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愛人だった私は、貴方の子を抱いて国を去った。

作者: ももにく
掲載日:2026/09/17

「……もう、ここへ来てはいけない」


王太子殿下の口から出た言葉に、私は息を止めた。


「どうして……?」


「婚約が正式に決まった」


私は俯いた。


分かっていた。


いつか、この日が来ることくらい。


私は平民の娘。


彼は王太子。


私たちの間にある身分の差は、どれだけ愛し合っても消えない。


「相手は?」


「隣国の公爵令嬢だ」


「……そうですか」


私は笑った。


笑うしかなかった。


「おめでとうございます」


「違う」


殿下が私の手を掴んだ。


「俺は望んでいない」


「でも、殿下は王太子です」


「だから何だ」


「国のためでしょう?」


彼は黙った。


それが答えだった。


私はそっと手を離した。


「なら、私がいなくなればいいんですね」


「……待て」


「大丈夫です」


私は笑った。


「私は、殿下のことが大好きですから」


「……」


「だからこそ、あなたの邪魔をしたくありません」


その夜。


私は初めて、彼の腕の中から自分の意思で離れた。


***


王都を出て三日目。


私はひどい吐き気に襲われた。


最初は旅の疲れだと思った。


けれど。


何を食べても気持ち悪い。


身体が妙に重い。


そして。


気づいた。


「……まさか」


震える手をお腹に当てる。


数え直す。


何度も。


そして。


涙が出た。


「……いる」


小さく呟く。


「殿下の子……」


嬉しかった。


怖かった。


そして――どうしようもなく悲しかった。


私は王都へ戻らなかった。


戻れば。


きっと彼は私を選ぼうとする。


でも。


彼には王になる未来がある。


だから。


この子には。


「お父様は、とても優しい人なのよ」


誰にも聞こえない声で。


お腹を撫でた。


「でもね」


涙を拭う。


「会ってはいけないの」


***


一年後。


私は小さな町で男の子を産んだ。


名前はレオ。


殿下の名前から一文字だけもらった。


「あなたのお父様はね、とても優しい人だったの」


眠る息子を見ながら話す。


「お母さんが泣いていると、いつも抱きしめてくれた」


「だから、あなたもきっと優しい子になるわ」


私は笑った。


けれど。


息子が三歳になった頃。


町に王家の馬車が来た。


王太子が視察に来るらしい。


私は恐ろしくなった。


顔を見られたら。


息子を見られたら。


きっと分かってしまう。


私は荷物をまとめた。


「ごめんね、レオ」


息子を抱き上げる。


「また引っ越そうね」


***


それから七年。


私は何度も住む場所を変えた。


息子は八歳になった。


「お母さん」


「なあに?」


「僕のお父さんって、どんな人?」


私は手を止めた。


「……どうして?」


「みんな、お父さんがいるから」


「……」


「僕にはいないの?」


胸が痛かった。


私は息子を抱きしめた。


「いるわ」


「どこに?」


「遠いところに」


「会いたい」


私は答えられなかった。


「……会ったら、困るの」


「どうして?」


「あなたのお父さんには、大切なものがたくさんあるから」


息子は少し考えて。


「僕は大切じゃないの?」


「違う!」


思わず強い声が出た。


息子が驚く。


私はすぐに抱きしめた。


「違うの……」


涙が溢れた。


「あなたが一番大切よ」


***


同じ頃。


王都では。


王太子が古い箱を開けていた。


中に入っていたのは。


私が昔書いた手紙。


最後に会った夜。


渡せなかったものだった。


『殿下へ。


もし私がいなくなっても、探さないでください。


あなたが王になる日を、私は遠くから願っています。


あなたの隣に立てなくても。


あなたが幸せなら、それでいい。


私は――』


そこで文章が途切れていた。


彼は手紙を握りしめた。


「……なぜ、最後まで書かなかった」


その瞬間。


一人の老いた侍女が口を開いた。


「殿下」


「何だ」


「申し上げなければならないことがあります」


彼女は震える手で、一枚の記録を差し出した。


「彼女が王都を出た三日後、町の医師を訪ねています」


「……」


「診察記録には――妊娠、と」


王太子の顔から血の気が引いた。


「……何?」


「お子様が、おられるのではないかと」


椅子が倒れた。


彼は立ち上がった。


「探せ」


「殿下……」


「今すぐ探せ!」


***


そして。


一年後。


私は息子と暮らす町で。


王家の馬車を見た。


逃げようと思った。


けれど。


遅かった。


扉が開く。


そこに。


彼がいた。


十年ぶりだった。


「……君」


私は息子を背中に隠した。


「お帰りください」


「この子は?」


「私の子です」


「父親は?」


私は答えなかった。


彼は私を見る。


そして。


息子を見る。


「……レオ?」


息子が振り返る。


「どうして僕の名前を知ってるの?」


彼は動けなくなった。


「……俺が、つけたかった名前だ」


私は泣いた。


「違います」


「嘘だ」


「帰ってください」


「俺の子なんだろう?」


私は黙った。


彼は震える手で息子を見る。


「……俺の?」


「はい」


十年分の涙が。


彼の頬を伝った。


「なぜ……」


「あなたの未来を壊したくなかったから」


「未来?」


「あなたは王になる人です」


「そんなもののために、俺は――」


彼は言葉を失った。


そして。


息子の前に膝をついた。


「……レオ」


息子が警戒しながら見る。


「あなた、誰?」


彼は泣きながら笑った。


「君のお父さんだ」


息子は目を丸くした。


「……本当に?」


「本当だ」


「じゃあ、どうして今まで来なかったの?」


その質問に。


彼は答えられなかった。


私は代わりに答えた。


「お父さんは、あなたを知らなかったの」


「……知らなかったの?」


「うん」


息子はしばらく彼を見つめた。


そして。


小さな手を差し出した。


「じゃあ……今から知ればいい?」


彼は。


その手を両手で包んだ。


「……ああ」


涙を流しながら。


「今から全部知りたい」


***


その夜。


私は彼と二人で話した。


「君と別れたことを、ずっと後悔していた」


「私は後悔していません」


「俺はした」


「……」


「王になることも、国のために生きることも受け入れた」


彼は私を見る。


「でも、それと君を愛することは別だった」


私は涙を堪えた。


「もう遅いです」


「分かってる」


「あなたには婚約者がいる」


「……」


「私にはあなたの隣に立つ資格がない」


彼は首を横に振った。


「違う」


「何が?」


「資格なんて、最初から必要なかった」


彼は私の前に立つ。


「俺が欲しかったのは王妃じゃない」


「……」


「君だった」


私は泣いた。


「でも……もう十年です」


「ああ」


「私たちは十年を失いました」


「ああ」


「取り戻せません」


「ああ」


彼も泣いた。


「だから、残りの人生をかけて埋めたい」


***


けれど。


彼はすぐには私を王宮へ連れて行かなかった。


婚約者との関係。


王位継承。


貴族たち。


国。


すべてを整理する必要があった。


そして彼は。


息子に会うためだけに、何度も町へ通った。


最初は「お父さん」と呼べなかった息子が。


半年後。


初めて彼をそう呼んだ。


「お父さん!」


その声を聞いた瞬間。


彼は立ち止まった。


そして。


顔を覆って泣いた。


私は遠くから、その姿を見ていた。


十年前。


彼の腕から離れたとき。


私は思っていた。


この人の人生から私たちは消える。


そうすれば、彼は幸せになれる。


でも。


人生は。


思っていたほど簡単じゃなかった。


***


さらに一年。


彼は正式に婚約を解消した。


国王にも事情を話した。


そして。


私のもとへ戻ってきた。


「今度は逃げない」


「……本当に?」


「ああ」


「後悔しませんか?」


「もう十分した」


私は泣きながら笑った。


「遅いですよ」


「知ってる」


「十年ですよ」


「分かってる」


「私、もう昔みたいに綺麗じゃないですよ」


「俺もだ」


「……ふふ」


「だから、ちょうどいい」


彼は笑った。


そして。


息子の頭を撫でた。


「三人で帰ろう」


***


数年後。


王都の大聖堂。


私は王妃になった。


けれど。


一番幸せだったのは。


王妃の冠を被った日ではない。


初めて。


三人で食卓を囲んだ夜だった。


息子が言った。


「お母さん」


「なあに?」


「僕、お父さんがいてよかった」


私は手を止めた。


「……そうね」


「お母さんも?」


私は彼を見る。


彼も私を見ている。


十年前と変わらない瞳。


でも。


今度は。


私から離れない。


「うん」


私は笑った。


「私も」


彼がそっと私の手を握る。


そして。


誰にも聞こえないほど小さな声で言った。


「やっと、帰ってきたな」


私は涙をこぼした。


「……ただいま」


十年かかった。


愛し合っていたのに。


結ばれなかった二人が。


ようやく。


同じ家で。


同じ食卓を囲む。


その隣には。


二人が愛した、小さな命がいる。


――失った十年は、戻らない。


けれど。


残された未来は。


これから始められる。


――Fin.


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