二輪目「鉄骨塔の王」
D F M R N A F p
( )
pass:※ ※ ※ ※ ※
校庭の端に、鉄でできた骨みたいなものがあった。
晴れた日には白く光って、曇った日には空の色を吸って鈍く濁る。
子どもたちはそこに登った。高いところへ行くほど偉いみたいな顔をして、細い棒の上で笑った。
その日も、( )は上にいた。
風はぬるかったのに、手のひらの鉄だけが妙に冷たかった。
そこで、王に声をかけられた。
王といっても、本当に王なわけじゃない。
ただ、誰にも止められない子だった。
大きな声を出して
先に場所を取り
気に入らない相手に言葉を投げる。
周りは笑うか
黙るか困ったような顔をするだけだった。
逃げにくい高さで、王は言った。
「お前んちの大人って、ほんとどうしようもないな」
その言葉は、殴るみたいに鋭かったわけじゃない。
もっと悪かった。
湿った布みたいに、口と鼻の上に急に落ちてきた。
息がうまく吸えなくなる、あの感じだった。
そんなことを言われる筋合いはなかった。
( )は家の大人をちゃんと誇りに思っていた。
うまく言えなくても、胸の奥ではずっとそう思っていた。
だから、その柱みたいなものに
ぬるい泥を塗られた気がした。
しかも、そこは高かった。
少し足をずらしたら危ない場所だった。
降りたいのに、すぐには降りられない。
手を離したら駄目で
でも掴んでいる鉄は冷たくて
指の内側から体温を抜いていく。
あのとき、( )の中で何かが始まったのだと思う。
それから王は、ときどき現れた。
決まった時間ではなく、決まった場所でもなく
忘れたころに水のしみみたいに広がってきた。
廊下の角。
靴箱の前。
帰り道の細いところ。
気づいたらどこへ行っても
先に気配を探すようになっていた。
いるかもしれない。
今日は何もないかもしれない。
でも、あるかもしれない。
その「かもしれない」が、一番いやだった。
見えないまま、先にみぞおちへ入ってくる。
まだ何も起きていないのに
身体だけがもう遅いみたいな顔をする。
周りの子たちは止めなかった。
むしろかわいそうなものを見るみたいな目をしていた。
その目がまた、苦しかった。
わかっている顔をする。
ただそれだけ。
口を開かないのに
何かを見たことだけは伝わってくる。
その沈黙は、やさしさではなかった。
濡れた毛布みたいに重くて
かけられるほど息がしにくくなるだけだった。
やがて、( )の胸の奥には小さな笛が住みついた。
誰かの笑い声が遠くで重なる。
それだけで鳴る。
足音が速く近づく。
それだけで喉の奥が細くなる。
吸っても、うまく足りない。
吐いても、まだ胸のどこかに何かが詰まっている。
肺の中にいる小さな生き物が暴れて
出口を探しているみたいだった。
頭では、まだ何も起きていないとわかっていた。
けれど身体のほうはその説明を聞いてくれない。
身体はずっと早かった。
王よりも、周りよりも、たぶん( )自身よりも。
それでも、( )はじっと考えた。
速く走れるわけでもない。
大きな声で押し返せるわけでもない。
上の段に立てるような種類でもない。
だから、違うやり方を探すしかなかった。
どうすれば落ちないか。
どうすれば、次にどこで何が飛んでくるかわからないまま、毎日を渡っていけるか。
そして出した答えは、子どもらしくなかった。
外から逃げるだけでは足りない。
なら、輪の中に入る。
王がいる場所の近くへ、自分から行く。
火から離れるんじゃなく
火の回りにいる人間の顔を先に覚える。
( )は、小さな輪に入った。
そこには、見ている大人がいた。
王は誰にも見られていない場所で
よく膨らむことを、( )は何となく知っていた。
だから先に置いていった。
起きたことを、順番に。
どこで、いつ、どういう顔で、どういう声で。
曖昧にせず、けれど感情だけで崩れないように。
一つずつ。
小さな骨を並べるみたいに。
報せる。
残す。
また何かあれば足す。
泣きつくというより
湿った証拠を乾かすみたいに
静かに外へ出していく。
子どもが覚えるやり方じゃなかったと思う。
もっと別のことで忙しくしていていい年だった。
でも、( )は覚えてしまった。
場所はそのうち、少し広くなった。
小さな輪の次は、もう少し大きな輪。
昔の王と同じ地図の上で息をするしかない場所だった。
胸の笛は、そこでむしろよく鳴るようになった。
景色が変わっても、身体は古い地図を捨てない。
笑い声。
視線。
集まる気配。
そういうものが先にみぞおちへ触れる。
細い棒の上にいたあの日の高さが
急に足の裏へ戻ってくる。
それでも、気づいたら( )は
また同じ手順をなぞっていた。
輪の中に入る。
中心には立たない。
外側すれすれで流れを見る。
誰が黙るか。
誰が同情だけを置いて去るか。
誰の前なら言葉がただの空気にならずに残るか。
そしてまた、置いていく。
起きたことを、起きた順に。
自分が潰れない形へ並べ替えて、静かに渡す。
そのうち、王はいなくなった。
追い出されたのか。
別の塔へ移ったのか。
ただ飽きただけなのか。
それはわからない。
気づくと、誰も名前を出さなくなっていた。
あれだけ強く場所を占めていたのに、大きくなるとみんな急に知らない顔をした。
そういうものなのだと思う。
塔の上でだけ王だった者は地面に降りれば
記憶のはじに押しやられる。
止めなかった者も、困った顔をしていただけの者も
やがて何事もなかったように次の輪へ移る。
でも、( )の身体は移れなかった。
( )の中には今も、見えない見張りがいる。
人の声の温度で、先を読む。
輪の中心に立ちたがる者と
そのまわりで笑う者をすぐ見分ける。
何も起きていないことと
これから起きることのあいだにある
湿った膜みたいなものを先に触ってしまう。
それは、生き残るには役に立った。
けれど、そのかわりに、別の季節が住みついた。
急に胸の中だけ空気が薄くなる日がある。
春なのに、腹の底だけ冷たい日がある。
晴れていても頭の真上にだけ
灰色の雲が貼りついたまま剥がれない日がある。
小さな輪を抜けても、少し広い輪を抜けても、もっと大きな街へ出ても、その天気だけはついてきた。
もしかしたら( )は昔から
『目を開けたまま眠る生き物』に
なってしまったのかもしれない。
みんなは大人になってから、ようやく気づく。
あの塔は思っていたより低かったこと。
その上で威張っていた王は
ほんとうはずいぶん小さかったことも。
どうして誰も止めなかったのかを遅れて知ること。
でも、( )はまだ完全には目が覚めない。
鉄の冷たさ。
逃げ場のない高さ。
家の柱に泥を塗られたあの感じ。
それがまだ、身体の奥で乾いていない。
だから今も( )は輪を見る。
小さな輪。
少し広い輪。
もっと大きな輪。
大人たちの街にまで続く、見えない輪。
どこに王が立つのか。
どこで誰が黙るのか。
どこに記録を置けば、自分が落ちずに済むのか。
考えてしまう。
もう癖になっている。
才能でも、美談でもない。
ただあの日、ジャングルジムの上で
身体が勝手に覚えた生き残るための手順だ。
王は去った。
けれど、王のいた塔は、形を変えていくつも残った。
それでも、あの日、( )は落ちなかった。
落ちなかったから、今もここにいる。
胸の笛が鳴る日も
灰の季節が長引く日も
みぞおちを押さえたまま立っている。
まだ夢の中にいるみたいでも、立っている。
完全に目が覚めなくても、生きている。
それが、( )の身体が勝手に覚えた手順だった。校庭の端に、鉄でできた骨みたいなものがあった。
晴れた日には白く光って、曇った日には空の色を吸って鈍く濁る。
子どもたちはそこに登った。高いところへ行くほど偉いみたいな顔をして、細い棒の上で笑った。
その日も、( )は上にいた。
風はぬるかったのに、手のひらの鉄だけが妙に冷たかった。
そこで、王に声をかけられた。
王といっても、本当に王なわけじゃない。
ただ、誰も止めない子だった。
大きな声を出して、先に場所を取り、気に入らない相手に言葉を投げる。
周りは笑うか、黙るか、困ったような顔をするだけだった。
逃げにくい高さで、王は言った。
「お前んちの大人って、ほんとどうしようもないな」
その言葉は、殴るみたいに鋭かったわけじゃない。
もっと悪かった。
湿った布みたいに、口と鼻の上に急に落ちてきた。
息がうまく吸えなくなる、あの感じだった。
そんなことを言われる筋合いはなかった。
( )は家の大人をちゃんと誇りに思っていた。
うまく言えなくても、胸の奥ではずっとそう思っていた。
だから、その柱みたいなものに、ぬるい泥を塗られた気がした。
しかも、そこは高かった。
少し足をずらしたら危ない場所だった。
降りたいのに、すぐには降りられない。
手を離したら駄目で、でも掴んでいる鉄は冷たくて、指の内側から体温を抜いていく。
あのとき、( )の中で何かが始まったのだと思う。
それから王は、ときどき現れた。
決まった時間ではなく、決まった場所でもなく、忘れたころに水のしみみたいに広がってきた。
廊下の角。
靴箱の前。
帰り道の細いところ。
気づいたら、どこへ行っても先に気配を探すようになっていた。
いるかもしれない。
今日は何もないかもしれない。
でも、あるかもしれない。
その「かもしれない」が、一番いやだった。
見えないまま、先にみぞおちへ入ってくる。
まだ何も起きていないのに、身体だけがもう遅いみたいな顔をする。
周りの子たちは、止めなかった。
むしろ、かわいそうなものを見るみたいな目をしていた。
その目がまた、苦しかった。
わかっている顔をする。
ただそれだけ。
口を開かないのに、何かを見たことだけは伝わってくる。
その沈黙は、やさしさではなかった。
濡れた毛布みたいに重くて、かけられるほど息がしにくくなるだけだった。
やがて、( )の胸の奥には小さな笛が住みついた。
誰かの笑い声が遠くで重なる。
それだけで鳴る。
足音が速く近づく。
それだけで喉の奥が細くなる。
吸っても、うまく足りない。
吐いても、まだ胸のどこかに何かが詰まっている。
肺の中にいる小さな生き物が、暴れて出口を探しているみたいだった。
頭では、まだ何も起きていないとわかっていた。
けれど身体のほうは、その説明を聞いてくれなかった。
身体はずっと早かった。
王よりも、周りよりも、たぶん( )自身よりも。
それでも、( )はじっと考えた。
速く走れるわけでもない。
大きな声で押し返せるわけでもない。
上の段に立てるような種類でもない。
だから、違うやり方を探すしかなかった。
どうすれば落ちないか。
どうすれば、次にどこで何が飛んでくるかわからないまま、毎日を渡っていけるか。
そして出した答えは、子どもらしくなかった。
外から逃げるだけでは足りない。
なら、輪の中に入る。
王がいる場所の近くへ、自分から行く。
火から離れるんじゃなく、火の回りにいる人間の顔を先に覚える。
( )は、小さな輪に入った。
そこには、見ている大人がいた。
王は誰にも見られていない場所でよく膨らむことを、( )は何となく知っていた。
だから先に置いていった。
起きたことを、順番に。
どこで、いつ、どういう顔で、どういう声で。
曖昧にせず、けれど感情だけで崩れないように。
一つずつ。
小さな骨を並べるみたいに。
報せる。
残す。
また何かあれば足す。
泣きつくというより、湿った証拠を乾かすみたいに、静かに外へ出していく。
子どもが覚えるやり方じゃなかったと思う。
もっと別のことで忙しくしていていい年だった。
でも、( )は覚えてしまった。
場所はそのうち、少し広くなった。
小さな輪の次は、もう少し大きな輪。
昔の王と、同じ地図の上で息をするしかない場所だった。
胸の笛は、そこでむしろよく鳴るようになった。
景色が変わっても、身体は古い地図を捨てない。
笑い声。
視線。
集まる気配。
そういうものが先にみぞおちへ触れる。
細い棒の上にいたあの日の高さが、急に足の裏へ戻ってくる。
それでも、気づいたら( )はまた同じ手順をなぞっていた。
輪の中に入る。
中心には立たない。
外側すれすれで流れを見る。
誰が黙るか。
誰が同情だけを置いて去るか。
誰の前なら、言葉がただの空気にならずに残るか。
そしてまた、置いていく。
起きたことを、起きた順に。
自分が潰れない形へ並べ替えて、静かに渡す。
そのうち、王はいなくなった。
追い出されたのか。
別の塔へ移ったのか。
ただ飽きただけなのか。
それはわからない。
気づくと、誰も名前を出さなくなっていた。
あれだけ強く場所を占めていたのに、大きくなるとみんな急に知らない顔をした。
そういうものなのだと思う。
塔の上でだけ王だった者は、地面に降りれば記憶のはじに押しやられる。
止めなかった者も、困った顔をしていただけの者も、やがて何事もなかったように次の輪へ移る。
でも、( )の身体だけは、そこから移れなかった。
( )の中には今も、見えない見張りがいる。
人の声の温度で、先を読む。
輪の中心に立ちたがる者と、そのまわりで笑う者をすぐ見分ける。
何も起きていないことと、これから起きることのあいだにある、湿った膜みたいなものを先に触ってしまう。
それは、生き残るには役に立った。
けれど、そのかわりに、別の季節が住みついた。
急に胸の中だけ空気が薄くなる日がある。
春なのに、腹の底だけ冷たい日がある。
晴れていても、頭の真上にだけ灰色の雲が貼りついたまま剥がれない日がある。
小さな輪を抜けても、少し広い輪を抜けても、もっと大きな街へ出ても、その天気だけはついてきた。
もしかしたら、( )は昔から、目を開けたまま眠る生き物になってしまったのかもしれない。
みんなは大人になってから、ようやく気づく。
あの塔は思っていたより低かったこと。
その上で威張っていた王も、ほんとうはずいぶん小さかったこと。
どうして誰も止めなかったのかを、遅れて知ること。
でも、( )はまだ完全には目が覚めない。
鉄の冷たさ。
逃げ場のない高さ。
家の柱に泥を塗られたあの感じ。
それがまだ、身体の奥で乾いていない。
だから今も、( )は輪を見る。
小さな輪。
少し広い輪。
もっと大きな輪。
大人たちの街にまで続く、見えない輪。
どこに王が立つのか。
どこで誰が黙るのか。
どこに記録を置けば、自分が落ちずに済むのか。
考えてしまう。
もう癖になっている。
才能でも、美談でもない。
ただ、あの日、鉄骨塔の上で身体が勝手に覚えた、生き残るための手順だ。
王は去った。
けれど、王のいた塔は、形を変えていくつも残った。
それでも、あの日、( )は落ちなかった。
落ちなかったから、今もここにいる。
胸の笛が鳴る日も、灰の季節が長引く日も、みぞおちを押さえたまま立っている。
まだ夢の中にいるみたいでも、立っている。
完全に目が覚めなくても、生きている。
それが、( )の覚えた生き残り方だった。
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最終更新:2026/03/6




