1.バレンタイン前日 (悠日視点)
彼の両親は、地域でも有名な洋菓子店を営んでいた。雑誌に度々採りあげられ、人気は好調。
そのため、彼の両親は朝から晩まで店先で働き、家にいる時間はわずかだった。
幼い頃は寂しいと思ったこともある。けれど――彼には双子の姉がいた。だから、いつしか彼女がいればそれで満足していた。
高校生の古賀家の双子、姉 春日と弟 悠日。
ご近所ではそこそこ有名だった。それは、両親の店と双子という理由からだ。
悠日からみて、春日はどこかぼんやりしていて庇護欲に駆られる存在だった。彼女は姉なのに、守らねばならない、そんな使命感すら抱いていた。
彼女を隣で守るのは自分だと、当然のように思っていた。
――それが恋だと気づいたのは、いつだっただろうか。
幼い頃には既にその意識があったのだろう。
悠日は春日に自ら誓ったのだから。
『ずっといっしょだからね』
その約束は、いつまで有効なのだろうかと、悠日は時々考える。
*** *** ***
それは二月のことだった。
世間ではバレンタインデーで盛り上がっている。そして両親も多忙期に入っていた。
キッチン隣のリビングにあるソファで悠日はくつろぎながらテレビをみる。
番組の内容は頭に入ってこなかった。
古賀家の団欒の場はリビングだったため、悠日は春日の傍にいたい時はそこで過ごす。
ふと、悠日の視界がかげる。視線を上げれば、春日が隣に立っていた。
「なに? 春」
平静を装って問えば、春日は妙に真摯でありながら気まずそうな表情で口を開いた。
「悠……明日、なんの日かわかる?」
悠日は口を噤んだ。
わかるもこうもない。どうして今、悠日がリビングにいると思っているのか。
それは、春日がバレンタインにどうするのか気になって仕方がなかったからだ。リビングにいれば、春日とキッチンの様子がわかる。
悠日は心中動揺した。
(……どうして、俺に訊くわけ?)
視線が泳ぎそうになったが、溜息をつくことで心を落ち着かせようとした。
「バレンタインデーだな。それがどうかした?」
なんでもないことのように悠日が答えると、春日は急にてへ、と愛想笑いを浮かべた。
「悠、ガトーショコラ、一緒に作らない?」
悠日は両目を細める。春日の真意が手に取るようにわかった。
――有名洋菓子店の娘でありながら、春日は料理の才能が可哀想なほど皆無だったのだ。
つまり、『一緒に作らない?』という言葉をそのまま受け取ってはいけない。五割を任せれば世にも珍しい残念なガトーショコラが生まれるのだから。
悠日は春日の腕を掴んで引き寄せ、目線をあわさせた。
「な、なに? 悠」
本音を隠そうとするように視線をそらした春日の額にデコピンする。
「痛っっ!」
春日の悲鳴に、悠日は満足したように上目で見つめながら笑った。
「違うよね、春日? 教えてください、だろ?」
上から目線な言葉に春日は頬を膨らませたが、渋々「教えて……~~ください」と言った。
そんなほのぼのした時間に、悠日は笑う。こんな時間がずっと続けばいいと、願いながら。
こんな時間がとても嬉しくて――とても愛おしいのだと、彼女はきっと知らない。
悠日指導のもと、キッチンで春日は薄力粉を篩いにかける。
一方、悠日はチョコレートを湯煎にかける。
ふと、脳裏を過ぎる自問。
(なんで俺、こんなことやってんだろ)
悠日はわかっていた。今作っている菓子は、自分用ではない。明日、春日が誰かに渡すものだろう。
一体、誰に渡すのか。木べらを握る手に力がこもる。
苦い気持ちは嫉妬とわずかな憎しみすら抱かせる。だから、訊かずにはいられなかった。
自分が後悔するとわかっているのに。その男に適わないと――弟である時点で自分は論外だと、わかっていたのに。
唾を呑み、悠日は睫毛を伏せた。
「ねぇ、春……」
緊張した声は、わずかにかすれる。
「ん? なに?」
悠日の異変に気づくことなく、春日は首を傾げた。それに安堵した悠日は言葉を続ける。
「これ、誰にあげるの?」
「……浅見くん。悠、同じクラスだよね。人気あるんだよ、女子の間で」
何気ない言葉の一つ一つが悠日を貫く。
(――いつか、こんな日がくるなんて、知ってたはずなのに)
悲しくてたまらない。
「春……浅見のこと、好きなんだ?」
答えを心が拒絶するのに、口から零れたかすかな声音。
その問いが聞こえなかったのか、春日の答えがないことにほっとした。そして、そんな自分を自嘲する。
――春日が遠くへ行ってしまうような気がした。
必然の理。けれど、それを拒む自分がいる。
それでも。
好きな男のことを想いながら、嬉しそうに苦手な菓子作りをする彼女に、自分の気持ちなど絶対に言えない。
言うことを、自分が許さない。
やがて、ほろ苦く、香ばしいにおいがオーブンから漂う。
「春、危ないからどいてて」
そう言って、焼きあがったガトーショコラをオーブンから出した。
台に置くと、春日は嬉しそうに目を輝かせる。
「わぁ、おいしそう!」
「そりゃ、俺が教えたからな」
からかうように言ったのに、今の春日は相当ご機嫌なのか、悠日の手を握って満面の笑みを浮かべる。
「うん! ありがとう、悠!」
その笑みに、目が釘付けになった。
そうして、続く言葉。
「悠、――もし、浅見くんが受け取ってくれなかったら……一緒にたべてくれる?」
少し目を丸くしながら春日を見下ろすと、彼女は不安そうに瞳を揺らしていた。
こんな時、”家族”である悠日がするべき行動は決まっている。
たしなめるように優しく頭を叩き、励ます。
「バレンタインなんだから、受け取るだろ。断るかどうかはホワイトデーだ。……春なら大丈夫だよ。――それでももし、受け取らなかったら、一緒にたべよう」
苦く笑むと、春日は頬を染めて笑みを返した。
「うん。……ありがとう、悠。大好きよ」
その言葉に深い意味などないと、知っている。
知っているのに。心がどうしようもないくらい揺さぶられた。
(そんなこと言うなんて……ずるいよ――)
――願わくは、今はちゃんと笑えていることを。
心の中で、そっと呟いた。