第48話 その英雄、アリーシェについて考える
まだ麦の収穫すら終わっていないのに、突然公爵家へ訪れた嵐は北の地から季節外れの大寒波をも巻き込んで、わたしの全身を震え上がらせた。今、パール婦人は継母を送り届けるために玄関まで見送りに向かっている。客間には、奇しくもわたしとネンネ、ソルファ様とスミスさんの四名だけが残されていた。
恫喝――
継母はソルファ様へ尋ねた。わたし、アリーシェの名をどこで聞いたのか? そもそもわたしは本来此処に居てはいけない存在。わたしの存在意義は、姉ローズの替え玉としてのみ成立する。つまりはアリーシェという存在を、ソルファ様へ伝えてはいけなかったんだ。少なくとも、継母にとってアリーシェという名前を出す事は不可侵領域へ侵入を許す行為だったんだ。
寒い。腕と背中の古傷がズキリと痛む。
『あなたは! どうして! 立場を弁えないの!?』
「ごめ……んなさい! ごめんなさい!」
子爵家の手伝いから笑顔で帰って来たわたしを継母は鞭で叩いた。社交界で気に入らない事があれば、まるで八つ当たりのようにわたしの背中に火を点けた蝋燭の蝋を垂らした。恫喝は……継母が鞭で叩く合図のようなものだった。
「――様、お嬢様!」
誰かが肩に手を置いた事で振り返ると、心配そうなネンネの顔。ハッと我に返って廻りを見渡せば、同じく心配そうにこちらを見つめているスミスさんとソルファ様。そして、わたしと目が合った瞬間、ソルファ様がこちらへ駆け寄って来て……!
「ローズ、君って人は!」
「え?」
一瞬何が起きたのか、分からなかった。背中に何か暖かい温もりと、陽の光が全身を包み込んでくれるような優しさ。これって……もしかして……いや、もしかしないでも、わたしの身体はソルファ様に抱き寄せられていた。
「あの様子。アリーシェも君も、今までもゴルドー婦人から酷い仕打ちを受けて来たんだろう? 今まで、辛かったな?」
「え? いえ……わたくしは……大丈夫ですわよ」
わたしを抱き寄せたまま、耳元で囁いてくれるソルファ様の声が温かい。でも、大丈夫なんですの。だって、今のわたしはローズ。わたくしはローズ。アリーシェじゃないもの。だから酷い仕打ちを受けていたのはローズじゃないの。だから、大丈夫……。
「ローズお嬢様!」
「ロ、ローズ様!」
ネンネとスミスさんが同時に声をあげたところで、ソルファ様が抱き寄せていたわたしの身体を戻し、わたしの顔を見て……そして目を見開く。
「大丈夫なら、どうして今泣いているんだ」
「え?」
双眸から涙が流れている事に気づいていなかった。え? 嘘? どうして止まらないの。あれ? あれ?
「いえ、これは違うんです。別に今まで辛かったとか、そんなんじゃなくて……嘘……止まって……」
「これを使うといい」
ソルファ様が懐より取り出したハンカチは綺麗な鷹の刺繍が入ったシルクのハンカチ。わたしは黙って頷き、ソルファ様から受け取ったハンカチで涙を拭う。そのタイミングで無事に玄関先まで継母を送り届けたパール婦人が帰って来たためもう大変。『ソルちゃん、あなた! まさか、女の子を泣かせたの?』と迫られるソルファ様。慌てて否定するわたし。そこからもう弁解するのが大変で。
暫く経って落ち着いたところで、パール婦人が改めてわたしへ声を掛けてくれた。
「疲れたでしょう。今日はお風呂に浸かってゆっくり明日へ備えなさい。心配には及びません。キャサリーナがお茶会の場を乱すような行為をしたならば、ルモーリア貴婦人会を除籍しますので、あなたはドーンと構えていればいいのよ? ローズさん」
「じょ、除籍!? そこまでしなくても……」
貴婦人会を除籍するという事は、ルモリーア王国の貴族としての立場と権威が崩れるという事に等しいのだ。つまりパール婦人はそれだけの権限を持っている……という事になる訳で。パール婦人はどこまでも広がるルモリーア海のような美しく蒼い髪を靡かせ、物憂げな表情のわたしを笑顔で包み込んだ。
「いいえ。どんな理由であれ淑女を泣かせる者に、貴婦人を名乗る資格はありません」
◆
サウスオリーブ公爵家のお風呂にてわたしとネンネ二人きり。誰も居ない中、ネンネがわたしの心を気遣ってくれて、ふわふわの泡で身体を洗ってくれた。お風呂の温かいお湯に浸かったところでようやくわたしはそれまでの重圧を吐息と共に吐き出した。
「ふぅ~~」
「よく頑張りましたね、アリーシェお嬢様」
明日はいよいよお茶会本番なのだ。気持ちを切り替えて挑まなければ、継母の重圧に潰されてしまうのだから。湯舟に浸かったまま、ネンネが後ろからわたしを抱き締めてくれる。伯爵家で夜な夜な一人むせび泣いていた時も、ネンネが駆け寄ってくれてこうやって後ろから抱き締めてくれたっけ。
「いつもありがとう、ネンネ」
「はい。アリーシェお嬢様。たとえ世界が敵に回っても、私はあなたの味方ですよ」
「うん」
「それにここでは、パール婦人もサウスオリーブ公爵も、ソルファ様もスミス様も、勿論私ネンネも。みんなアリーシェお嬢様の味方ですよ」
「ええ。そうね」
床で一人藁を被り寝ていたあの頃は、こうやって湯舟に浸かる時間すらなかった。冷たい冷たい鉄格子の牢獄に閉じ込められたかのような日々。でも、今は温かい。時折こうやって陽光が、わたしの心を温めてくれる。ネンネの言う通り。あの時抱き寄せてくれたソルファ様も、パール婦人の笑顔も、みんなみんな温かい。それだけで充分だ。
これが替え玉という仮初めの幸せだとしても――
◆
わたしとネンネがサウスオリーブ公爵家のお風呂へ入っているその時、公爵家の裏手。月灯りも照らしていない暗がりの場所で一人、彼は立っていた。
「ジウ」
「はい、此処に」
暗がりの中、名を呼ばれた黒装束の密偵は、彼の前に傅く。
「キャサリーナ・ゴルドー婦人の素性を調べてくれ。そして、ローズ・ゴルドー、アリーシェ・ゴルドー、二人の娘の調査も例の件と共に頼む。勿論、今回の盗賊団任務の後で構わん」
「御意。中央に居る部下へ先に指示しておきます」
常闇へと姿を消す密偵。一人になった彼は、腰に携えていた剣を引き抜き、二、三、旋回した後、闇の中で真っ直ぐ刀身を振り下ろす。刀身が風を切り、草が靡いた。まるで精神を統一する所作をしているかのように、一人、剣を振るい続ける彼。
「妹のアリーシェ嬢は東の果ての修道院に居ると、確かローズ嬢は言っていた。それが本当ならば、ゴルドー婦人の危害はないと信じるしかない。が……あのメイドの双眸は何だ。アリーシェ嬢ではない……と言っていたが。今は詮索するのは止めだ。ローズ嬢を守るためにも、盗賊団を殲滅せねば」
彼の独白は誰に聞こえる事も無く、闇へと紛れる。
勿論、お風呂に入っていたわたし、アリーシェは、彼――ソルファ様のこの時の行動など、知る由もないのです。
こうしてそれぞれの夜は更けていき――
いよいよ盗賊団討伐遠征、そして、パール婦人主催のお茶会当日を迎えるのでした――




