第32話 その伯爵令嬢、希望の祈りを捧げる
「え? え!?」
わたしの頭からプシュっと湯気が噴出したのはソルファ様が『わたしの目の前でアリーシェへの愛を語った時』以来、二回目な気がする。
「どうしたんだい? ローズちゃん。社交界でも君の顔は何度かお見掛けしている。君ほどの素敵な淑女ならば、貴族の挨拶なんて手慣れたものだろう?」
「す、素敵なレレレ、レディーですって?」
左手首に手を添えたまま、こちらへ微笑みかける公爵。顔が近い! 眼差しが眩しい! ルモリーアの海に反射する陽光くらい眩しい。何かキラキラとした星々の光線がサウスオリーブ公爵からわたしの双眸へ迫って来たところで……。
「こらアクア、初対面で距離を詰めすぎだ。ローズ嬢が驚いているだろう?」
「おっと。これは失礼した。ローズちゃんは君の婚約者だったね、ソルファ」
添えられていた手が離れた瞬間、流れるようにしてソルファ様の背後へ隠れるわたし。もう一度ウインクするものだから再びソルファ様を盾にする。わたしを守るようにして両の掌を腰に当てて立っているソルファ様はなんだかご立腹だ。
「ローズというルモリーアに咲いた華の隣席を君から奪うつもりはないから安心するといい」
「その性格、相変わらずだな。まぁいい。公爵自らわざわざ出迎えてくれた事には感謝する」
ソルファ様が一礼したところで、噴水の横から案内役の執事さんらしき人がやって来た。どうやら私たちを、お屋敷の中へ案内してくれるそうだ。グランディア侯爵家同様、サウスオリーブ公爵家のお庭もすごく手入れが行き届いていて、お庭の途中の池にはなんと金色の鱗を輝かせるお魚さんが跳ねていた。何て魚だろうか? 庭園途中には蒼い薔薇をアーチ状に囲んだ薔薇園も見えた。お庭をお散歩するだけで半日は気が紛れそう。
移動中もソルファ様とサウスオリーブ公爵は親しげに話していた。不思議だ。侯爵家と公爵家。何せ身分が違う。貴族社会には派閥があって、王からの寵愛や信頼を勝ち取ろうと、地位と名誉のために争う貴族も居るって聞いた事がある。でも、二人はまるで、昔から知っている仲のような、まるで兄弟のような距離感で近況を語り合っていた。
「ローズ殿、気になりますか?」
「あ、スミスさん。ええ。ソルファ様とサウスオリーブ公爵のご関係って」
「元々サウスオリーブ公爵の母君様であるパール婦人は、グランディア侯爵家の今は亡き奥方様であるクリスタ・グランディア様の姉。つまり、ソルファ坊ちゃんと、アクア殿は従兄弟という間柄なんです」
「嗚呼、それであんなに親しげなのね」
スミスさんの説明に合点がいく。ちなみに二人の年齢は二十五歳で同じ歳なんだそう。そりゃあ敬語で話す間柄じゃなくなるのも無理もない。公爵家の客間へと案内されたわたし達。透明な水晶のテーブルには刺繍入りのクロスが敷かれており、上からはシャンデリア吊り下がっている。ふかふかの長いソファーの横へ立ったところで、わたしの前に立ったサウスオリーブ公爵が改めて挨拶をしてくれた。
「ようこそ、サウスオリーブ領へ。ローズちゃんとちゃんとお話するのは初めてだから、改めて自己紹介しておこう。ぼくの名はアクア・マリーナ・サウスオリーブ。このサウスオリーブ領主を務めている。ちなみにそこに居るソルファとは従兄弟だ」
「ゴルドー伯爵家長女、ローズ・ゴルドーと申します。よろしくお願いしますわ」
カーテシーをした後、握手を交わすわたしとサウスオリーブ公爵。公爵がウインクしたところでソルファ様が軽く咳払いをしたため、ぱっと手を離した公爵が促し、皆ふかふかのソファーへと座る事となった。
「ローズちゃん。母のお茶会への付き合ってくれるようでありがとう」
「いえいえいえ! むしろわたしのような伯爵家の者がご招待されるだけでも恐れ多いですから。こちらこそ感謝です。あのパールご婦人は今日は?」
「母は今日も公務で外出していてね。たぶん夕刻には戻るんじゃないかな?」
ルモーリア貴婦人会・副会長という肩書きを持っていらっしゃるだけあって、パール婦人は普段から相当忙しくしているみたい。このお茶会もパール婦人の気まぐれで始まったものらしいんだけど、ミルア騎士団長が以前話していたように、気づけばルモリーアの淑女達の間で〝上流貴族の登竜門〟と言われるようになったようで。
「そうですか。お会いするのを楽しみにしていますわ」
「母もローズちゃんに逢うのを楽しみにしていたよ。母が来るまで、こちらは先にソルファと例の件の打ち合わせをしておこうと思うよ」
「そうだな。オレとしてはローズ嬢の護衛と、例の件、どちらも兼ねて此処へ来ているからな」
そう。ソルファ様の任務。表向きはわたしの護衛。だが、実際はサウスオリーブ領で悪さをしている盗賊団の尻尾を掴む事が本来の目的なのだ。
「ローズ嬢。難しい話になると退屈だろうから、スミスとネンネさんと、公爵家を見て回るといい。昔から此処を訪れているスミスにとっては庭みたいなものだ。アクア、いいだろう?」
「嗚呼、勿論だ。行ってらっしゃい、ローズちゃん」
「あの……そのローズちゃんって言うのは……」
「ん? どうした?」
「なんでもありませんわ」
あんな眩しい視線を向けられてローズちゃんって呼ばれ続けると、心臓が幾つあっても足りない。恭しく一礼したわたしは、ネンネへ合図し、早々に部屋を出る事にした。スミスさんが一礼し、わたし達へ続く。
「小一時間ほどでお話は終わるでしょう。ローズ嬢、何かご要望はありますか?」
「いえ……あ、でも先程の庭園を見てみたいですわ」
「承知致しました。では、参りましょう」
スミスさんによると、お茶会が開かれるまでの一週間は現状の調査期間。その後、盗賊団の調査次第では一ヶ月近く、サウスオリーブ領へ滞在する事になる可能性もあるとの事だった。元々余暇でサウスオリーブ領へ残る貴族達も多く、長期滞在について怪しまれる事もないだろうとの事。
庭園の入口にある蒼い薔薇のアーチを潜り、手入れの行き届いた花壇を愛でる。蜜蜂が花の蜜を吸っている。蒼い薔薇をゆっくり眺めていると、白い蝶々がわたしの鼻に止まった。
「ふふふ。わたしの鼻はお花じゃないわよ?」
「きっとローズお嬢様から薔薇の香りがしたんでしょう」
ネンネもスミスさんも微笑ましくその様子を見ていた。
「ローズ様、蒼い薔薇は女神さまの祝福を受けて色が変わったとされる〝奇跡〟の薔薇と呼ばれています。花言葉も〝奇跡〟〝祝福〟、そして、〝夢が叶う〟とも。アリーシェ様の夢が叶うかもしれませんね」
「わたしの……夢」
わたしの夢……このままこの穏やかで笑顔に溢れる時間が続く事。それが、わたしの夢。ローズお姉様として……ではなく、アリーシェとしての夢。そして、ソルファ様のような素敵な御方と……いや、わたしの今の立場ではとてもじゃないと願う事すら許されない夢だ。
そもそも〝替え玉〟のわたしは、果たして自分の夢を叶えるなんて資格、あるんだろうか?
でも、そんな願いが本当に叶うのなら……わたしはその場に立ったまま、祈りのポーズで蒼い薔薇へ希望ある未来を祈るのでした。




