後日談-今世編
結婚する前にまずご両親にご挨拶しなくては、というのが、恒亮の言い分だった。
ほむらはいまいちその必要性を感じなかったが──彼はどんなことでも大体が事後報告だった──今回ばかりは恒亮に従うことにした。
「わたしたちの関係の責はつねにわたしに発生するんですよ。ほむらくん、きみは自分の恋人がろくでもない男だと言われるのを許すんですか?」
ほむらは目を閉じて耐えるように首を振る。
「それは嫌だね……」
こういう場面での口論で、ほむらは恒亮に勝てたためしがない。彼の持ち前の勢いと今世の経験則からして、ほむらに勝ち目などなかった。
「では、お母さまのご予定を聞いておいてくださいね。わたしのほうでも準備します」
にっこり笑って茶を入れる彼が少し怖い。一体何を準備するつもりなのだろう。
「はい……」
その答えは数週間後、炎天下の駅前で明らかになった。
「住民票と戸籍謄本の写しを持ってきました」
「なんで!?」
「このために半休取りました、昨日」
実家の最寄駅でほむらを待っていたのは、明るいジャケットを身につけた恒亮だった。手には百貨店の紙袋があって、そこから白いファイルを取り出そうとする──のを必死で止める。
「そこまでしなくていいよ!」
ほむらは恋人の生真面目さが怖くなった。何が彼にここまでさせるのだろうかと考えて、自分のためか……と溜飲を下げる。
いいから行こうと彼の腕を引き、日が差す道を歩き始めた。
「今回は前より年齢差が空いてますから、これくらいしないと親御さんも安心できないかと思って」
「親は前世のこともタタユクのことも知ってるから大丈夫だよ……まあ、信じてるかはわかんないけど」
少しだけ呆れつつそう言うと、恒亮がぴたと立ち止まった。
「……前世のこと、話してるんですか?」
表情は薄く、深く伺うことができない。
「恒亮さんは話してないの?」
彼のそばに戻って訊くと、薄い唇がわずかに開いた。
「わたしが前世を覚えていたのは小学生までなので……夢は何度か見ていましたが、前世だと認識してなかったんです。なので話す余地がありませんでした」
言いながら、ゆっくりと再び歩き始めた恒亮に続く。
「夢って、前言ってたやつ? 砂漠を誰かと歩いてるって」
「ええ」
「悪夢だって言ってたよね」
「それは……」
思わず口を結ぶ。ひとりだけ記憶を手放したことに、恒亮は自責の念を抱いていた。
「ふふ、悪夢だって。前世のあなたが聞いたら怒りそう」
そんな恒亮の心配をよそに、ほむらがおかしそうに笑う。その隣で恋人はほっと胸を撫で下ろした。
「その夢を見るたび泣いていたので、悪夢だと思っていたんです」
「かわいいなあ。寂しくて泣いちゃったの?」
「詳しく覚えていませんが、おそらくそうかと……」
「おれってば愛されてるな」
当然でしょう、と答える代わりに、恒亮は恋人の右手を捕まえた。
うれしげに持ち上げられる頬をちらと見つめる。彼に向けられる、そして向けている愛情を知るたび、恒亮は舞い上がるほど嬉しくなった。
そうしているうちにほむらの実家に到着した。扉の前で肩を強張らせる恒亮を微笑ましげに眺めながら、年下の恋人がインターホンを鳴らす。
「いらっしゃい」
扉から顔を出したのは、ほむらより頭ふたつ分小柄な母だ。本を出す前に顔を合わせたことはあるが、あの時は本当に挨拶だけだった。きちんと話をするのはこれが初めてだ。しかも恋人の母親となると、緊張しないわけにいかない。
「この人がおれの恋人。小椋恒亮さん」
「お久しぶりです。小椋恒亮と申します。どうぞよろしくお願いします……」
手土産を渡す手がわずかに震えている。母はわずかに目を瞠りながらそれを受け取った。
「お久しぶりです。母の遙子です。あなたがあの……」
「……?」
途中で言葉を切ったその人の顔を見上げる前に、声がかかる。
「さあ、中へどうぞ。ほむらは茶菓子の準備を手伝って。恒亮さんはそちらに」
「は、はい」
てきぱきと茶を入れはじめる親子を横目に、恒亮はそろそろと椅子に座った。四人がけほどのテーブルにはすでに茶器が用意されている。
「息子はご迷惑をおかけしてませんか。この子昔からほんとそそっかしくて」
「ちょっとやめてよ、恥ずかしいこと言わないで」
カウンター越しから声が掛かる。いつもより気の緩んだ恋人の声も聞こえてきたが、ひとまず無視する。彼の恥ずかしい話は普通に聞きたい。
「いえ、そんな。お仕事の方もしっかりこなしてくれましたし」
「本もね、この子ひとりじゃ絶対出せませんでした。あなたがついてくれて本当によかったと思ってるんです」
「ええ、わたしもあの作品に関われて嬉しい限りです」
「読みましたよ。あなたがあの方なんでしょう。タタユクさん」
「──……」
咄嗟に答えることができなかった。
恒亮は前世の記憶を最近まで閉ざしていたし、恋人以外にそう扱われることもない。
「なんだか思っていたより落ち着いた方で安心したわ」
そう言って笑う遙子が、不思議と親しく思えた。
「そろそろいいんじゃない、お茶」
蚊帳の外でふてくされていたほむらが、尖った声を挟む。遙子はあぁ、と振り向いた。
「そうね。じゃあそっちも持ってっちゃって」
「うん」
ほむらが盆を置いて席に座る。恋人の隣で、ちいさく囁いた。
「だから言ったでしょ? 大丈夫だって」
茶菓子の小さな皿を順番に置くその手がいつもよりしなやかに見えた。
「……でしたね」
そのあと、手土産の紙袋から公的文書が出てきて一時場が騒然とした以外は、つつがなく過ぎていった。
場も温まり、不安はないように思われた。しかし遙子が手洗いに行って席を外しているタイミングで、恒亮はたまらずほむらに不安を漏らす。
「お母さまは本当に信じているんでしょうか? わたしが前世からの恋人だと」
「そういう感じだったけど……まだ心配なの?」
「こんな嘘みたいな話、信じる方が難しいでしょう。そんな相手が来たら、普通は気味悪がりますよ」
「だって、母さん」
「……!」
勢いよく振り返ると、遙子が立っていた。困ったように笑っている。
「まあ、すぐに信じるのは難しかったですけど……」
「そ、そうですよね。すみません」
「なんで謝ってんの」
ほむらの膝をぺちと叩く。すかさず捉えられて、親の前で何を! と睨みつける前に、遙子が見て見ぬ振りをして席に戻った。恒亮の額に汗が滲む。
「昔から前世の話はしてましたし、あの本を読むと疑う方が難しくて」
「そうだよ。前もって話したでしょ?」
「それは……前世を信じるのと、今いる私を信じるのは、別の問題のような気がして」
「ああ、まあねえ……じゃあ質問でもしようかな。前世のことなら、なんでも答えられるんですよね?」
これまで穏和だった空気にぴりと緊張感が流れた。恒亮はすっと背筋を伸ばして「はい」と答える。
「本にも載ってないようなことがいいか。えーと、それじゃあ……ほむらが一番気に入っていた昼寝場所はどこでしょう」
「王の天幕のそばにある、厩舎の陰ですか?」
「えっ、すごい正解。じゃあもうオッケー、信じます」
あまりに軽い返事に、恒亮はがくと頭を垂れそうになった。
「こんなに簡単なことで良いのですか?」
「えー、じゃあもっと難しい問題を出しましょうか」
「なんでも答えます」
「前世のこの子の、どこが好きでした?」
「えっ……」
「何聞いてんの!?」
「いいじゃない、これはあんたもはっきり聞いたことないでしょう。誰も知らないんだから、本当のことですよ。ね?」
「は、はい。ええと……かの王の好きなところ……」
からかい半分の遙子、恥ずかしがりながらも期待を隠しきれないほむらに挟まれて、恒亮は滝のような汗を流しながら必死で言葉を選んだ。
「まず、思慮深いところでしょうか。見知らぬわたしを恐れず、その羽織を貸してくださることさえありました。それに、あの方はいつでも、わたしの右手に立っていた。わたしの左耳が聴こえないことを知って、どのように気を配ればいいか聞き、それからずっとわたしの望むようにしてくださいました。それは今も変わらない、彼の愛すべき点だと思います。そんな風に優しくて、なに一つ不足などないのに、いつでも不安げなのが心配で、でもそういうところも好きでした」
一度口を開けばすらすら言葉が出てきた。何度も頭の中を巡っていたことだから、脳裏に刻まれたようにたやすく取り出すことができる。
「元から疑ってはなかったですけど、安心しました。ね、ほむら」
遙子が笑って、息子を仰ぎ見る。そこには真っ赤になって固まる青年の姿があった。
「固まっちゃった。ほむら、帰ってきなさい」
母の手が眼前で翳されて、ほむらははっと我に帰る。
「なんてこと訊くの!」
「うるさ。何よ、あんたも訊けて嬉しいでしょうが」
「嬉しいけど! それとこれとは別! 親の前で聞きたくなかった!」
吠えるほむらを前にしても遙子は余裕の表情だ。
「めんどくさい子ね〜。恒亮さん、ほんとにこんな息子で大丈夫なんですか? 前世からの仲なのはもう疑ってないですけど、前世で結ばれたからって、今世でも同じようにしなくていいんですよ」
「ほむらくんが良いんです。唯一ですから」
テーブルの下で恒亮が大きな手をぎゅっと握り返すと、年下の恋人はふたたび固まった。
「それならいいですけど……」
遙子は呆れたように笑って、もうお好きにどうぞ、と心の中で思った。
それからほどなくして、この場は解散となった。大学卒業と共に結婚──と言っても現時点で同性婚はできないので、パートナーシップを結ぶだけだが──するつもりだという話も、遙子は「この子堪え性がないから早くしたいってせがんだんでしょう。すみませんね」とすんなり受け入れた。あまりにスムーズなので、恒亮が取り残された気分になったほどだ。
「またいつでも来てくださいね」
遙子は最後まで泰然として、息子とその恋人を見送った。
「なんだか大樹のような方でしたね、遙子さん……」
帰路、茫然としながら恒亮がつぶやく。
「あの立て板に水が流れるような感じね。ずっとああなんだよね」
ほむらは恋人の手を握りながら、空を見上げた。わずかに赤みがかってきたそれは、ゆっくりと二人の頭上に広がりつつある。
「結構たのしかったな。今度はさ、恒亮さんの家族にも会ってみたいかも」
「……」
何気なく呟いたつもりだったが、期待が滲みすぎたかもしれない。ほむらは少しどきどきしながら恋人を振り返った。
そこにはわずかに眉を下げながら、困惑とも期待ともとれる表情を浮かべる姿があった。
「……兄と妹は多分、わたしが男性を好きだと気付いている気がします。二人には、見てもらいたいかもしれません……ちゃんとあなたを見つけて、結ばれて、幸せだと」
ほむらは結んだ手にぎゅっと力を込めて、返事をした。
約束というにはあまりに心細いものだったが、いつでも実現しようと言ったつもりだ。
かつての王たちは、その苦しい人生に背を向けて歩き出していた。もう羽織と頭布も必要ない──人としての幸せを、ようやく享受できるのだ。




