第4話 その伯爵令嬢、傷だらけにつき
「アリーシェお嬢様……ネンネは先が思いやられます」
「ご、ごめんなさい」
わたしの歓迎会と銘打って開かれた食事会は、ソルファ様の号令と共に沢山の料理が並べられ、残った料理は侍女や作った料理人の方々にも美味しく食べて貰う形で幕を閉じた。わたしもこんなに食べたのは初めての経験で、幸せ成分がお腹に溜まり過ぎて動きが鈍くなっていたわたしの様子を察したネンネが、今日は移動で疲れているからという理由で事前に用意して下さっていた自室へ戻る時間を設けて貰うよう、スミスさんへ伝えてくれたのだ。
ネンネが怒るのも無理もない。何せ料理を一口口へ含む度、わたしは何処か違う世界へ旅立ってしまっていたのだから。わたしの横でネンネはあまりにハラハラし過ぎて食事も喉に通らなかったみたい。
「え? あんなに豪華なお食事だったのに!?」
「そうなった原因は誰ですか?」
「はい、わたしです」
「はぁ~。まぁ、侯爵家の方々にはかなり好印象のようでしたし、良しとしましょう」
「え? 好印象? 何の話?」
「こっちの話です。アリーシェお嬢様はお気になさらず」
ネンネには食事に感謝する事はあれど、食事中に脳内で世界旅行をするのは止めて欲しいと改めて釘を刺された。はい、気を付けるようにします。そもそも、先程の様子は最早ローズではなくアリーシェそのものだったとも。そうですね、あまりにも豪華なお食事を前に、演じる事をすっかり忘れてました。
本物のローズ姉が、もしあの会場で料理を嗜むならば、沢山ある料理の中から好きな物だけを少しずつ食べていただろうとの事。所作は常にお淑やかに優雅に。それを聞いて驚いた。どうやら自宅で『そんなのありえませんわ』といつも言ってるローズ姉、社交界の場では、淑女を演じているらしい。
また、貴族の家によっては、侍女や使用人によって準備された食事が残った場合、そのまま捨てられてしまう事も多いみたい。そういえばゴルドー家でも、姉達が食べる食事はいつも残って当たり前だった。今日の侍女や料理人の方が喜んでいる様子を見ると、グランディア侯爵家も似たような状況なのだろうか?
育ってくれた作物や牛さんへの感謝が溢れるわたしからすると考えられない話。せっかくなら侍女さんや執事さん、こんな美味しい料理を作ってくれる料理人の方々にもお食事を楽しんでもらいたいものだ。
「ともあれ、初日は無事に事なきを得た事ですし、そもそもソルファ様の本命がアリーシェ様ならばこちらとしても好都合ではないですか?」
「いやいやネンネ、全然好都合じゃないから! わたしはこれからどうすればいいの?」
「姿はローズ様、中身はアリーシェ様のままでお過ごしになれば、きっと何も問題ございません」
『まぁ、少し暴走を抑えていただけると幸いです』と付け加えたネンネの言葉もしっかり聞こえてますからね?
今から六ヶ月間、仮の婚約相手としてソルファ様にあくまでローズとして、わたしが相応しい人物かを知ってもらう。貴族の仕来りや淑女としての振る舞いなんて、本で見た知識しかないわたしが、果たしてソルファ様に認めて貰えるのかどうか……むしろ不安でしかない。
それもそうなんだけど……。
「あんな真っ直ぐな瞳で迫られると無理……もう無理です……」
「お嬢様、そこはネンネが全力でサポートさせていただきます」
なんだかネンネがわたしの横で何やら燃えている。血も涙もないと噂されていたソルファ卿も今のところ、そんな様子は見られないし、むしろすっごくいい人な印象しかない。あの地獄のような毎日を考えると、こんなに穏やかな一日が信じられない位だし、お腹の幸せ成分で満たされているし、やるしかないわよね。
「ネンネ。わたし、頑張ってみる!」
「お嬢様、その意気です」
そんなこんなで、わたしが丁度決意表明をしたタイミングで、部屋の扉がノックされる。お屋敷の侍女さんの一人だった。どうやらお風呂の準備が出来たらしい。使用人の方々は別のお風呂を使っていて、侯爵家の人間のみが愛用している露天風呂があるのだそう。どうやら、ネンネとわたしで使っていいとの事。何だか有難い話ばかりで夢のような気分だ。
「それでは失礼致します」
「ありがとうございます。では、ネンネと使わせていただきます」
侍女さんに案内されるがまま、お二階へ用意された自室を出て一旦中央の階段を降り、お屋敷の離れへと続く渡り廊下を抜けていく。庭園の池に映り込んだお月様が煌めいていて、お魚が跳ねた。ゆったりと流れる時間が心地いい。こんなに優雅な日常、わたしにとっては初めてかもしれない。
離れに創られた露天風呂。護衛と御用聞きも兼ねて、入口にはちゃんと侍女さんと執事さんが待機しているので、何かあったら呼んでくれとの事。脱衣室から露天風呂までネンネが中に誰も居ない事を確認。うん、大丈夫そう。え? 何故こんなに念入りに確認をするのかって?
そりゃあ、ローズのかつらを取るからですよ。
お風呂問題はネンネと打ち合わせ済。身に着けていた衣服で包み込むようにかつらを隠す。虹色咲花の花弁から創った目薬の効果もお湯で切れてしまうため、ネンネが小袋に入れて用意している。流石に令嬢の下着が置いてある籠を覗く不届き者は侯爵家に居ないと信じたい。
脱衣室を抜けて、お風呂場へ出る。先程庭園の池を照らしていた満月が、湯気に紛れて露天風呂にも映り込んでいて、とても風情があって素敵だ。
「アリーシェお嬢様、お背中お流ししますね」
「ネンネ、いつもありがとう」
かつらを脱ぎ捨てたわたしは今、アリーシェ。わたしは知っている。剥き出しのわたしの身体はとてもじゃないけどソルファ様に愛されるような資格なんてない。わたしの手脚と背中には、無数の傷があった。当たり前のように日々鞭で打たれた跡は、そう簡単に消えてくれない。蝋燭の灯によって幼い頃つけられた右腕の傷は今もずっと残っている。傷だらけのわたしの背中を優しくネンネが泡で包んでくれる。新しく出来た背中の傷の一つにネンネの持つ布が触れ、わたしの顔が少しだけ歪む。
「痛みますか?」
「ええ、ちょっと。でも、大丈夫」
泡を洗い流して広いお風呂へネンネと浸かると、今迄の苦悩や悲哀、様々な感情が洗い流されるようだった。温かさが心地よい。遠くの国では女神さまのご加護がある聖なる川へ沐浴し、罪や穢れを洗い流す文化があると聞いた事がある。わたしの身体に残った穢れは、このお湯で流れ落ちるのだろうか?
「お嬢様、侯爵家にいる限りは、もう、アリーシェお嬢様の身体が傷つく事はきっとありません。もう、大丈夫ですよ」
「……ありがとう」
わたしの気持ちを察してか、一緒に浸かるネンネが話し掛けてくれる。ネンネが一緒でよかった。わたし一人だったらきっと不安がいっぱいでやっていけなかったと思う。
背中をそっとさすってくれるネンネの掌も温かい。
わたしの身体に深く刻まれた傷が癒える事はもうないのかもしれないけれど。
今、この時だけは、温もりに包まれた傷痕の痛みが癒えていくような、そんな気がしたわたしなのでした。