愛人だった私は、貴方の子を抱いて国を去った。
「……もう、ここへ来てはいけない」
王太子殿下の口から出た言葉に、私は息を止めた。
「どうして……?」
「婚約が正式に決まった」
私は俯いた。
分かっていた。
いつか、この日が来ることくらい。
私は平民の娘。
彼は王太子。
私たちの間にある身分の差は、どれだけ愛し合っても消えない。
「相手は?」
「隣国の公爵令嬢だ」
「……そうですか」
私は笑った。
笑うしかなかった。
「おめでとうございます」
「違う」
殿下が私の手を掴んだ。
「俺は望んでいない」
「でも、殿下は王太子です」
「だから何だ」
「国のためでしょう?」
彼は黙った。
それが答えだった。
私はそっと手を離した。
「なら、私がいなくなればいいんですね」
「……待て」
「大丈夫です」
私は笑った。
「私は、殿下のことが大好きですから」
「……」
「だからこそ、あなたの邪魔をしたくありません」
その夜。
私は初めて、彼の腕の中から自分の意思で離れた。
***
王都を出て三日目。
私はひどい吐き気に襲われた。
最初は旅の疲れだと思った。
けれど。
何を食べても気持ち悪い。
身体が妙に重い。
そして。
気づいた。
「……まさか」
震える手をお腹に当てる。
数え直す。
何度も。
そして。
涙が出た。
「……いる」
小さく呟く。
「殿下の子……」
嬉しかった。
怖かった。
そして――どうしようもなく悲しかった。
私は王都へ戻らなかった。
戻れば。
きっと彼は私を選ぼうとする。
でも。
彼には王になる未来がある。
だから。
この子には。
「お父様は、とても優しい人なのよ」
誰にも聞こえない声で。
お腹を撫でた。
「でもね」
涙を拭う。
「会ってはいけないの」
***
一年後。
私は小さな町で男の子を産んだ。
名前はレオ。
殿下の名前から一文字だけもらった。
「あなたのお父様はね、とても優しい人だったの」
眠る息子を見ながら話す。
「お母さんが泣いていると、いつも抱きしめてくれた」
「だから、あなたもきっと優しい子になるわ」
私は笑った。
けれど。
息子が三歳になった頃。
町に王家の馬車が来た。
王太子が視察に来るらしい。
私は恐ろしくなった。
顔を見られたら。
息子を見られたら。
きっと分かってしまう。
私は荷物をまとめた。
「ごめんね、レオ」
息子を抱き上げる。
「また引っ越そうね」
***
それから七年。
私は何度も住む場所を変えた。
息子は八歳になった。
「お母さん」
「なあに?」
「僕のお父さんって、どんな人?」
私は手を止めた。
「……どうして?」
「みんな、お父さんがいるから」
「……」
「僕にはいないの?」
胸が痛かった。
私は息子を抱きしめた。
「いるわ」
「どこに?」
「遠いところに」
「会いたい」
私は答えられなかった。
「……会ったら、困るの」
「どうして?」
「あなたのお父さんには、大切なものがたくさんあるから」
息子は少し考えて。
「僕は大切じゃないの?」
「違う!」
思わず強い声が出た。
息子が驚く。
私はすぐに抱きしめた。
「違うの……」
涙が溢れた。
「あなたが一番大切よ」
***
同じ頃。
王都では。
王太子が古い箱を開けていた。
中に入っていたのは。
私が昔書いた手紙。
最後に会った夜。
渡せなかったものだった。
『殿下へ。
もし私がいなくなっても、探さないでください。
あなたが王になる日を、私は遠くから願っています。
あなたの隣に立てなくても。
あなたが幸せなら、それでいい。
私は――』
そこで文章が途切れていた。
彼は手紙を握りしめた。
「……なぜ、最後まで書かなかった」
その瞬間。
一人の老いた侍女が口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「申し上げなければならないことがあります」
彼女は震える手で、一枚の記録を差し出した。
「彼女が王都を出た三日後、町の医師を訪ねています」
「……」
「診察記録には――妊娠、と」
王太子の顔から血の気が引いた。
「……何?」
「お子様が、おられるのではないかと」
椅子が倒れた。
彼は立ち上がった。
「探せ」
「殿下……」
「今すぐ探せ!」
***
そして。
一年後。
私は息子と暮らす町で。
王家の馬車を見た。
逃げようと思った。
けれど。
遅かった。
扉が開く。
そこに。
彼がいた。
十年ぶりだった。
「……君」
私は息子を背中に隠した。
「お帰りください」
「この子は?」
「私の子です」
「父親は?」
私は答えなかった。
彼は私を見る。
そして。
息子を見る。
「……レオ?」
息子が振り返る。
「どうして僕の名前を知ってるの?」
彼は動けなくなった。
「……俺が、つけたかった名前だ」
私は泣いた。
「違います」
「嘘だ」
「帰ってください」
「俺の子なんだろう?」
私は黙った。
彼は震える手で息子を見る。
「……俺の?」
「はい」
十年分の涙が。
彼の頬を伝った。
「なぜ……」
「あなたの未来を壊したくなかったから」
「未来?」
「あなたは王になる人です」
「そんなもののために、俺は――」
彼は言葉を失った。
そして。
息子の前に膝をついた。
「……レオ」
息子が警戒しながら見る。
「あなた、誰?」
彼は泣きながら笑った。
「君のお父さんだ」
息子は目を丸くした。
「……本当に?」
「本当だ」
「じゃあ、どうして今まで来なかったの?」
その質問に。
彼は答えられなかった。
私は代わりに答えた。
「お父さんは、あなたを知らなかったの」
「……知らなかったの?」
「うん」
息子はしばらく彼を見つめた。
そして。
小さな手を差し出した。
「じゃあ……今から知ればいい?」
彼は。
その手を両手で包んだ。
「……ああ」
涙を流しながら。
「今から全部知りたい」
***
その夜。
私は彼と二人で話した。
「君と別れたことを、ずっと後悔していた」
「私は後悔していません」
「俺はした」
「……」
「王になることも、国のために生きることも受け入れた」
彼は私を見る。
「でも、それと君を愛することは別だった」
私は涙を堪えた。
「もう遅いです」
「分かってる」
「あなたには婚約者がいる」
「……」
「私にはあなたの隣に立つ資格がない」
彼は首を横に振った。
「違う」
「何が?」
「資格なんて、最初から必要なかった」
彼は私の前に立つ。
「俺が欲しかったのは王妃じゃない」
「……」
「君だった」
私は泣いた。
「でも……もう十年です」
「ああ」
「私たちは十年を失いました」
「ああ」
「取り戻せません」
「ああ」
彼も泣いた。
「だから、残りの人生をかけて埋めたい」
***
けれど。
彼はすぐには私を王宮へ連れて行かなかった。
婚約者との関係。
王位継承。
貴族たち。
国。
すべてを整理する必要があった。
そして彼は。
息子に会うためだけに、何度も町へ通った。
最初は「お父さん」と呼べなかった息子が。
半年後。
初めて彼をそう呼んだ。
「お父さん!」
その声を聞いた瞬間。
彼は立ち止まった。
そして。
顔を覆って泣いた。
私は遠くから、その姿を見ていた。
十年前。
彼の腕から離れたとき。
私は思っていた。
この人の人生から私たちは消える。
そうすれば、彼は幸せになれる。
でも。
人生は。
思っていたほど簡単じゃなかった。
***
さらに一年。
彼は正式に婚約を解消した。
国王にも事情を話した。
そして。
私のもとへ戻ってきた。
「今度は逃げない」
「……本当に?」
「ああ」
「後悔しませんか?」
「もう十分した」
私は泣きながら笑った。
「遅いですよ」
「知ってる」
「十年ですよ」
「分かってる」
「私、もう昔みたいに綺麗じゃないですよ」
「俺もだ」
「……ふふ」
「だから、ちょうどいい」
彼は笑った。
そして。
息子の頭を撫でた。
「三人で帰ろう」
***
数年後。
王都の大聖堂。
私は王妃になった。
けれど。
一番幸せだったのは。
王妃の冠を被った日ではない。
初めて。
三人で食卓を囲んだ夜だった。
息子が言った。
「お母さん」
「なあに?」
「僕、お父さんがいてよかった」
私は手を止めた。
「……そうね」
「お母さんも?」
私は彼を見る。
彼も私を見ている。
十年前と変わらない瞳。
でも。
今度は。
私から離れない。
「うん」
私は笑った。
「私も」
彼がそっと私の手を握る。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で言った。
「やっと、帰ってきたな」
私は涙をこぼした。
「……ただいま」
十年かかった。
愛し合っていたのに。
結ばれなかった二人が。
ようやく。
同じ家で。
同じ食卓を囲む。
その隣には。
二人が愛した、小さな命がいる。
――失った十年は、戻らない。
けれど。
残された未来は。
これから始められる。
――Fin.




