六輪目「貸してるだけ」
D F M R N A F p
( )
pass:※ ※ ※ ※ ※
実家には、知らないものが住んでいた。
知らない、と言い切ると少し違う。
見たことのある顔立ちをしている。
人間の顔の並び方をしていて、
ちゃんと服も着て、靴も脱ぐ。
挨拶もする。
声もやわらかい。
けれど、何かが少しずつ遅くて速い。
笑うタイミング。
うなずく深さ。
目を閉じる長さ。
こっちの言葉を理解したあとの沈黙。
全部が、ほんの少しだけ、人の暮らしからずれていた。
遠いところのやり方を
そのまま人間の形に流し込んできたみたいだった。
やさしそうにも見える。
冷たそうにも見える。
たぶんどっちでもない。
たぶん、こっちがそう見たいように見てしまうだけだ。
父は、そういうものなんだと言った。
「しばらくいるだけだ」
「こっちにも少し戻ってくる」
「家ってそういうふうに回すものらしい」
何が戻ってくるのかは、よく聞こえなかった。
聞き返そうとすると、もう別の話になっている。
決まりだから、ということだけがいつも先にある。
( )の部屋は使わないようにしてあるとも言った。
だから問題ないはずだった。
でも、帰るたびに何かがなくなっていた。
最初は、机の上に置いてあった古いシャーペン。
次は、引き出しの奥の部活のメモ。
読み返しもしないプリント。
片方だけ残った靴ひも。
中学のころ使っていた定規。
たいしたものではない。
生活に困るものでもない。
だから最初は気のせいだと思った。
けれど、なくなり方が変だった。
探したあと、ではない。
盗られたあと、でもない。
最初からそこには何もなかった
と錯覚してしまうくらい何もなかった。
夕飯のとき、( )は父に聞いた。
「机の上のやつ、どこやった?」
父は味噌汁をひと口すすってから、何でもないことみたいに言った。
「貸してるだけだよ」
「は?」
「向こうにも要るだろ。そういうふうにしてるだけだ」
そのあとで、少しだけ困ったような顔をして付け足した。
「お前だって、もともと家のことに協力してなかっただろ」
言葉の意味が、うまくつながらなかった。
協力していない。
だから薄い。
薄いから、減っても仕方がない。
何が薄いのかは言われなかった。
権利なのか、立場なのか、部屋なのか、名前なのか。
はっきりしないまま、その理屈だけが食卓の上で完成していた。
廊下の向こうを、誰かが通る。
足音はない。
けれど、ないわりに床が沈む。
一人分の音で、別の重さまで運んでいるみたいだった。
ふと見ると、襖のすき間に影がある。
立っているだけなのに、待っている感じではなく
食べてる感じがした。
この家の温度や、音や、誰が何を大事にしているかを、静かに。
( )は自分の部屋に入る。
使われていないはずの部屋。
父がそう言った部屋。
ベッドもある。
机もある。
本棚もある。
なのに、もう自分の部屋ではなかった。
空気の層が一枚増えている。
知らない洗剤の匂いがする。
カーテンの癖が変わっている。
コンセントには細いケーブルが刺さっていて、先には何もつながっていない。
何もつながっていないのに、何かが続いている気配だけがある。
「使ってないよ」
父の声がした。
すぐ後ろにいるみたいに近いのに、振り向くと廊下の奥に立っている。
「貸してるだけだ」
その言葉は、父の声なのに、父が最初に言い出した感じがしなかった。
どこか別の場所で決められた文章を、そのまま読んでいるみたいだった。
( )は棚を開ける。
古い文集がない。
運動会の写真がない。
家族で行った場所のパンフレットがない。
誕生日にもらった小さな手紙がない。
卒業証書の筒だけがあって、中身はなかった。
息が止まりそうになる。
なくなっているのは物のはずなのに、先に薄くなるのは思い出の方だった。
家族で笑った夜の、光の色が抜けていく。
食卓の湯気だけが残って、誰が何を話していたか思い出せない。
帰り道に見た空の色が、名前だけ残して消える。
( )は居間に戻る。
「これ、物の話じゃないんだよ」
自分でも声が少し幼くなっているのがわかった。
「なくなってるの、物だけじゃない。家族との思い出まで消えてく感じがする。なんか変だよ。この家、おかしいよ」
父はしばらく黙っていた。
怒るでもなく、否定するでもなく、ただ少し遠い顔をした。
わからない話を聞いた人の顔ではない。
わかっているのに、そこには触れないと決めた人の顔だった。
「気にしすぎだ」
声はやさしかった。
やさしいのに、温度がなかった。
「そういう流れなんだ」
「変に考えるとしんどくなる」
「悪く取るな」
流れ。
悪く取るな。
言葉が全部、丸い。
丸いまま転がってきて、どこにも引っかからない。
だから余計に怖かった。
また廊下で気配がした。
知らない人たちは、めったにこちらを見ない。
でも見ていないだけで、ずっと把握しているようだった。
そのうちのひとりと、目が合った気がした。
異様に整った顔だった。
年齢も性別も、たぶん選べるような顔。
人に安心されるために作られた表情をしているのに、その表情の意味だけが空っぽだった。
そのひとは、ほんの少し口角を上げた。
親切にも見える。
観察にも見える。
許可を待っているようにも、もう中に入っているようにも見えた。
( )はもう一度、自分の部屋へ戻る。
本棚のいちばん下。
重いものを入れていた段。
そこに卒業アルバムをしまっていたはずだった。
しゃがんで、手を入れる。
ない。
代わりに、ぬるい空気が入っていた。
空気なのに、誰かの手のひらの跡みたいな温度だった。
そのとき、廊下で父の声がした。
「そのへんのは、もう大丈夫だろ」
誰に向かって言ったのかはわからない。
返事も聞こえなかった。
ただ、襖の向こうにいる気配だけが少し増えた。
( )はアルバムのあった場所を見つめたまま、動けなくなる。
卒業写真の中の家族の並びを思い出そうとする。
そう思ったはずなのに
顔が出てこない。
顔のかわりに、食卓の端に座る人、という輪郭だけが残る。
声が出てこない。
声のかわりに、台所で何かしている気配、だけが残る。
家族だったはずなのに、家族という名前の前の、もっと薄いものになっていく。
居間。
廊下。
寝室。
洗面台。
場所だけがはっきりしていて、そこにいた人たちは、役目の方へにじんでいく。
座る人。
片づける人。
帰ってくる人。
先に寝る人。
この家にいたのは父だったか。
母だったか。
それとも、そう呼ぶことでまとまって見えていただけの、配置のようなものだったか。
( )は立ち上がろうとする。
けれど、立ち上がり方が少しわからない。
自分の名前を、頭の中で呼んでみる。
呼んだはずなのに、うまく響かない。
( )という空白だけが先にあって、そこに入るものが決まらない。
アルバムがなくなったから思い出せないのか、思い出せないものから順に貸し出されているのか、そもそも貸したのか、置いたのか、あったのか、
そのへんの区切りが全部ぬるくてもうわからなかった。
何かが減ったのかもしれない。
なくなった、でもない。
残っている、でもない。
前はあった、でもない。
最初からそうだった、でもない。
ただ、家の中の並び方だけが少しずつ変わって、変わったことに気づくための目印の方が、順番に頼れなくなっていく。
襖が、ほんの少しだけふくらむ。
向こう側に、誰かいる。
言おうとして、( )は止まる。
言葉が急に薄い。
誰に言えばいいのかわからない。
この家には家族がいた気がするのに、その『いた』だけが残って、顔も名前も沈んでいく。
いなくなる、と思った。
物じゃない。
思い出じゃない。
次は、自分だと思った。
その瞬間、廊下の向こうで足音が止まる。
見る。
知らない人たちのあいだに、ひとり立っている。
背格好が似ている。
肩の落ち方が似ている。
立ち尽くすときの首の角度が似ている。
見慣れたはずの、自分の輪郭だった。
でも、少しだけ整いすぎていた。
自分より、自分らしく見えるように寄せてきた感じがした。
そいつは、( )を見ていた。
帰ってきた人を見る目ではなかった。
もうここにいる側の目だった。
口の端だけが、ほんの少し上がる。
笑った、というほどではない。
でも、ニヤリ、という言葉だけがぴったりの動きだった。
その顔を見た瞬間、( )は思う。
ああ、貸していたのは部屋じゃない。
そう思ったはずなのに、すぐそれもほどける。
貸していた、という形も違う気がする。
貸すには持ち主が要る。
持ち主には境目が要る。
境目はもう、さっきからずっと曖昧だった。
物でもない。
思い出でもない。
自分の場所そのもの、という言い方も少し違う。
もっと手前だ。
もっと名前のないところだ。
ここにいるはずのものの置き方。
そういうものだけが、静かに入れ替わっていた気がした。
声を出そうとする。
けれど、誰の声を出せばいいのかわからない。
廊下には、もう( )のようなやつが立っている。
実家はその奥で、何も変わっていないふりをしている。
座る人も、片づける人も、先に寝る人も、もう誰でもよかった。
家は家の形を保ったまま、中身だけを静かにずらしている。
そのずれの中で、( )だけが遅れる。
遅れたまま、自分のいた場所を見失う。
そして最後には、
見失ったのが場所だったのか、名前だったのか、自分だったのか、
それすら分からなくなる。
ただ、実家の廊下に、( )によく似たやつだけが
立っていて、こちらを見て、ほんの少し。
うれしそうにしていた。
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最終更新:2026/03/10




