泥まみれの笑顔を
夜の闇が深まる午後10時。保育園から帰宅したばかりの新任保育士の伊東あかり(23歳)は、散らかったワンルームの部屋で床に力なく座り込んでいた。テーブルの上には、指導案や連絡事項など、書類作成に必要な資料が山積みになっている。理想に燃えて保育士になったが、現実は書類作成や保護者対応、ベテラン職員との連携に追われていた。忙しい日々が続く中で、肝心の園児と心から笑い合う余裕がなくなっていた。
「こんなはずじゃなかった。私は本当にこの仕事がしたかったのかな…はぁ...」
思わず溜め息をつくと、山積みの資料の隙間から、園児が描いてくれた自分の似顔絵が目に入った。顔は色鮮やかなのに、口元はなぜかただ一本の横線で無愛想に描かれている。心から笑えていない自分を子どもに見透かされているようで、胸が締め付けられた。
「もう駄目だ。書類作成だけでも誰か代わりにやってくれたらいいのに。本当に猫の手でも借りたい」
そう呟き、顔を覆ったその時だった。コンコン。扉が控えめにノックされた。恐る恐る扉を開けると、そこには一匹の、ふっくらとした猫がちょこんと立っていた。
「夜分に失礼します。『猫の肉球も借りたい』、そのお言葉、確かに承りました」
猫にしては落ち着いた声に、あかりは目をこすった。夢ではない。現実に猫が話している。
「私はオテ猫と申します。あなた様の切実な願いを受け、お手伝いに参上いたしました」
オテ猫はそう言うと、躊躇なくあかりの部屋に上がり込んだ。
「ちょ、ちょっと、ダメだよ勝手に…」
オテ猫は床に落ちていた、口元が横線の似顔絵を肉球でそっと拾い上げた。
「ふむ、これはある意味、あなたの現状を映す鏡のようですね」
あかりは慌てて絵を隠そうとした。
「あ、いや、これはただの落書きで...」
オテ猫は静かに続けた。
「私から見ると、あなたは完璧な保育士像ばかりを追い求め、ご自身の純粋な心を置き去りにしているように感じます」
オテ猫は、棚に置いてあったクリアファイルを手に取った。中にはあかりが高校生の頃に書いた「将来の夢」と題された作文が入っていた。
「ふむ、この作文には『子どもたちと泥まみれになって笑い合いたい』とありますね」
あかりは少し涙ぐみながら言った。
「そんなこと、もう現実ではできないんです。安全管理、衛生面、保護者への配慮…理想だけではやっていけなかったんですよ」
「どれも大切なお仕事ですが、今、最も必要なのはこの作文に書かれていることではないでしょうか?」
オテ猫の言葉にあかりはハッとしたが、疲労困憊の今の自分には、どうすれば良いかはわからなかった。
「ただ、あまりにもお仕事で心身を酷使してますね。私がお手伝いできるのは、『明日、あなたが心から笑うための時間』を作ることだけです。書類作成はあなた様の大切なお仕事なので、体と心の休息は私に任せてください」
オテ猫はそう言うと、キッチンに向かった。
「スープを作るので、こちらの食材を使っても良いですか?」
「え、いいけど... 本当に料理できるの?」
「お任せください」
オテ猫はキッチンにあった卵やネギを使い、手際よく温かいスープを作り始めた。数分後、湯気の立つマグカップをあかりの前に差し出した。
「疲労には、心と身体に栄養が必要です。これを飲んでください」
「ありがとう...」
あかりはゆっくりとスープを一口飲んだ。
「…美味しい」
体に染み渡るような優しい塩気とネギの香りが、あかりの疲れていた胃と心をじんわりと満たしていく。あかりが美味しそうに食事をしている姿を見たオテ猫は、満足そうに頷いた。そして、あかりの硬くなった肩をそっと肉球でマッサージをしはじめた。
「えっ」
「これは、あなた様が明日、心から笑うための準備です。私が肉球を貸している間に、書類作成を進めてください。食後の後片付けも私が済ませておきましょう。私では子供達の笑顔は作れませんから」
「ありがとう...オテ猫君」
あかりの表情に少しだけ笑顔が戻った。マッサージが終わると、オテ猫はあかりからそっと離れた。オテ猫は音を立てずに食器を片付けた。その間、あかりは集中して書類作成に向き合った。
「終わった...」
あかりは書類作成が終わって久々に心からの解放感を覚えた。ふと顔を上げると、オテ猫が話しかけて来た。
「これにて、今宵のお役目は果たしました。私はこれで失礼しますが、一つだけお願いしてよろしいでしょうか?」
「え、何?私に出来ることなら」
「対価として、少しだけ私を撫でてくれないでしょうか?」
あかりは迷うことなく、オテ猫を優しく抱き上げ、心から撫でてあげた。
「本当にありがとう。助かったよ」
「ニャア...癒されました」
(こういうところは普通の猫なんだな…)
「リフレッシュできたあなたなら、子供達を笑顔に出来るでしょう!また、心から『猫の肉球も借りたい』と願われた時、お会いしましょう」
翌朝、あかりはいつものように園庭に出た。オテ猫が時間の余裕を作ってくれたおかげで、心身ともに余裕ができ、いつもよりも心からの笑顔を作れる気がした。さっそく、一人の園児があかりの手を引いて来た。
「先生、砂場で山作りたい!」
園児の笑顔に思わず釣られた。
「いいよ!先生も手伝う!」
あかりは心からの笑顔で、園児と一緒に砂場で山を作り始めた。泥まみれになり、スカートに砂がついても気にしない。その無邪気な笑顔は他の園児たちにも伝染し、園庭は歓声と笑いで溢れた。
数日後、園児が描いたあかりの新しい絵には、子供達と泥まみれの砂遊びをしているあかりの姿が描かれていた。




