第5話 ミュートされた会話
黒木は大きく息を吐いた。
木にしがみついたまま、しばらく呼吸を整える。
下を見下ろした。
奈落の底は暗くて何も見えない。
黒木は岩を見上げた。上まで数メートルはある。
黒木はつま先を斜面に叩き込んだ。ザクッと土に食い込む。
体重をかけると、かろうじて足場になった。
もう一歩。またつま先を蹴り込む。そうやって少しずつ、少しずつ登る。
指が岩の縁に触れた。
黒木は渾身の力で体を引き上げた。
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【同時視聴者数 891】
@trekker_joe:カメラが動いてる、生きてる!
@comutan_love:よかった黒木さん!!
@nashi_gasuki:崖から登ってきた、この人何者
@yamaholic_k:映画みたいな動きしてんだが
@aoi_fan_official:黒木さん怪我してない?
@guest_9921:手から血出てない??
@guest_13204:人間じゃないだろこれ
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果歩は登山道で立ち止まっていた。
引き返すべきか、このまま走るべきか——足が動かなかった。
すると、岩の向こうから、黒木が這い上がってくるのが見えた。
「黒木くん!」
果歩は駆け寄ろうとした。黒木は小さく手を上げてそれに応えた。
「逃げるぞ」
「でも葵たちが——」
「あいつらが逃げた方角は、さっき俺たちが森に入ったあたりだ。とりあえずそこまで行ってみよう」
黒木は登山道の先に目をやってから歩き出した。
果歩は黒木の背中を追った。
そして黒木の顔を見た。彼の息は全く乱れていなかった。とても崖を登ってきたばかりとは思えない。
それにあの落ち着きよう。彼は、果歩が想像する以上に、凄まじい人生を歩んで来たのかもしれない。
「どうしたんだ?」
黒木が振り返って果歩を見つめた。
「ううん、なんでもない」
見れば果歩は足を引きずるように歩いている。黒木は彼女のそばまで歩いた。
「なんでもないことがあるか……ちょっと見せてみろ」
「うん……」
黒木は膝をついてしゃがみ込むと、果歩のズボンの裾をめくった。
すると、膝が擦り傷で出血し、赤紫色に腫れあがっていた。
膝がガタガタと震えている。
震えが止まらない手、乱れた呼吸。
何でもないような顔をしていたが、内心はずっと怯えていたのか。
黒木は果歩の顔を見上げた。
「内出血している。痛むか?」
「歩けないほどじゃないわ……」
黒木は小さく頷いた。そして周囲をキョロキョロと見回して、小ぶりな岩を見つけると、そこへ果歩を座らせた。
そしてリュックの天蓋のチャックを開けて、小さな透明のケースを取り出すと、そこから傷薬のチューブを取り出した。
「まあ、気休めだが無いよりはマシだからな」
黒木はチューブのキャップを開けると、それをガーゼに絞り出した。そしてソッと傷口に当てると、医療用テープで固定した。果歩はその様子をジッと見ていた。
「ありがとう……」
果歩がそう言うと、黒木はチラリと上目遣いで果歩を見て、また目を伏せた。
その後、改めて歩きはじめたが、黒木は少し歩く速度を抑えていることがわかった。
果歩は歩きながら、色々と考えてしまった。
今日の出来事は一体何だったのか。
逃げる時は必死だったから、考える余裕などなかった。
しかし目の前の危機が去った今、どうして私たちがこんな酷い目に遭わなければならなかたのか、納得がいかないのだった。
果歩の中で、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
果歩は立ち止まった。
黒木が振り返ると、果歩は涙を流しながら立っている。黒木はその様子をジッと見守っていた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
黒木は果歩のそばへ寄り添った。
すると果歩は、肩を震わせて泣き始めた。
黒木は何も言わなかった。ただ、その様子を見守るだけだった。
果歩はしばらく泣くと、少し落ち着きを取り戻した。
泣き止んだ果歩に、黒木が優しく声をかける。
「あんなことがあった後だ。無理しなくていい」
果歩は小さく頷く。
「葵ちゃんや慎君は大丈夫かな……」
「うまく逃げているといいがな」
すると果歩は顔を上げて黒木を見た。
「黒木くんって、どうしてそんなに平気なの?」
黒木は少し不意を突かれたような顔をしたが答えなかった。
「どうしてあんなに強いの? 相手は刃物を持ったヤクザなのに」
黒木は少しの間黙ったまま、果歩から離れた。
そしてマイクの音量をミュートにすると、果歩の方へ身体を向けた。
「実はな……俺は昔、裏社会で働いていたことがあるんだ」
それを聞いた果歩は息をのんだ。黒木はその様子をジッと見つめる。
「裏社会といっても、盗みや詐欺とかじゃない。戦闘専門だ。ヤクザの親分の護衛をやっていたんだ」
「それであんなに強かったのね」
黒木は頷いた。
「俺はある日、レストランで楽しく食事をしている家族を見て……裏社会の仕事が嫌になったんだ」
「足を洗ったってこと?」
黒木は頷いた。
「俺は平凡な毎日を送っている人達をみて、強い憧れを持つようになったんだ。俺は多くの代償を払って逃亡した。そして過去を消して、黒木隆として生きることにした」
「嘘……!」
「嘘じゃない……」
黒木は俯いた。
「さっき話したレストランの家族——あれは、君たちのことだったんだ。半年前……大阪のバーノンズという店で。つまり、俺がカタギになったのは、君たち家族を目にしたからなんだ」
それを聞いた果歩は驚愕した。
「え……じゃあ、もしかして……前から私を知ってたの」
すると黒木は頷いた。
「黙っていて済まない……」
「あなた、ストーカーだったの?」
すると黒木は両手を振って否定した。
「誤解しないでくれ……。俺はストーカーなんかじゃない。あの合コンだってたまたま誘われて行ったんだよ。そしたら君がいたんだ。俺は心底驚いたよ」
果歩はじっと黒木を見つめた。
「しかも、俺を今回のイベントに誘ってくれた。俺には昔の稼業があるから、あまりこういう動画配信なんかで顔出しはしたくなかったんだが、君の頼みだから断れなかった」
「でもどうして? そんなに正直に話すの?」
「俺の戦う様子を見て、普通じゃないと嫌われると思ったんだ。でも、俺は君を守れて良かったと思っている。こうなった以上、君の前から去らなければならなかったとしても」
果歩は黒木の顔を見た。何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
その時、遠くで銃声がした。
黒木と果歩は、ビクッとした様子で空を見上げた。
「黒木君……今の?」
「ああ、おそらく葵たちに何かあったんだ」
「行かなきゃ!」
果歩がそういうと、黒木は首を振った。
「君はここへ残るんだ。俺が様子を見てくる」
「嫌! 私も行く!」
「君は怪我をしているんだ。連れてはいけない」
すると果歩は黒木をキッと睨みつけた。
「私はそんな弱い女じゃない!」
果歩そういうと、黒木を置いて走り出した。
黒木は大きく息を吐いた。
黒木は果歩を追って、銃声がした方へと走って行った。
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【同時視聴者数 312】
@trekker_joe:あれ、音声が切れたまま
@comutan_love:果歩ちゃん急に走り出した!
@nashi_gasuki:二人で何話してたの
@yamaholic_k:黒木さんも追いかけてる
@aoi_fan_official:葵ちゃんたちどこにいるの
@guest_9921:セカンドチャンネル見てみろよ
@guest_13204:音声オフのままじゃん、何があったの
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