第十話
無事、と言って良いのか分からないが追試や補習を貰わずに中間考査を切り抜けると、気温は一気に冷え込んだ。
衣更えは既に済んでいたけれど、最近は着る服を一枚増やすかどうかで悩む日が多くなった。
特に悩むのが下半身、有り体に言えばスカートだ。
下着が外気に晒される心許なさや気恥ずかしさはともかくとして、夏の間は特に気にすることはなかった。寧ろ自前の肉布団による廃熱の方が頭を悩ませた。
しかし冷え込む日が増えてきた昨今は、中に舞い込んで来る冷気が深刻な問題を運んでくる。
寒い。それも重要な問題だ。
その上で最も頭を悩ませているのは、腹が冷える、ということ。
この半年、散々打ちのめしてくれた月一度の血みどろ苦役がまさか進化を遂げるなど……腹を冷やしたら下す、その程度の認識で済んでいた去年の自分が妬ましくて仕方がない。
「というわけで、私はこたつから出ることを断固拒否するものである」
こたつ布団から顔だけ出して、こちらを見下ろす二人を睨みつけてやる。
どんなに呆れた顔をされようが構うもんか。
「はいはい。ワッシー、やっちゃって」
薫の言葉の後にのしのし、と歩み寄ってくる太い足。
引っ張り出されてなるものか、と首も布団の中に引っ込める。
閉じ篭ること亀の如し。
ぬくぬく、と言うには少々暑苦しいのだが、外に出るのに比べれば数倍マシというもの。
が、その温もり空間は突如失われ、四方から舞い込んだ冷たい空気が身を振るわせた。
「え? ああっ!」
何事か、と振り仰げばそこにはこたつを布団ごと持ち上げる無慈悲な巨人の影が。
ぐぅ……神崎家の掘りごたつだったなら、こんな大技は使えないのに!
「ほら、観念してさっさと準備するっ」
「まだ三日目だし、冷えると辛いんだよぅ」
何の事かは分かるだろ、と視線で訴えると、勝ち誇ったようなにんまりヤらしい笑みは一瞬でばつが悪そうな困り顔に変化した。
「厚手のタイツと毛糸のパンツ履いて、カーゴパンツとか余裕のあるズボンで大分マシにならない?」
「……全部無い」
「え? 去年使ったのあるでしょ、あたし覚えてるもん」
「あったけど、痩せたからサイズが合わないんだよぉ」
そう告げた瞬間、薫はハッと衝撃を受けたような表情で額をパチンと叩く。
私としても、秋冬物を出した時に気付いて途方に暮れたものだ。
件のカーゴパンツは、今の私が二人分入れるだろう脅威の容積を誇っていたよ……。
「う~ん、あたしのもサイズ合わないから貸せないし……」
何でお前にソレが必要なの? と思わなくはないが一々突っ込むのも疲れた。とりあえず気持ちだけ受け取っておこう。
「よし。それじゃ今日は予定を変えて、さくらちゃんの服を買いに行こー!」
「はい?」
暫し考え込んだと思ったら、次の瞬間にはそんな事を宣った薫。
握り拳を天に突き上げてノリノリな様子はとても愛くるしい……が、いつまで経っても慣れるもんじゃない。
「でも、お金無いぞ」
ひと月の小遣い五千円が多いか少ないかは分からないけど、四桁の額を翌月に持ち越せた事は今のところ無い。
UVカットの乳液をはじめ必要最低限の化粧品その他諸々、野郎だった時には考えた事も無かった出費がとにかく多くて困る。
「だいじょーぶ! こういう事だったら、お母さんが出してくれるから」
言うが早いか、引き止める間もなく薫はさっさと部屋から駆け出て行ってしまった。
一見トロそうなのに身軽さは相変わらずなのね。なんか無駄にスペックを鍛え捲くった過去の自分が憎らしい。
抵抗空しく家から連れ出され、私は駅へ向かう道を重い足取りで進んでいる。
寒い、半端じゃなく寒い。
何が寒いって、何もかもが寒い。特に足元から舞い込んでくる風はもう最悪だ。お母さんに貰った腿丈のストッキングを穿いているからちょっとはマシなのだろうが、薄い布地のプリーツミニスカートじゃ保温性も何もあったもんじゃない。ショーツとストッキングの間でむき出しになっている素肌を寒風が撫でていく度に身体の芯から震え上がる。
なんでロングスカートを一つも買ってなかったんだ、晩夏の私!
「あたしも似たような格好だけど、そんなに寒い?」
不思議そうに尋ねてくる薫の姿はというと薄茶色の長袖カットソーの上に幅広の白いショール、アンダーはカーキ色のストレッチショートパンツと膝までカバーする白いロングソックスの組み合わせ。
「寒いっす」
そう答えた私の声はやや震え気味。
確かに見た感じは似たようなもんだろう。だが私のカーディガンの下は夏用の薄いキャミソールだ。しかもサイズが大きすぎるカーディガンを羽織っているだけだから、開口部が大きすぎるわズレ落ちてくるわで正直あまり用を成していない。
「俺は暑いくらいだけど」
「真冬でもTシャツで十分な奴の意見など求めていない」
顔を若干引き攣らせた奴の服装は、まるで当然と言わんばかりに白Tシャツとジーンズだ。季節感が全く無いというか、見ているこっちが寒くなる。
電車に八駅ほど揺られれば目的地に到着する。
去年、全面改装が完了した地上十層、地下二層の巨大な駅ビルだ。
軒を連ねるのは大部分が衣料品店、次に飲食店、雑貨その他は全体から見れば一割程度か。
ここに来ればどの年齢層でも対応出来るものが置いてある、というのは便利ではあるのだが……。
「高い、なぁ」
マネキンに着せられたシンプルな白いブラウスのお値段は一万八千円。
一緒に着せられているシックなジャケットとタイトスカートの値段も素晴らしく、とてもじゃないけど手が出る値段じゃない。
「このお店はどれも高いみたいね。あっちを見てみようか」
そう告げる薫に連れられて向かったのはカジュアル系を押し出したブティック。カッチリした先ほどの店よりも馴染みやすい雰囲気で、気軽に商品を手に取れる。
「あ、いいなこれ。でも五千円か……」
ふと目に付いたのは布地がちょっと厚めの長袖カットソー。暖かなクリーム色と緩いハイネックがちょっとお洒落で可愛いが、お値段はまことに悩ましい。
「いいじゃんソレ」
私が持っているカットソーを覗き込み、薫ははしゃいだ声を上げた。
「うん。でも値段がなぁ」
せめて三千円、欲を言えば二千円なら悩むことなく買うのだけど。
「これで五千円かよ? 俺のTシャツが十枚くらい買えるぞ」
「ワッシーはもっとお洒落に気を使いなよ」
「うぐ……」と呻くような声を漏らした鷲尾の表情は何故だか酷く追い詰められたように見えた。
そう言えばこいつが着ているシャツって大抵が柄なしのTシャツばっかりだなぁ。
お金には割と余裕がある、という薫の言葉に後押しされてキープしたカットソーを片手に店内を物色する。
次に見るものといえばパンツだ。室内だからまだマシといえこの時期はまだ暖房されていないため、夏物のこの装いではやはり肌寒い。
手にしているモノと合わせるとすると、無難な所ではスリムのチノパンかジーンズ辺りか。
しかし膝下丈の黒いサーキュラースカートを見掛けると、これも良いな、と惹かれてしまう。
それというのも、六十キロ台に入ったとは言え四肢は未だ太ましさが溢れる。この身体でスリムパンツなんぞ穿いたらピッチピチのムッチムチで、それは冒険を通り越してスリムという言葉への冒涜ではなかろうか。
「今度はどうしたの?」
パンツとスカートの棚を前に再び悩み始めた私の顔を、薫が下から覗き込む。
「ん~……パンツを先に決めたほうが良かったかなぁ」
キープしているカットソーは、残念な事に余裕を持たせたラフなパンツには合わない。
このスカートもアリと言えばアリなんだけど、冷え対策という点においてパンツには及ばない。
「でも、それを諦めるのはちょっと惜しくない?」
その通り、まことに悩ましい……だから痩せきる前に服を買うのは嫌だったんだ。
「だったら両方買えばいいじゃないか」
そんな私たちの悩みどころが分からない、と出し抜けに鷲尾が口を挟む。
単純明快な力技だが、力技だけに単純な問題にぶち当たる。
「お金が足らんだろう」
サーキュラースカートのお値段は七千円弱、ふと目に付いたワイドパンツは六千円程度もする。薫がいくら預かったかは聞き出せなかったけれど、浮かべた苦い笑みを見るに全て購入する程の余裕はないとみていいだろう。
「それなら片方は安い所で買ったらどうだ? 別に、全部をここで揃える必要は無いだろうし」
「あぁ、それもそうだね」
なるほど、それもそうだ。
気に入った物は見繕ったことだし、ここでは一着揃えるだけでも十分か。
「それじゃあ他のものは別の店で揃えるとして、とりあえずこれら試着してみるわ」
と、目の前のスカートを取り上げて試着室へ向かった。
「ふう、今はギリギリってとこか」
そう呟く自分の顔が険しいのは、ギリギリなのがセーフではなくアウトの方に傾いているからに他ならない。
襞が余裕をごまかしてくれるスカートはともかく、カットソーはややむっちり気味だ。正直みっともない。
しかし今の体型に合わせると、今度は余裕が出来すぎてそれはそれでちぐはぐになってしまう。
「頑張ってダイエットするしかないね~……いだだだだだッ」
カーテンの隙間からひょっこり顔を出してきたお馬鹿ちんの顔面をむんず、と鷲掴む。
白魚のよう、と呼べるようになるまでにはまだまだ先が長そうな太ましい五指に力を込めると、ギリギリ、ミシミシとちょっぴりヤヴァげな軋みが伝わってきた。
「この苦悩の原因を作ったのは誰だっけ?」
「ああああああごめんなさいごめんなさいごめ――」
なにやら壊れたラジオのように譫言を繰り返すお馬鹿ちんをカーテンの向こうにポイ捨てしつつ、店員にこのまま着て行く旨を伝える。
両手で頭を抱えて蹲る薫にちょっと引きつつも、何事も無いかのように振る舞う店員さんの気丈さがちょっとだけ羨ましかった。
「酷い目に遭った」
まだ痛むらしい頭を摩りながら薫が非難の視線を浴びせてくる。
支払いを済ませてテナントを出た後、ようやく復活したと思ったら開口一番これだ。
「自業自得だ、大ばか者」
お返しに呆れをたっぷり含んだ視線をくれてやり、構わず歩く。
同じスカートとはいえ丈が長く、布地が厚くなっただけでえらく変わるものだ。
制服の方もサイズが合わなくなっているだろうし、早いところ注文しておいたほうがいいかもしれないな。
「これからどうするんだ? 戻って安い所を探すか?」
「せっかく出て来たんだから、ちょっと遊んでいこーよ」
鷲尾の言葉にはしゃいだ声が乗り掛かる。その復活の早さはさすがは“俺”と言うべきか、さっきまでの顰めっ面は何処へやら。
「この辺で遊べる所って言うと……無駄に豪華なゲーセンとボーリングと、カラオケ?」
「それじゃ地元に居るのと変わらないじゃない」
心当たりを並べてみたが、自分のボキャブラリーの貧弱さは今更ながら深刻なようだ。今日何度目かのジトッとした視線に反撃できる材料も見当たらない。
「飯にはまだ早いし、他は映画くらいしか思いつかないぞ」
と、鷲尾。
そうか、映画ってのもいいな。地元に無いからすっかり頭に無かったわ。
「今、何か面白いのやってる?」
「知らん」
そういえばこの男、ドラマも映画も叔父さんが関わってなかったら全く興味を示さなかったんだ……嗚呼、聞いた私が馬鹿だった。
「あー、こういう時に原田が居たらなー」
確かに、あいつの豊富なボキャブラリーには幾度となく助けられた。
しかし今はそれに頼ることが出来ない、否、頼ってはいけない。
何故なら、奴は一大決心の末にとあるミッションを遂行中なのだ。
だから鷲尾の溜息混じりなぼやきには軽口を返すどころか、心臓を握られたかの如き緊張で顔が思いっきり引き攣ってしまった。
「ちょっと聞いてみっか」
と、鷲尾がポケットから長方形の物体を取り出した瞬間、決意と共に協力を求めたあいつの強張った顔が脳裏を過ぎって怖気が背筋を駆け上がる。
「き、今日は大事な用があるって言ってたから、止めといた方がいいと思うぞ」
寧ろやめれ。ただでさえ完全に警戒が解かれていないというのに、ここで要らん茶々が入ったら後でどんな報復が待っているやら……。
「用事か……そういや黒部も捕まんねーんだよな」
「そういう日もあるよ~」
あはは~、とあっけらかんと笑う薫だけど、その頬が微かにヒクついているのを見逃さなかった。
「別にお金を掛けなくてもいいじゃない」
とん、と一歩先に踏み出した薫はクルリと身を翻し、私たち二人を見据えながら後ろ向きに歩く。
「いろんなお店があるんだからさ、服とか小物とか色々見て回ろうよ。さくらちゃんも興味あるでしょ」
「ん、そだな」
実際には必要なものが一気に増えたために、絶対的に不足している知識を補う必要に迫られただけなのだが。
だけどそれを言ってもしょうがないし、今となっては興味深々とまでは行かなくとも関心があるのは確かだ。
でも正真正銘、全く興味が無いだろう大男はつまらなそうな面持ちだ。話の流れから、どういった店を見て回るのかおおよその推測が立ったに違いない。
そんな野郎を見上げる薫は、にまぁ、と大きな目が弧を描いて細める。
何やらろくでもない事を思いついたようで、その小悪魔的な笑みがこの上なく可愛く、似合っているのは非常に頭の痛い話だ。
「良い機会だし、ワッシーもオシャレしてみよーか」
突然水を向けられた鷲尾は「は?」と間の抜けた声で応じるが、薫はそれに構う様子はない。
「いつも同じような格好だけど、それじゃ困ることもあるでしょ」
「いや、別に困るような事は――」
「そーだな。折角良いガタイしてるのに、全然活かしてないのは勿体ないよな」
尻込みしたのか単に面倒なのかは分からないが、明らかに気乗りしていない鷲尾の言葉を遮るように声を被せる。
戸惑ったような視線を向けられたが、それも一瞬のこと。
「お金の事なら大丈夫だよ、試着して回るだから」
ニコニコと満面の笑みを浮かべて畳み掛ける薫に、鷲尾はたじろぎ言葉を詰まらせる。
なんか息を飲んだような気配があったけど、それは気にしない事にした。
「うんっ、じゃあ決定!」
そう宣言するや薫は先程と同じように踵を返し、私たちを先導するように弾んだ足取りで歩く。
その様に物申したいことは多々ある……が、今更かと苦笑が漏れた。後でとことん悩む事になるかもしれないけれど、今を楽しんでいるなら水を差すのも無粋だろう。
それから困惑しっ放しの鷲尾に色んな服を着せて遊び回っていたのだが、ふと気付くと携帯に真紀からメールが入っていた。
何処かでニアミスしていたらしく、文面はともかく内容はやや刺々しかった。
月刊どころか三ヶ月以上も開いてしまいました。
待ってらっしゃる方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。
あと二話で完結予定です。