第31話 その伯爵令嬢、公爵様より貴族風挨拶の洗礼を受ける
オリーブの町で一夜を明かしたわたし達。
「ふぁああ……おはようございますですわ、ソルファ様」
「どうしたローズ嬢!? 眠れなかったのか?」
「ええ、新天地の事を思うと眠れませんで……」
「そうか。馬車で移動の間、少し休むといい」
「ご厚意、感謝致しますわ」
この日、わたしが眠れなかった理由は、旅先に思いを馳せていたから……ではなかったりするのです。
原因は昨晩、お部屋でのネンネの会話です。嗚呼、お食事中の世界旅行の件で怒られたからでもないですよ?
聞いた話によると、スミスさんから事前に宿の部屋割りの相談があったんだそうで……。わたしとソルファ様、一緒の部屋に泊まる未遂だったみたいで。
「いずれ、アリーシェお嬢様がローズお嬢様ではなく、ソルファ様が一目惚れされた本物のアリーシェお嬢様であると明かせる日が来るといいのですが、今、変装を明かす訳にはいきません故、ソルファ様とスミス様が部屋をご一緒する事になりました」
「ええええ!? 危ないっ!? ソルファ様と同じ部屋に泊まるだなんて……心臓が幾つあっても足りないよぉ~」
「そうですね。まぁ、二人きりになる前に、アリーシェお嬢様にはもう少しソルファ様へ慣れていただかないといけませんね」
「それってどういう……?」
「なんでもありません。さ、明日も早い出発のようですし、今日は早めに休みましょう」
「はーい」
眼鏡をチャキっとするネンネが一体何を考えているのか、この時のわたしは知る由もない訳で……。
結果、ソルファ様と二人きりだったらどうなっていたかを考えて夜も眠れなかったわたしは、寝不足のまま朝を迎えたのです。
サウスオリーブ領、中央に位置するオリーブの町より南へ半日ほど。北に位置するディアス領から、オリーブの町、海沿いの港町マリーナまでは街道が整備されており、道の凹凸でお尻が痛くならない事に感動した。それでもまだまだ森の奥から野盗に襲われる心配もあるため、侯爵家の馬車を、騎士団の護衛と密偵のジウが陰から見守りつつ追ってくれていた。まぁ、そんな事をしなくても、西の英雄ソルファ様が一緒なだけで、これ以上の安心感はない訳で。
「野盗程度ならば、坊ちゃんの手を汚さずとも、某がお相手致しましょう。フォッフォッフォッ!」
「あの……なんだか襲われて欲しそうな顔してません、スミスさん?」
道中、わたしがスミスさんへ尋ねると、スミスさんが昔話をしてくれた。先の戦争よりももっと昔、まだまだ内紛や貴族間の争いも多く、スミスさんのお家はその紛争に巻き込まれて燃えてしまったんだそう。そんなスミスさんを拾ってくれたのが、侯爵家の先々代、つまりソルファ様の曾お爺様なんだそう。そして、激動の時代を生き残るため、スミスさんは若くして鍛錬を重ねていたらしい。
「オレが幼い頃は、スミスが剣の稽古をしてくれたものだ。懐かしいな」
「今では坊ちゃんの足許にも及びませんぞ」
昔話をするスミスさん、何だか嬉しそうだった。普段温厚そうなお爺ちゃん執事のスミスさんだけど、本当は強いのかも。執事の服を破り捨てて筋肉隆々なお爺ちゃんの姿になるスミスさんの絵が一瞬浮かんだので、蝋燭の火を吹き消すみたいにわたしの中の妄想を消しておいた。
そうこうしている内に、北のオリーブ畑の香りへ折り重なるようにして、海の潮の香りが段々と強くなって来た。遠くの海が陽光を反射して煌めいてみえる。嗚呼、あのディアス大農園の丘から見えたルモーリア海がこんなにも近くに。君に見せたい景色があると言ってくれたソルファ様の事を思い出して、思わず顔が火照ってしまう。
それにしても、同じルモーリア王国に居るのに、大きな都市であるルモリーア城がある中央のモーリア領。大農園がある大自然に囲まれた西のディアス領。そして、一年中温暖な気候に恵まれる海に囲まれたサウスオリーブ領と、まるで見ている景色も、流れて来る香りも全く違う。ゴルドー伯爵家に閉じ込められ、子爵家の手伝いに街を往復するのみの生活しか送っていなかったわたしにとっては、毎日が発見と感動の連続で。
「海、綺麗……」
「ルモリーア自慢の海だからな。サウスオリーブ領には、マリーナリゾートという観光地もある。ローズ嬢、この任務が無事に終わったら、一緒に観に行かないか?」
「いいのですか?」
「嗚呼、勿論だ」
マリーナリゾートとは、各地から観光客が訪れる余暇を楽しむ場所らしい。そんな場所がルモリーア王国にあるだなんて、全然知らなかった。ん? ネンネが耳元で囁いているよ?
「ローズお嬢様、私の知り合いのデザイナーに露出を抑えた水着を手配しておきますね」
「へ? 水着……はっ!?」
万が一ソルファ様へ声が漏れた時のためにローズお嬢様と呼ぶネンネは抜かりない。水着と言われて気づいた。そう……浮かれている場合ではないんだった。わたしの身体はそもそも傷だらけなんだ。肌を露出した時点で、背中や腕の傷が露わになってしまう。お湯に入る訳ではないから、瞳の色を変える虹色咲花の効果が切れる訳ではないのだけれど、かつらにも配慮しなければならない。
そもそも、最近のわたしは浮かれすぎだ。わたしはあくまで、ローズお姉さまの〝替え玉〟だ。ローズお姉さまを演じ、ソルファ様へ認められるという目的があって此処に居る。サウスオリーブ領へ訪れたのも、領主であるサウスオリーブ公爵のお母様よりお茶会への招待状があったため。加えて、ソルファ様もサウスオリーブ領へ潜む盗賊団を調査するという騎士団の任務があるんだ。決して余暇を楽しむため、此処へ来た訳ではない。
「どうした? ローズ嬢?」
「あ、いえ。なんでもありませんわ」
「そうか、まぁいい。そろそろ港町マリーナへ到着する。まずはサウスオリーブ公爵の下へ挨拶に向かおう」
「そうですわね」
こうして、ローズとして気を引き締め直したわたしを乗せた馬車は、港町マリーナ入口の門へと到着する。
そして……。
「一体、あれは何ですの?」
「ローズ嬢、サウスオリーブ領は初めてなのか。あれはゴンドラ。マリーナは運河の町。ああやって市民は手漕ぎのボートに乗って移動するんだよ」
「そう……なんですのね」
横からネンネが瞳のキラキラを押さえて下さいと囁くものだから、慌てて興奮を押さえるわたし。
水の都――港町マリーナ。石畳で創られた街道に、街の至るところに伸びる運河。ゴンドラで移動する人々。遠く見える港には大きな船。潮の香りを乗せた爽やかな風は、日々の不安を吹き飛ばしてしまうかのよう。
そして、馬車は港町の中央に位置する大きな屋敷の中へと入っていく。屋敷のお庭、中央に大きな噴水があり、見た目ソルファ様と同じくらいの歳だろうか? そこに一人の若い人物が立っていた。
「やぁやぁ久しいね、ソルファ。そちらが例の一目惚れの女性かい?」
「嗚呼。ローズ・ゴルドー伯爵令嬢だ。ローズ嬢、彼がアクア・マリーナ・サウスオリーブ公爵だ」
「ローズ・ゴルドーと申します。え? 公爵様なのですか?」
美しいルモリーアの海を投影したかのような海色の双眸と長い睫毛。そんな双眸と同じ色の髪が、肩まで伸びており、衣装も純白のズボンと貴族の服の上から薄紅色の外套を羽織っており、女性と見間違える程の美しさ。驚くべきは公爵様がお若いという点。ソルファ様はグランディア侯爵家嫡男であり、あくまで次期領主候補。この若さで公爵。一体、何者なんだろう?
「現サウスオリーブが領主、アクア・マリーナ・サウスオリーブと申します、以後お見知りおきを。ローズちゃん」
「え? え!?」
そう、このとき、何が起きたのか一瞬分からず、わたしはその場で石像のように硬直してしまっていた。
何せ、片膝を立て、素早くわたしの手を取ったサウスオリーブ公爵が、そのままわたしの左手の甲へキスをしていたのだから。
登場シーンからいきなりのキス!? この公爵、只者ではない予感? 続きをお楽しみにです。




