彼の青
右目に再び空がひらけたことを記念して、これを記す。
五月十一日 晴れ
術後の経過もよく、術後五日経った今日の午前に包帯を取った。しばらく光の強さに慣れずにまぶしかったが、今は薄明かりでこうして日記をかけるほど慣れてきた。久しぶりに見た青空は本当に綺麗だった。あの事故以来、光をうしなった右目だが、こうしてまた光を得ることができたのは本当に運が良かったと思う。家族や同僚にもずいぶん心配をかけてしまった。次の休みにでも、お礼を言いに行こうと思う。
五月十二日 晴れ時々くもり
昨日もそうだったが、少し肌寒く感じた。今日は事務のところへ行って、復帰の手続きを取った。やはり心配されたが、診断書と問題ない旨を伝えると向こうは復帰を祝ってくれた。数日のうちにまた元の現場に戻されるはずだ。目立った後遺症もなく、うまくなじんでくれたようだ。すべてが新鮮にうつるのは、再び両眼そろったからだけではないだろう。
五月十三日 くもり
今朝空のようすをみて昨日よりも厚着をしてみたが、思ったより寒くならなかった。しばらくの入院で体がずいぶんおとろえてしまったように感じたので、トレーニングがてらに近くの山を登った。緑があざやかで、体を動かしたのもあって、気分がいい。
夜になって右目がわずかだが、うずくように痛んだ。まだ完全とはいかないのかもしれない。今日は早めに床につくことにする。
五月十四日 雨のち晴れ
目が覚めると雨が降っていて、目がじくじくと痛んだ。放っておくわけにもいかないのでまた病院へ行ってきたが、結局原因はわからずじまいだった。帰る頃には晴れていたのだが、とたんに痛みはひいてしまった。気圧や湿度のせいだろうか。同じことが続くのであれば、また通院しなければ。
久しぶりに新聞を読むと、情勢不安が色濃く記されていた。事故以来まったくの他人事としていられたが、そろそろ気持ちを改めなくてはいけない。
五月十五日 快晴
ここ数日とうってかわって、雲ひとつない快晴。五月晴れとはこういうことを言うのだろう。気持ちの良い一日だった。日中、外で体を動かしていると、じっとりと汗をかいてしまった。衣替えにはまだ早いが、そろそろ夏物がいるだろうか。
本日正式に復帰が決まり、明日から通常通りの勤務になる。明日は早めに出勤し、機体の様子を確認したい。
五月十六日 晴れ
基地に戻ると、あらためて同僚が快気を祝ってくれた。午後、いきなり任務とはいかないので、先輩の兵とリハビリのような調整飛行をすることになった。久しぶりのフライトに緊張したが、問題なく調整はおわり、明日からは前のようにシフトに組まれるだろう。
同僚に自分がいない間の様子を聞いた。偵察機らしきとなりの航空機が近ごろよくやってくるらしい。もともと危うい国境だが、政情不安に引っ張られて、前にもまして不安定になっているようだ。
忙しい一日だったが、妙に今日は気分が高揚していたように思う。
五月十七日 くもりときどき晴れ
今日はフライトシフトがなく、資料整理をやって過ごした。部屋の中にばかりいたせいか、なんとなく気分ののらない一日だった。術後から、妙に気分の上下が激しくなっている気がする。単純な切って取るだけの手術ではなかったから、その影響が出ているのかもしれない。また生活が落ち着いてくれば、元にもどるだろう。
五月十八日 雨
今日は一日中雨が降っていた。今日はシフトが入っていたが、また目の痛みが出たこともあって、早退することになった。病院へ行ったが、今日もまた原因がわからない。炎症を抑える薬が出たが、使う気になれない。一日中、もやもやとした嫌な気分だった。
五月十九日 くもりのち晴れ
雲の上から見る空はさえぎるものがなく、美しいと思う。気分のせいだろうか、青がより鮮やかで心が洗われるようだった。昨日と一転、気分はよかった。
寝て起きると、目の痛みはなかった。今日は昨日代わってもらった哨戒任務をこなした。国境線沿いは一見おだやかに見えたが、しばらくするうちにどこと知れない航空機が現れた。こちらへは入ってこなかったが、しばらく見定めるように辺りを回っていた。これがこちらへ入るようなことがあれば、状況が一変するだろう。空をのんびりみることはできない。
五月二十日 雨
明け方不思議な夢を見た。不思議な青を認識した。知らない場所で、子供の目から、自分は空を見上げていた。青はその色だ。ただ見ているだけなのに、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
しばらくして、空の上に飛行機が一機飛んできた。飛行機を見ていると、いつのまにか自分は飛行機の中にいた。子供ではなかった。ふと下を見ると、普段なら小さくて見えもしないのに、子供がこちらを見ているのに気がついた。子供の顔が見える。目と目があう。
そこで目が覚めた。起きてから、なぜか恐怖がおそってきた。時間はあったが、寝なおす気にはなれなかった。
五月二十一日 晴れ時々くもり
今日帰り際、同僚に「最近空ばかり見ているな」と言われた。そんなつもりはなかったが、昨日の夢もあって、気になった。あの子供。顔は忘れてしまったがあの子の目は覚えている。それが見ていたあの空の青色も。
朝、顔を洗ったときに、鏡の自分を見てあの目を思いだした。両の目とも対称に並んでいるのに、右目だけが気になった。見れば見るほど違うものに見えてくる。試しに右と左を交互に押さえて空を見てみると、完全に色が違った。人が見る空色にこうも違いがあるかというほどで、右目の見る空色は間違いなくあの青色だったのだ。
あまりに気味が悪いので医者に相談したが、PTSDだと言われて、カウンセラーを紹介されただけだった。そう言われればそうかもしれないが、相談したところでこれはもう解決するように思えないのだ。
五月二十二日 晴れ
今日、ついに向こうの航空機が国境を越えてきた。複数だったため、スクランブルに入っていた自分も応援に向かった。手順にしたがって勧告をおこない、それらは自国へと帰っていった。
問題は、雨の日ばかりだと思っていた痛みがここで再びあらわれたことだった。耐えられないほどではないが、目を閉じるわけにもいかなかった。無事に帰ることができたが、この調子では任務に支障がでてしまう。だが、自分はこの仕事にやりがいと誇りを持っている。そのために移植手術も受けたのだ。やめたくない。
五月二十三日 くもり
いよいよ本格的におとなりは侵略を始めたようだった。今日も複数機で現れたそれらは勧告を無視しながら国境沿いを回り、マイペースに帰っていったと聞いた。火を出さずにすめばいいが、こればかりは一介のパイロットにはわからない。
今日は続けて痛むことはなかったが、出撃する同僚を送るたび、ちくちくと刺すような痛みがあった。医者が言うように精神的なものだというのなら、いったい何が気にくわないというのだろう。以前貰った目薬をさしてから寝ることにする。
五月二十五日 くもり時々雨
わずか二週間とはいえ、毎日続けてきた日記が昨日とぎれた理由、自分に起きた事の次第を今日はすべて書いておこうと思う。
昨日の天気は雨。目は朝から痛んでいた。
朝。目の痛みはあったが、慣れてきたのもあって普段通り出勤した。それ以上に、基地が緊張に包まれていたせいもあった。昼ごろ、とうとう開戦というはこびになり、今まで守っていた国境は前線となった。次々と兵が出撃し、自分の番になった。その時になって、食べたものをすべてもどしてしまった。仲間は緊張だ、と言ったが、緊張のせいでないのはわかっていた。トイレの鏡でまた右目と目が合う。非難に満ちた目だった。押さえつけるようにぐりぐりと目をこすり、痛みをこらえながら外に出た。
国境につく前に、自軍から一機落ちたと連絡を受けた。先に進めばもう実弾が飛び交っていた。降りしきる雨の中、すぐに敵機を確認し、交戦した。雲は分厚く、下は暮れたように暗かった。そして、敵機のうしろについてそれを正面にとらえ、いざ攻撃しようとしたとき、とうとうそれがおこった。
はじめは攻撃をくらったのかと思った。機関銃の一撃か、ガラスの破片か、いずれにしよ何か鋭いものが目に刺さったように感じた。まるで、目から頭の後ろを突きぬかれたような激しい痛みだった。それと同時に、頭の中で甲高い悲鳴が響きわたった。絹を裂くようなこどもの悲鳴だった。頭の中で響いた悲鳴はしだいに自分の叫び声になり、敵機も操縦もなにもかもを手放して目の痛みに声を絞った。
自分は操縦桿をつかみなおし、一気に雲の上まで抜けた。雲の上はひたすらに青く広がっていた。あの子供が、この右目を提供した幼いドナーが、死してまだ求め続けた青い世界。とぎれのない恒久の青だ。
「空が好きだといっていたのに」
子供の声。それはとがめるようにも絶望したようにも聞こえた。そして、右目の視界だけ、赤に染まった後、二週間前の暗闇に戻った。痛みはその時こそ続いていたが、だんだんと収まっていった。
無線で負傷を告げ、基地に戻るとヘルメットの中は血でうるんでいた。自分はそのあと、気を失ってしまったらしく、気がつくと病院のベッドの上にいた。今もこれをベッドの上で書いている。右目はもうただのうろになってしまった。
国境上のこぜりあいは一晩のうちに戦争になり、死者も出ている。私は早々に戦傷者となり、もう戻ることはないだろう。自分の右目は彼の少年の二度目の死とともに失われてしまった。私はもうこの戦争に参加することはないだろうから、あの空で死ぬことはもうないだろう。血や火や油というおよそ似つかわしくないものにあふれた空は、あの少年を受け入れず、また彼もそれを受け入れられなかったのだ。
彼は彼の空を失った。しかし、同時に自分も、自分の空を失ってしまった。あの少年と同じように憧れ、失望しながらも敬愛した空に、片目の自分はもう戻れない。あの破綻のない、天上の青を永遠に失ってしまったのだ。
窓から見える空は、灰色に埋められている。今自分には、この先の未来も同じ色にしか見えないのだ。
この右目に、自分自身に、永久に空が閉ざされたことを記して、筆を置く。