2.バレンタイン当日 (春日視点)
春日には、双子の弟がいる。
よくできた弟だと、思う。
家族の欲目だとか、双子でなに言ってるのかとか思うけれど、客観的に見ても彼は整った顔立ちをしていたし、運動も勉強もそつなくこなす。そして、料理だって春日よりもよほど上手だった。そんなところに、少しばかり女としての矜持を傷つけられる。
いつだったか、何年か前から度々バレンタインの季節になると母が問うようになった。
「春日、好きなコいないの?」
母にとっては楽しむように、それでいて他愛無い言葉であるはずだった。
春日は毎年の問いに、いつだって「秘密」と言葉を濁した。
けれど、思春期に入り、カレンダーが二月を示すと同時に周囲の友達が色めき立ちはじめた。
その季節になると、会話の中に「誰に渡す?」「バスケ部の……」「えー、好きなの?」と、主語などなくとも暗黙の了解でバレンタインの話題だと理解できるようになっていた。
春日はバレンタインが嫌いではない。もともと甘党であるため、多種多様なチョコレートが販売されるようになるから。
――でも。
『春日は誰に渡す?』
その言葉が嫌いだった。
『悠日くん、たくさんもらうのかなぁ』
そんな言葉を聞かねばならないのなら、バレンタインなど消えてなくなればいいと、思った。
……子供染みた独占欲だと、思っていた。
そうして、春日は周囲と馴染もうと――気がつけば、好きな男を無理につくるため探すようになった。
*** *** ***
今年のバレンタインは、流されるようにしてチョコレートを渡す相手をこしらえた。
女子たちの間で人気のある浅見くん。
悠日のクラスメイトだ。
顔は中の上、スポーツ万能なところが人気の理由らしい。
廊下で偶然彼とすれ違った時、春日もかっこいいな、と思った。
だから、今年のチョコレートは彼に渡そう。そう決める。
心のどこかにある”早く彼氏をつくらなければ”という焦燥と、”手遅れにならないうちに”という警鐘から逃れるためだと、気づかないまま。
バレンタインデー当日は、晴天だった。
朝、悠日と登校した春日は常と違って自分の教室へ向かわず、彼と共に浅見と悠日が在籍する教室へと向かう。
扉の前につくと、悠日が「がんばれ」と優しく囁いた。
「ありがとう」
春日は小さく笑って答えた。
教室に入って行く悠日の背を見送って、浅見の姿を探す。
登校したのが早かったためか――彼は窓辺にひとりでいた。
バレンタインデー前日の夜に作ったガトーショコラが入った箱を、手さげバッグから取り出す。
不思議と、渡す時のことを想像すれば胸の鼓動が早まった。
(……これが、恋、なのかな?)
ふと思う。
ついで、渡す相手である浅見が人気者であることを思い出すと、受け取ってもらえないかもしれない、という不安がわいた。
春日は首をふる。
(悠、言ってたもの)
『春なら大丈夫だよ』
『がんばれ』
思い出すだけで心に明かりが灯る双子の弟の言葉。
悠日の言葉に、まるで無敵になったような気すらした。
穏やかな顔立ちの悠日とは異なり、少し上がり気味の目尻の浅見。
窓際で過ごす何気ない仕草のひとつひとつは洗練されていて、けれどきっと彼は自分がもてているということも自覚しているだろうと判じられる。それは、彼が放つ己への自信がそう見せていた。
悪く言えば自信家、よく言えば眩いばかりのアイドル性。惹かれる女の子が多いことは、彼を一目見ればすぐにわかる。
――だが。
春日は教室に入る足をとめたまま佇んでいた。
じっと浅見を遠目から見つめる。
……なぜ、浅見のことを想像するだけではときめかないのだろう?
これからおこす己の行動には、鼓動が早鐘を打つのに。
自分で自分の感情がよくわからなかった。
自身の席についた悠日が訝るように春日へと視線をやる。
教室の中には、浅見と悠日、それと予習のために早朝登校している数人しかいない。今が一番の機会なのだ。
扉からじっと見つめる視線は誰に向けられているのか、誰もがすぐに気づくところだろう。
手にした箱が妙に重く感じた。
緊張とは別の理由で、身体が動かない。
(……私、躊躇ってる?)
なぜ?
自問していると、視線を痛いほど感じていただろう浅見が歩み寄ってきたことに気づいた。
春日の目の前に立った彼は、人好きのする笑みでにこりと笑う。
「オレに用?」
訊かれ、春日は長身の浅見を見上げた。
(……渡さなくちゃ)
脳が指令を出す。
焦るようにして愛想笑いして動揺する気持ちを押し隠した。
「浅見くん、あの……」
「うん」
「甘いもの、好き?」
息を呑んで問う。浅見が喉の奥で笑った気配がした。
「好きだよ」
その答えに、春日は手にしていた箱を差し出した。
視線を落としたままのその姿は、浅見から見れば恥ずかしがっているように見えたかもしれない。
「受け取ってくれたら、嬉しいです」
「受け取るのはいいけど」
意を決して紡いだ言葉に、浅見は首を傾げた。
「それって、付き合ってほしいってこと?」
「え?」
とっさに春日は唾を呑み込んだ。
(付き合う?)
そんなこと、考えていなかった。
思い至れば、自分はなんて愚かで、なんて失礼なことをしたのかと、思う。
「あのっ、私っ」
どう答えればいいのだろう。沸騰したような頭で必死に考えるけれど、いっそ交際を申し込むことやファンとして受け取ってほしいという、本音とは異なる言葉しか思い浮かばない。取り繕った言葉しか、浮かばない。――すべての言葉は、自分のため。
不意に、気づかされた気がする。
心に頑丈にかけていた、鍵の存在。
ずっと心の底に沈めて、強固な鍵を幾重にもかけていた、感情の存在。
その感情の正体は――?
(私は、なんで浅見くんにチョコレートを渡そうと思ったの?)
みんながバレンタインに夢中だから?
(……違う)
みんなが彼氏をつくっていくから?
(…違う)
浅見が好きだから?
(違う)
(私が浅見くんを選んだのは――彼がチョコレートを拒んでくれることを願っていたからだ)
導き出した答えに、瞠目する。
全部、全部言いわけだったのだ。だけど。でも。
(私は、何に対して言いわけしているの――?)
自失するように固まっている春日に、浅見は緊張ゆえだと思ったようだ。
くすくすと笑い、春日の耳元に唇を近づける。
「セフレだったら、いいよ」
囁く。
するりと入ってきた艶冶な声に、春日は浅見を見つめた。
「嫌?」と口角を持ち上げながら問う浅見に嫌悪感を抱く。
ぐるぐると渦巻く感情。自分で自分がわからない。
でも、これだけはわかる。
春日は顔を歪めて浅見と相対した。
「……嫌に、決まってるじゃない」
(私が求めてるのは、貴方じゃない)
これが、本当の心。
(だけど――私は、自分が誰を求めているのか、気づいてはいけない)
きっとこれは、自己暗示。
解かれる時が迫っている、自己暗示。
今まで怯えていた、心の鍵があけられる時がすぐ傍まで近づいた。
そして、一筋涙が流れる。
頭の片隅で、浅見は失恋したがゆえの涙だと捉えただろうと、ぼんやり思った。