第10話 その伯爵令嬢、英雄の父と対面する
ソルファ様とのデートを終えたわたし。
兄バルサーミとの遭遇というハプニングもあったものの、ソルファ様がエメラルドのネックレスをプレゼントくれるサプライズもあって、わたしの心は平穏を保つ事が出来た。どちらかというと平穏というより恥ずかしさで胸の高鳴りが大変な事になっていた時間の方が多かったけれど。ソルファ様の優しさのお陰でネックレスの猫ちゃんを眺めつつ、この日はぐっすり眠る事が出来た。
そして、数日後――
この日は何やら侯爵家の侍女さん、執事さん達が朝から慌ただしく動いていた。
先日まではソルファ様とわたしが朝ご飯を食べている様子を侍女の方々が部屋の隅で数名待機し、様子をずっと見ていたのだけれど、今日は何かが違うみたい。丁度、わたしの前を通り掛かったスミスさんへ話し掛けてみた。
「あの、スミスさん。おはようございます。何かあったのですか?」
「ローズ様、おはようございます。すいません。朝から旦那様ご帰宅の準備をしておりまして。申し訳ございません。侍女頭のミネアに朝食会場の準備はさせております故、坊ちゃんとネンネ様と、お食べになられてくだされ」
「ありがとうございます」
わたしは後ろに控えるネンネと一緒に恭しく一礼する。成程、つまり。ソルファ様のお父様が帰って来るのか……。
「ネンネ。それってつまり……」
「グランディア侯爵――ニコラス・グランディア様と初対面……という事になりますね。ローズお嬢様」
「どどど、どうしよう。わたし……どうすれば……」
「お嬢様はいつも通りにしていれば何も問題ございません」
ネンネ。どうしてそんなに冷静で居られるのよ。身分の高い方への挨拶は苦手だ。元々ゴルドー家にわたしは居ない存在として扱われて来た。社交界や夜会、目上の人と会う経験はほとんどない。それに、わたしは……父親という存在が……怖かった。
『アリーシェ! 掃除の一つも出来ないのか!? どうしてそんなに屑なんだ!』
『ごめんなさい、お父様』
『これ以上、儂とキャサリーナを哀しませるでない! ただでさえ、お前には失望しているんだ!』
『申し訳ございません』
毎日貴族の家や、買い物に出掛ける母親から家の掃除を命令され、父親からは子爵家の仕事を押し付けられる。出来なければ叩かれ、鞭で打たれ、 父親から、母親から、兄、姉から罵倒される日々。
ソルファ様のお父様がどんな人物かは分からない。でも、わたしはグランディア侯爵を前にして、普通で居られるのだろうか?
「……ズお嬢様、ローズお嬢様!」
「え、あ。ネンネ」
「また考え事ですか? 大丈夫です、ネンネがついていますから」
「ありがとう」
暗くなっても仕方がない。朝食会場へ移動し、ソルファ様へ朝の挨拶をする。
先日のデートのお話やお食事の話など、お食事中もソルファ様と会話をしたけれど、何を話したか覚えていない。
「どうしたローズ。今日は何か気分が優れないのか?」
「あ、いえ。何でもありませんわ! 気のせいですわよ、ソルファ様!」
「いや! いつものローズなら牛さんありがとうと呟いて嬉しそうに食べている。体調が優れないのなら、休んでいいんだぞ?」
「う、牛さん!? あ」
しまった! そうか。お食事の時、いつも牛さんへの感謝を忘れなかったわたし。考え事をしていると、ソルファ様にはそう映るんだ。ソルファ様へ顔を見せる時はわたしはあくまでローズとして振る舞わなければならない。気をつけないと。
「え、嗚呼そうでしたわね。わたくしとした事が、考え事をしていて牛さんへの感謝を忘れていましたわ。ちょっとソルファ様のご尊父がご帰宅されるとの事で緊張しているだけですわよ、オホホホホ」
「嗚呼、知っていたのか。侍女達が慌ただしくしていたからな。それは失礼した。心配は要らぬ。いつものように振る舞っていれば問題ない。それに……」
「それに……?」
周囲に誰も居ない事を確認し、ソルファ様がわたしの傍へと移動し耳打ちする。
「オレがアリーシェ嬢とローズ嬢を間違えていた件は、スミスとローズ嬢、そちらのネンネさんとの間だけの話に留めている。心配はしなくていい」
「あっ……わ、わかりましたわ」
ちょっ……と、ソルファ様の吐息がかかって思わず身震いしてしまった。耳元で少し低めの優しい声で囁かれる事に慣れていないから困る。どうやらソルファ様は『本当はわたし、アリーシェと姉ローズとを勘違いし、間違えてローズ嬢へ求婚するつもりだった』という話をご尊父に知られるのではと、わたしが心配しているのでは? ……と勘違いしてくれたみたい。
その件も心配ではあったんだけど、どちらかというと、不安に思っているのはわたし自身の問題だ。
大丈夫、ネンネもソルファ様も居る。それに、今のわたしは姉ローズ。ならば、ちゃんとグランディア侯爵の前で姉ローズを演じなければ。
「もう大丈夫ですわ。ネンネも心配かけましたわね」
「ローズお嬢様。ネンネは心配しておりません」
ネンネの笑顔に安心したところで、朝食を終えたわたしは一度、ネンネと支度部屋へと移動する。グランディア侯爵を出迎える準備だ。
瞳の色は朝から既に蒼色。衣装はグランディア侯爵家へ来た時と同じ紅宝石色のドレスを身に着け、胸元には先日ソルファ様より戴いた猫の飾りを象ったエメラルドのネックレス。少し背が高いローズとの背丈の差をピンヒールの高さで調整。目元に薄紅色、口元には赤い薔薇色の紅を塗る。外向けの姉ローズが完成したところで、わたしはグランディア侯爵を出迎えるため、玄関先へと向かった。
侯爵家へ馬車が入って来て、待機していたスミスさんが馬車の扉を開ける。
グランディア侯爵――ニコラス・グランディア。ソルファ様と同じ艶やかな黒髪を短く纏めており、瞳の色は鳶色。身に着けている貴族の服もスマートで素敵だった。きっと、外交用の服なんだろう。両端に並ぶ侍女や執事、家の者へ微笑みかけつつ、紳士のような立ち振る舞いで、真っ直ぐこちらへ向かって歩いて来た。
「父上、パターギア王国への遠征、お疲れ様でした」
「有無。して、そこに控えるお嬢様は?」
来た。ソルファ様がこちらへ振り向いたタイミングで、わたしは一歩前に出て、ソルファ様の横へ並ぶ。そして、グランディア侯爵へカーテシーをした。いっぱい練習して来たもの。大丈夫よ、アリーシェ。
「ゴルドー伯爵家長女、ローズ・ゴルドーと申します。この度、ソルファ様より寵愛を賜り、グランディア侯爵家へ参りました。よろしくお願い申し上げます」
「有無。ローズ嬢、よろしく頼む。ソルファ、中へ入るぞ」
「は!」
今のでよかったのだろうか? そのまま軽く挨拶を交わした後、グランディア侯爵が家の中へわたし達も入る促したものだから、慌ててソルファ様の後を追うわたし。ソルファ様、わたし。ネンネと侯爵の荷物を運んでいたスミスさんが家へ入ったところで、玄関の扉が閉められる。すると、グランディア侯爵は、何故か周囲の様子を見回す素振りを見せ……何故かわたしの方へとやって来て。
「よし、誰もおらんな。ローズ嬢ぉおおおお! よくぞ参った! いやはや、息子が何度言っても将来の伴侶を連れて来ぬものだがら心配しておったのだよ! ローズ嬢、私の事はお父様と呼びなさい!」
「え? え?」
満面の笑みでわたしの両手を握ったまま、ブンブンと上下に振るグランディア侯爵。えっと、さっきの外での様子と今の様子があまりに違い過ぎて、展開についていけないんですけど……。
おや? なんだかグランディア侯爵の様子が……? 続きもお楽しみにです。




