られて、OKする子が居ると思う?」


 尤も、何処の誰か知っていても付き合う気は無いけどね、と心の中で付け足しつつ呆然と立ち尽くす彼をかわして昇降口へと足を進める。

 好奇の視線が降り注ぐ中を突っ切って歩くと、下駄箱の前でニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべた真紀に出くわした。


「清々しいまでにバッサリやったわねぇ」

「こんなに人目を集める時と場所で行動に出た勇気だけは認めてあげる」


 胸の内に沸いた苛立ちを溜息と共に吐き捨てる。

 先程の一幕は朝の校門という一日の中でも特に人通りの多い時間と場所でやらかしてくれたのだ。


「あのコ、立ち直れるかしら」

「さぁ? 知ったことじゃないわ」


 彼女の口振りからすると、さっきのは下級生だったか。こう毎日続くと何年何組の誰だとか、いちいち確認するのも面倒くさい。

 清水の舞台から飛び降りるとか背水の陣とか、とにかくものすごい決意の末に出た行動だったのは何となく分かる。それだけに断られたダメージも凄まじいだろう。

 でも罪悪感などは全く覚えない。それどころかはっきり言って迷惑千万、もういい加減うんざりだ。

 革靴を脱いで上履きに履き替えようと自分のスペースに手を伸ばし、ふと気付く。そこには上履きだけしかない。

 ふと隣に佇む真紀に視線で問うと、彼女はとても良い笑顔で答えてくれる。

 それにつられて冷たく引き締めていた頬がふ、と微かに漏れた息と共に緩んだ。


「ありがと」

「いいってことよ~。ていうか、キモイのとか黒くて危険なのとか私も見たくないしね」


 そう言って苦笑する彼女と教室へ向かいながら、良い友達に恵まれた幸運に感謝した。



 風にまだ肌寒さが残るが、ぽかぽか暖かい日差しは心地良い。

 長かった冬は過ぎ去り、今日は新年度を迎えた最初の一日だ。私たちにとっては高校生活最後の一年の始まりでもある。

 入学式は明日なので新入生はまだ居らず、そのため道行く生徒の密度は目に見えて薄い。

 去年を振り返ると、色々ありすぎた。あんなに奇妙奇天烈で密度の濃い一年なんてこの先あるのだろうか。

 願わくば今年は平穏無事に過ごせる事を、と祈るばかりだ。


「そういえば薫見なかった?」

「カンちゃん? 見たよ、ってそういえば今日は一緒じゃないんだ」

「うん。迎えに行ったら、先に出ちゃったって」


 ふと、色々ありすぎた元凶の一翼の事を思い出す。

 校門に辿り着くまではしっかりと覚えていたのだけど、さっきの出来事ですっかり忘れていた。

 迎えに行くと歯磨きの途中だったというのは割とあったけど、登校の準備を終えてすぐに出発出来る状態で待っているのが常だった。

 それが今日に限っては、だ。

 今日から学年が一つ上がる事から、あの子なりに何か思うところでもあるのかもしれない。


「毎日最上階までって、結構面倒ね」

「時間ギリギリで駆け込んでくる奴なんかは特に、ね。あなたがお弁当を作ってくるようになってから、余計に酷くなってない?」

「あはは……そうかも」


 誰のことかは言わずもがな。

 去年と違い大規模なクラス替えが行われていないので、今年も騒がしさは変わらないようだ。そしてそれはきっと、十数分後にこの目で確かめる事になるだろう。

 今日は何秒前セーフか、はたまたアウトで新年度早々の説教か、などと詮の無い事を考えていると、階段を上りきったところで見知った大男が顔を俯かせ、ごつごつと逞しい手で額を押さえている姿が見えた。


「おはよ~、ワッシー。そんなトコで何してんの?」


 真紀が呼び掛けるが、反応は無い。

 いつにない様子に二人して怪訝に顔を見合わせ、鷲尾に歩み寄る。そして目を見開き、顔の筋を強張らせて脂汗を垂らした凄まじい形相を認めるや足が止まった。

 何か思い悩んでいるようだが、その様子がただならない……何だろう、こういう顔を前にも見たような気がする。

 話し掛けるのは結構な勇気を要するが、精悍な顔つきでしかもガタイの良い男がこんな表情で俯いていたら悪目立ちし過ぎる。

 今も遠巻きにこちらを窺う生徒が何人か確認出来るのだ。変な噂が立つ前になんとかしないと。


「ど、どうしたの? 何かあった?」


 しかし呼び掛けには全く反応を見せる気配は無い。

 仕方がないので揺さ振ってみようと肩に手を伸ばしたその時――。


「あれ? ワッシー、こんなトコに居たの?」


 ――耳慣れたほんわか柔らかくも悪戯っ気の混じったソプラノが鼓膜を震わす。

 その瞬間、指先が触れた鷲尾の肩が飛び上がらんばかりに大きく跳ねた。

 驚いて引っ込めた手を胸元に抱き、改めて鷲尾を見据えるが、奴は何故か肩を強張らせて背を向ける。

 それはまるで何かを拒絶しているかのよう。

 な、何なの? こいつ。


「薫? こいつどうしちゃった、の……?」


 私より先に来ている薫なら何か事情を知っているかもしれない、と振り向いて、絶句した。


「さくらちゃん、おはよー。ワッシーが何か変なの、どうしてかしら」


 耳に心地良い軽やかな声、緩やかに波打つやや赤みがかったセミロングの髪、コテンと傾げた可愛らしい小顔。違和感が匙を遥か彼方へ全力投棄して久しい今となっては、目にも耳にも馴染んだ小柄な女生徒の姿がそこにある。

 そう、女生徒――昨年度まではかなり曖昧ではあったが辛うじて『男子生徒』であったはず。しかしこう(・・)なってしまってはそう認識することが間違っているのではないかと思えてしまう。

 この大ばかちんは女子の制服をキッチリ着こなし、今までギリギリで越えなかった一線をついに踏み越えやがったのだ。



 幸な事に、我が校に異性の制服を着用してはならないという校則は存在しない。

 加えて薫の特殊な事情からか、目に見える範囲で問題視するような気配は伺えなかった。

 真紀曰く――。


「カンちゃんは去年の夏から体育も女子でやってたからねぇ。今更って事じゃない?」


 ――との事。

 確かに、当時は色々思うところはあったが、今となってはあまりにも自然過ぎてすっかり忘れていた。それどころか体育祭やクラスマッチなどのイベント事でも当然のように女子枠に入っていたような覚えがある。


「あいつ男子の制服着て女子トイレとか更衣室とか入ってたし、そっちの方がマズかったんじゃね?」

「それに“中の人”は“さっちゃん”だからねー。この方が自然って言えばそうなのよ」


 黒部と真紀の二人はこの事を肯定的に受け止めているようだ。

 私とあいつの“中身”が入れ替わってしまった件を学校及びクラスメイトたちがどの程度信じたのかは、正直なところ図りようがない。

 だけど女子制服で登校するようになって数日が過ぎても奇異の目を向けたり排斥するような動きがないことから、薫の“現状”は概ね受け入れられている、と見るべきだろう。

 つまり表立って動揺しているのは私と鷲尾の二人だけということか。

 鷲尾は新学期に入って以来、あからさまに距離を取りはじめていた。

 薫どころか私や真紀らともまともに顔を合わせようとせず、休み時間などにはいつの間にか姿を消してさえいる。

 授業中に盗み見れば心ここに非ず、と虚脱した顔でぼんやりしていたし、昼休みに非常階段の頂上で見つけた時は思い詰めたような苦しげな表情でずっと俯いていた。

 あの様子から、あいつは私以上にショックを受けていたように思える。

 とはいえ私に出来ることは何も無い。

 こればかりは時間を掛けて本人が乗り越える以外に解決法はないのだと思う。

 私としても納得はしていないが、現状を受け入れようと努力している真っ最中だ。



「こんな所に呼び出して、何の用かしら?」

「いや、分かってんだろ」


 昼休みの校舎裏。

 今日の挑戦者は一年生の時に同じクラスになったことのある元同級生だ。

 言葉はやや強気だけど内心の弱気を表すように目はフラフラと落ち着かず、無理矢理浮かべたような笑みは目元や口元が引き攣っていて気持ちが悪い。


「あなた正気? 今年は受験でしょう」


 目を細めて冷たく見遣ると、彼は決まりが悪そうに眉を顰めた。


「いいじゃねぇか、付き合うくらいよ。どーせ狙える所は大体決まってんだ、ガリガリ気張るなんてダセーだけだって」


 なるほど、彼の言い分も見方を変えれば理のあることと言える。

 言い方は悪いが、分を弁えずに高みばかりを目指して何もかもを犠牲にする行為はあまり賢いとは言えまい。


「へぇ。あなた、結構良い事言うじゃない」

「そ、そうだろ!? 人生は楽しんでナンボだって! だからさぁ」

「でもお生憎様、私はちゃんと頑張れば手の届きそうな所に目標を定めているの。他に気の合う子を誘ってあげてちょうだい」


 勢いづく彼の出鼻を言葉を被せて挫き、薄らと微笑を湛えつつ先程よりも温度の下がった視線で射貫いて二の句を次がせない。

 言葉を詰まらせ、その気勢を削ぎ落としたのを見届けると静かに踵を返して立ち去る。

 別に恰好付けている訳でも、男を振った自分の手管に酔っている訳ではない。

 少しでも隙を見せれば追い縋ってきたり、物影から機会を伺っている新たな挑戦者が現れてしまうのだ。



 何人か人の気配がする方とは反対側へ歩を進め、校舎の角へ身を隠すと胸の内に溜まっていた息を深々と吐き出した。

 新学期が始まって一週間ほどが過ぎ、新入生もが参戦し始めた告白玉砕イベントは更に加速している。

 朝昼夕に必ず一人は現れ、酷い日は一日に五、六人と立て続けに来ることもある。

 そして非常に不便なことに、下駄箱は本来の機能を果たせなくなった。

 こちらは思いの丈を綴った文よりも嫌がらせの方が割合多いので、郵便受けよろしく放り込まれた封書類は野外清掃用のトングで掴んでごみ箱へ直行。下手に素手で掴むと内容物で汚れたり、怪我をする恐れもあるからだ。

 悪戯をされては敵わないので、今は履いてきた靴をシューバッグに入れて持ち歩き、上履きは毎日持ち帰ることにしている。

 面倒臭い。

 こっちは誰とも付き合う気は無いのに、勝手な想像力を働かせて嫉妬するとか勘弁してほしい。

 誰ぞ意中の男が居て、そいつが私に執心しやしないかとビクビクするくらいなら、告白でも何でもさっさとやってモノにすればいいのに。

 むしろそうしてくれれば玉砕アタック敢行者が減ってくれるから私も助かる。だから是非やってくれないか、と切に願うものだ。



 はぁ……、ともう一つ大きな溜息を吐く。

 そして視線を上げた先で奇妙なものを見つけた。

 いや、見つけたというのは正しくないのかもしれない。何せそれ(・・)は最初からそこ、つまり目の前に居た筈なのだから。

 そいつは非常階段下に設置された掃除用具倉庫の扉を背に息を潜め、首を伸ばして角の向こうを窺っているのだ。

 誰がどう見ても変質者である。

 しかもそいつが良く知る男、しかも少々気に掛かっていた人物であれば頭が痛いどころではない。

 身体をこちらへ向けているのに、目の前に私が現れた事に全く気付いていないのは本末転倒もいいところだ。

 ここに逃げ込んだ時点で気付けなかった私が言える筋合いではないが、もう少し周囲に注意を払うべきではなかろうか。


「鷲尾。おい、変質者W」


 ここ数ヶ月鍛えてきた口調を完全に忘れ、低く抑えた声で呼び掛ける。

 しかし、というか予想通り反応は無し。数日前に見たような鬼相に脂汗をびっしり浮かべ、ただ静かに息を殺して角の向こうへ意識を注いでいる。

 向こうに何があるのだろうか。と気にはなるが、それ以上にこの男の奇行を見過ごす訳にはいかない。

 鼻から息を大きく吸い込み、細く長く吐き出していく。肺の中の空気を吐き尽くしたらもう一度、大きく息を吸い込み――。


「ふッ!」


 ――息を胎の奥へ押し込むかの如く力を溜め、地を踏み、力を抜いた全身の筋肉を一点へ向けて撓らせ、全ての指を曲げて平に並べた両の掌を思い切り突き出す!

 体格が乏しく、力も弱かった“俺”でも相手を怯ませられる一撃を、とかつて鷲尾の叔父さんが教えてくれた技だ。実戦で使う機会は無かったので、硬く分厚い筋肉を鎧うこの大男に通用するかは分からなかったが。


「ぶふぅ――ッ!?」


 当たり所が良かったのか悪かったのか、鳩尾よりやや下ら辺に掌打を叩き込んだ途端に鷲尾の顔が青褪め、脂汗が倍増した後に肺の中の空気を盛大に吐き出した。

 それでも音の発生を最小限に止めているのはさすがと言う他は無い。あの叔父さんや歴史を感じさせる日本家屋を鑑みるに、こいつの先祖が名のある武芸者だったと言われたら驚きはしても納得するかもしれない。

 それはともかく鳩尾辺りを庇うように身体を折った鷲尾がかなり苦しそうに、そして信じられないものを見るような目でこちらを凝視してくる。

 若干血走った目を見開いてこっち見んな。ちょっと、いやかなり怖いから。


「や、やくおう、じ……おまへ……なんつー……」

「うん、すまん。やりすぎた」


 ノーガードどころか完全に不意打ちで全力篭めたのはやりすぎた。テヘっ、と薫みたいに小首を傾げてちょっぴり舌を出してみても、多分許してくれないね! やんないけどさ!



「で? なんでこんなトコでストーキングミッションなんてやってんだ、変質者W?」

「だっ、誰が……ぜー……ぜー……、誰が変質者か……!?」


 荒げた息を整えながら静かに怒鳴ってツッコむという芸当を涙目かつとっても苦しげにやってのける鷲尾義晴、十七歳。そこに痺れないし憧れもしないけれど、根性は素晴らしい。

 しかもこちらの質問には答えることなく、再び壁にへばりついて角の向こうを窺い始める始末。

 もう一発ぶち込んでやろうかしら。

 ちょっとだけ黒い思考が頭を過ぎるが、それを実行してもさっきのやり取りが繰り返されるだけのような気がしたので思い止まる。

 となればこの男がこれほどまでに執着しているモノは何だろう、と疑問と共に興味が湧く。なので私も鷲尾の影から角の向こうを覗き見てみることにした。



 非常階段の側には人影が二つ。

 一つは中肉中背の男子生徒。

 もう一つは平均的な身長の女子生徒。

 声はここまで届かないが、男子生徒は緊張した顔で何かを訴えかけているように見える。

 それに対し、女子生徒は何だか困ったように眉尻を下げ、曖昧な笑みで応じている。

 つい先頃、私自身が切り抜けた光景がそこにあった。

 女子生徒はこういった事柄にあまり経験がないのか、男子の勢いに圧され気味の様子。それを隙と見たらしい男子は更に攻勢を強めていく。

 ギリ……、とすぐ近くで歯が軋む音がした。

 こんな場面をコソコソと盗み見るのは悪趣味極まる。でも、私としてもこの一幕からは目を離せなくなっていた。

 やがて男子の押しに耐え切れなくなった女子生徒は大きく後退り、深々と頭を下げて小走りで逃げていく。

 お世辞にも速いと言えない彼女を男子生徒が追い掛けようとするが、タイミングよく起こった物音に彼はギョッとこちらを振り向いた。

 その隙に女子生徒は完全に逃げ切れたようで、男子生徒は忌々しげにこちらへ視線を向ける。が、やがて諦めたらしくトボトボと歩いていった。

 それを見届けると、二人して大きな溜息を吐き出した。


「お前なぁ……見つかったらどうするつもりだったんだ?」

「別に? 私、ああいう強引な奴、大嫌いだもの」


 と、革靴の爪先でコンコンと倉庫の鉄扉を軽く小突く。さっきの物音の出所は言わずもがな。


「それよりも、さっきの……薫だよね」


 遠目でも分かる赤みがかったゆるふわウェーブの長い髪とぱっちり大きな目は見間違えようがない。

 今までは曲がりなりにも男子制服で通していたからああいうのとは縁がなかっただろうが、容姿と服装の不和が無くなったこれからはそうはいかないだろう。近しい間柄、少なくともクラスメイトや隣のクラスの生徒辺りなら惑わされる事は無いだろうが、その素性を初見で見破るのはまず不可能だ。

 しかも想いは絶対に実る事が無い……ある意味、私なんかよりよっぽど性質が悪い。

 面倒な事になった、と思う。さっきの逃げの一手からして、私のそれもまだまだ経験不足で完璧とは言い難いが、言い寄る男の躱し方を教えておく必要がありそうだ。


「ああ、これで三人目だ」

「……はい?」


 反射的に鷲尾を見上げた私の顔はどんな間抜け面だっただろうか。

 既に隠れるような真似はしていないがその目は二人が居た辺りに留まり、太い眉の間には深い溝を刻んでいる。

 こんなに苛立っているこいつを見たのは、多分初めてのことではないだろうか。

 いや、それよりも引っ掛かったことがある。


「なんで人数知ってんの?」


 問うた瞬間、彼の時が止まったかの如くカチンと硬直した。

 何かの儀式と化しつつある私の方はもう数える気にもならないが、一週間で三人とは中々のハイペースではなかろうか。

 それを知っているこの男は一体何をやっているのか。

 自分の目つきが次第に胡乱げになっていくのが自覚できるにつれ、鷲尾の表情もますます強張りの度合いを増していく。

 生温いというか張り詰め切らないというか、何とも微妙な空気が私たちの間に漂う。


「え、ええっと……まさか、そーいうこと?」


 沈黙に耐え兼ねた私の口から、微妙に上擦った声が出た。

 自分でもどういうことなのかなんて、整理も認識もしていない。しかし鷲尾が目を逸らしながら、でもはっきりと首を縦に振った事で無意識にぼやかしていた仮定が明確な輪郭を形取っていく。

 まさか最も身近なところでトチ狂ってしまった奴が居ようとは……!


「何時から?」

「正確な時期は自分でも分からん。でも黒部と原田が付き合い始めた頃には気になっていたような覚えがある」


 あいつらの事が切欠で意識し始めたということか。「最初から」などという答えが返ってこなかったことが、ほんの少しだけど動揺した心に安堵をもたらしてくれた。

 大きく深呼吸をして揺れる心を強引に抑えつけ、ややきつい目付きを意識して目の前の大男を正面から見据える。



「それで、これからどうするの? ずっとこうやってストーキングを続けるつもり?」


 私のややきつめな問い掛けに鷲尾は喉の奥で短く呻き、苦渋に満ちた表情で俯いた。

 別に苛めるつもりや、非難するつもりがあるわけではない。なんと言っても私とあいつが入れ替わってしまった事が原因なのだから。

 だけどこの事を曖昧なままにしておくのは良くないと、頭のどこかで警鐘を鳴らすものがある。

 再び沈黙、ただし今度のは重く息苦しい。

 どれくらいそうしていたか、顔中を汗塗れにして逡巡し続けていた鷲尾が俯いていた顔を上げる。その目は意を決したように、私の顔を真っ直ぐ見下ろした。


「いや、グダグダ悩むのはもう止めだ。駄目で元々、当たって砕ける」

「そ、そう……」


 まるで槍のような鋭い眼光をまともに浴びせられ、私は一言だけを辛うじて返す。

 こんなに真剣な目で言われたら、止めるなんて出来ないじゃないか……。


「でも、お前は良いのか?」


 問われ、自分が顔を顰めたのを自覚する。

 どうかと言われれば、良い筈がない。

 第一、不毛であるし、アレは元々、私の身体だ。もし戻ってしまった場合を考えると非常に不味い事になるだろう。

 だけど、いつまでもこのまま(・・・・)という訳にもいかない。真剣に向き合わなければならない時が来たということだ。


「それは私とあの子の問題。あなたが気にする事じゃないわ」


 皺が寄った眉間を解し、軽く笑って見せる。

 すると鷲尾も「そうか」とちょっとぎこちなく笑って返してくれた。が――。


「それはそうと……」


 ――笑みを浮かべた顔がみるみる青褪めていく。

 腰が徐々に折れ曲がり、食い縛った顎が小刻みに震え、額の脂汗が大増量で流れ出る。


「いい、パンチだった……。お前なら、世界を狙……」

「え? ちょっ!?」


 言葉を言い切る前に巨体がぐらりと傾げ、前のめりに倒れこんでくる。

 それを咄嗟に抱き止めたが、体格差が思ったよりも酷い。去年から更に伸びた身長も然る事ながら筋骨の充実振りも素晴らしく――つまり重い。


「こっ、コラ! ちゃんと立ちなさい! うわ、わわっ!?」


 恐らく体重差は30kg以上、おまけにどうも意識が怪しいらしく身体の姿勢を保つ気配が感じられない。

 特別な鍛錬などしていない女の力で支えきれる訳がなく、圧し掛かられた勢いのまま押し倒されてしまった。

 

「いったぁ~……。こ、このバカぁ! 何処に顔埋めてんのよ! さっさとどきなさいッ!」


 胸の谷間に顔を埋めた大馬鹿野郎の頭や肩をばしばし叩いたが、全く反応が無い。

 どうやら完全に気を失ってしまったらしい。

 こんな所を誰かに見られたらどんな誤解を招く事か……と思った時には既に手遅れだった。辺りの物陰からふらり、ゆらり、と男子生徒が次々と姿を現し、こちらへ歩み寄ってくる。

 その顔は一様に無表情で、とっても薄気味悪い。

 男子生徒らは私に圧し掛かっている大男の腕を掴むと肩に担ぎ、力任せに担ぎ起こして連れ去っていく。

 重しから開放された私はすぐさま立ち上がり服装の乱れを手早く整えるが、こちらへ気を向ける者は居なかった模様。

 おどろおどろしいとでも呼べば良いか、とても重いオーラを纏った集団に連行される鷲尾を、私はただ唖然と見送る事しか出来なかった。



「あっはははっ。そんな事があったんだ~」

「まったく。こっちはいい迷惑よ」


 ベッドに腰掛けてお腹を抱える薫と対象的に、私はむすくれた顔で手に取ったグラスのストローを口に含む。

 放課後、帰宅した私は制服から着替えて神崎家を訪れている。

 久しぶりに入った元の自室は鏡台をはじめファンシーな小物や暖色系パステルカラーの寝具と見る度に少しずつ増えたり入れ替わり、振り返って一年前とはすっかり様変わりしてしまっている。

 そこに若干の寂しさを覚えるが、今の自室も私好みに変化してしまっているのでお互い様だ。それに化粧品や小物類などの共通の話題が持てた事もあり、差し引きではプラスかなどと思うようになった。


「だからワッシーってば泥だらけだったのね」

「そういう事」


 五時限目の前に教室に戻ってきた鷲尾はボロボロの一言に尽きた。

 顔は至る所に青痣を作り、制服は泥塗れ。おまけに仏頂面でどかっ、と席に着いた不機嫌な姿はとてもじゃないが近付ける雰囲気ではなかった。

 私があの一撃を入れなければ気絶する事も連れ去られる事も無かっただろう。後で何か奢るなりの償いを考えておかねば。


「それより薫、これからどうするつもり?」


 さほど声色を変えたわけではなかったがそこは長年の付き合いというか、緩い表情は変わらないのに雰囲気がほんの少し引き締まる。

 いや、私が今日ここに来た時点で本題は大体察していたのかもしれない。


「悪いとは思ったんだけど、偶然見ちゃったのよ」


 何を、と明言しなくても薫に動じた様子も非難する空気もなく、先を促すように静かにこちらを見詰めてくる。


「あの手の輩はこれからどんどん増えるわよ。認めたくないけど今のあなた、かなり可愛いからね……今日みたいな不味い捌き方じゃ、いつか押し切られるわ」


 そう言い切り薫を真っ直ぐ見据える。

 正対しているようで微妙にズレた視線がうろうろ、そわそわと微かに揺れ、交わっては外れる。それを何度繰り返したか、根負けしたようにふ、と薫が小さな溜息を零した。


「すごいね、さくらちゃん。あんなに押しの強い男子が何人来ても、簡単に追い払っちゃうんだもの」

「別に……すごくなんてないわよ。お母さんに教えてもらった通りにやってるだけだから」

「教えられたからって、その通りにキッチリやってのけられる人はそういないよ。あたしよりも、よっぽどらしい(・・・)もん」


 柔らかく穏やかなその言葉に息が詰まり、堪らず薫から目を逸してしまった。

 責めているのではないだろう。

 妬んでいる訳でもない。

 物心着いた頃からの長い付き合いだから、本心からそう思っていると理解してしまう。

 知らず噛み締めていた奥歯がぎりり、と軋む。

 私は“彼女”にこんな言葉を吐かせるために頑張った訳じゃないのに……。


「薫、私は」

「もう、なんて顔してんの。眉間の皺ってクセになっちゃうって聞くよ?」


 搾り出すように出した声は薫の軽口に遮られ、詰まらせた言葉が胸の内を締め付ける。

 そんな私の様子に薫は困ったように眉尻を下げた。


「さくらちゃん。“その身体”になっちゃって嫌だった?」

「え? いや、別に……そりゃあ、最初は戸惑ったけど」


 全く勝手の違う異性の身体、そして親しかったとはいえそれでも他人には違いなかった家庭での生活は、思い返せば戸惑いばかりだった。

 それでも人というのは時間を掛ければ慣れるものらしく、密度の濃い生活を送っているうちに順応して……特に嫌と思ったことはない。


「あたしもそうだよ。……ていうかね、ホントはちょっと嬉しかったんだ」


 クスッ、と小さく笑った薫。

 それに逸らしていた目がつられ、微笑を浮かべた顔をまじまじと見詰めてしまう。


「あたしの可愛いもの好きは知ってるでしょ?」


 それはもう。幼稚園や小学校ではフリルをたくさん付けた服で着飾っていたし、可愛いものを見つけたら表情を輝かせていつまでも眺め続けるから引き剥がすのに苦労させられたものだ。

 特に小さくて丸っこい、暖色系のものを好んでいた。今、この部屋を飾っているもののような。


「ホント言うと、ずっと“薫ちゃん”が羨ましくてさ……だから入れ替わっちゃった時ね、訳分かんなくてすっごく戸惑ってたけど、心のどこかでやった! って喜んじゃってたの」


 相変わらず眉尻を下げたまま、微かに自嘲的な笑みを浮かべる薫の告白は、私の心に小さくない衝撃を与えた。

 嫌なんだ、ってずっと思っていた。

 だから抵抗するように女の子の格好を続けているのだと。


「羨ましかった、て?」

「あたしって小学校の終わり頃から身体が急に大きくなったじゃない? それまで着れてた服とか全然着れなくなっちゃって、可愛くしようと思って色々やってみたけど全然上手くいかなくって……」


 ああ、その辺りの苦悩はよく知っている。

 普段はのんびり屋っていうか、能天気な子なのに、身体の大きさに関する事柄については非常に神経質で、“さくら”の近くで『でかい』や『大きい』といった言葉は禁句に近い扱いだった。

 でも、当時の“俺”は羨ましさがどうしても先に立って、苦悩の深い所までは理解できていなかった、と今振り返ればそう思う。


「丸くなれば少しは可愛くなれるかな、と思って太ってみたけどなんか違うし。だから小さくて可愛いままの“薫ちゃん”が羨ましくて仕方なかった」

「“俺”にとっては一番の悩みだったんだぞ?」

「あははっ。うん、知ってる」


 つい口を吐いた軽口が、そしてコロコロ笑う薫の姿が胸の締め付けをふ、と軽くしてくれた。


「だから、ちょっと手を入れたら思った通りに可愛くなっちゃう“薫ちゃん”で居られる事が楽しくて……悪いとは思ったんだけど」


 ばつが悪そうに指先で頬を掻く薫に、私も微笑みかける。

 そしてふと目に入った姿見に視線を移せば、そこには一年前のあの日、鏡に映った“さくら”の向こう側にイメージした姿があった。

 切れ長で吊り上がり気味の目元をはじめ、何処か冷たさを覚える凛々しい顔。

 背中の半ばに掛かる癖のないストレートの真っ黒な髪。

 無駄肉の無い細身ながらも随所に肉感が溢れる肢体。

 これは“彼女”が望んだものではない。“私”が望み、実現したものだ。


「ん……まぁ、私も好き勝手にやったしね。お互い様、かな」

「ふふっ。でも、ホントに凄いよね。こんなに美人さんになるとは思わなかったし、今じゃ立ち振る舞いも完璧だし」

「あのお母さんの娘だもの。それにこれは男避けよ。男ってちょっとでも隙を見せたらすぐにつけ上がるもの」


 これはお母さんからの薫陶だ。

 私には経験が絶対的に足りないから時と場合で態度を切り替える、なんて器用な真似が出来るわけが無い。なので普段から隙を見せない振る舞いを心掛けねばならない。

 そのために言葉だって必死に矯正したのだ。


「そっか~。これからはあたしも普段から気を付けなきゃ、だね」

「そうね。でも私の真似は止めなさいよ? 絶対に似合わないんだから」


 クスクスと二人で笑い合う。

 そういえばこうやって二人で顔をつき合わせて話すのも笑うのも、随分久しぶりのような気がする。


「ねえ、さくらちゃん。今でも戻りたいって思ってる?」


 何気なし、といった感じで薫の口から飛び出した問い掛け。

 それは今まで考えてこなかった、いや、考えないようにしていた事だ。

 でもそれを突きつけられた今、私の心は――――拍子抜けするくらいに凪いでいた。

 どうしてだろう、と少し考えてみたが、答えは簡単に出ない。


「どうかしらね……あまり考えた事なかったわ」

「そうなの?」

「ええ。だって入れ替わった事自体が突拍子も無い事だもの」


 戻り方なんて分からないし、簡単に見つかるとも思えない。

 たとえ見つかったとしても、その時は既にお婆ちゃんだったら意味が無い。

 だったら考えるだけ無駄だろう。

 そう考えてしまうくらいに、今の私は“薬王寺さくら”としての自分に順応しきってしまった。


「あなたは? って、聞くまでもないわね」

「あはっ。あたしは“この身体”が気に入ってるもの。返してって言われても困っちゃう」


 そう宣言するように答えて小悪魔的に笑う薫はどうしようもなく似合っていて、私をしてほぅ、と見惚れてしまう。こんな顔を向けられた男どもが参ってしまっても、それを咎めるのは酷かもしれない。

 元々の自分の身体である神崎薫がちょっと普通じゃない道に邁進している事に思うところは多々あるが、それが“彼女”の望んだ事なら見守る以外の選択肢を私は思いつかない。


「今年はもうちょっと静かに過ごしたいと願っていたのだけど、どうも無理そうね」

「うんうん。今年も面白い一年になるよ~、きっと」




 開いた窓から外を眺めれば眼下には薄桃色の花が咲き誇り、まだ肌に冷たい風が淡い香りを運んでくる。

 去年も一昨年も、この花が咲き、そして散る季節は憂鬱に始まった。


「まったく、うんざりだわ」


 今年も波乱の日々が幕を開けるのだと、自分と同じ名前の大好きな花を眺めながら私はクスリと小さく笑った。

これにてこのお話は終了です。

元々は短編、それも一ヶ月くらいで終わるつもりだったのになんでこうなった……。

ともあれ山無し谷無しの作品にお付き合い頂き、誠にありがとうございます。


次回作は自サイトで中断している長編を大幅改定する予定となっております。

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