第38話
最終話の原稿は会って渡したい、と恒亮に頼み込んで、再び会うことになった。
ほむらは、彼がどんな反応をするのか見届けなければならないと思っていたし、その瞬間の彼を独りにしたくないという気持ちがあった。
「想像より早く書き上げていただいて、ありがたい限りです」
「書き始めたら止まらなくて。無事に終わってよかったです」
ほむらの緊張が滲む表情を見て、恒亮は珍しいなと思いつつ、微笑ましげに目を細めた。
「……では、失礼して」
「はい」
真新しい紙の束を、恒亮がゆっくりと、宝物のようにめくる。その表情は俯いていて見えないが、彼の星屑のような肌と、輪郭からはみ出したまつげ、そして左耳に添えられた補聴器を、ほむらはじっと見つめていた。
恒亮は両手で持っていた紙をゆっくりと机に置き、背を丸めて字を追い始める。それはまるで絵本を夢中で読み進める子どものようで、いつかの彼がそうして本を読んでいるさまを思うと愛しさでたまらなくなった。
思えば、彼は今……二十六歳だったか。前世では十六、七の頃に別れたため、こうして向かい合わせに座っていると、叶わなかった夢を見ているような気分になる。
そのきらめく夢が、相変わらずふわふわした髪を揺らして、星に線を引くように目線を滑らせていく。
紙の束はもう随分と後ろに送られて、残り少なくなっていた。けれど恒亮の目の運びはどんどんと速度を落としている。ただ読んでいるだけではない……静かに、思い出している。
ようやく紙の全てが裏返された時、その小さな頭がゆっくりと持ち上げられた。
瞳は驚愕に開かれていて、薄い唇は震えている。頬は赤らみ、何かを堪えるように眉が歪んでいた。
目が合った。永遠にも思える静寂のあと、あまりに愛おしい声が響く。
「……カシュハさま?」
あぁ、と声が漏れた。ずっと、そのやわらかな声が、聴きたかった。
「うん。思い出した? タタユク」
ずっと呼びたかった。砂漠に置いてきたその名前を。
「……会えた……会えたんですね、わたしたち。ようやく……この世界で」
震える手が伸ばされる。取られると信じて疑わないそれを、ほむらは壊さないようにそっと握った。
「ずっと探してた。全然迎えに来ないから、おれから来たよ」
「あぁ……」
恒亮は箍がはずれたように瞳から涙をこぼした。しゃくりあげないよう、途切れながら必死に言葉を紡ぐ。
「わたしも、探していたんです。小さいころは……でも怖かった。あなたがもし居なければ、わたしはまた独りで生きるのだと思って」
「何か理由があるんだと思ってたよ。辛いなら話さなくていいから……」
「いいえ。カシュハさま……ほむらくん、わたしは、わたしだけは、あなたを諦めてはいけなかった。わが身可愛さに記憶を手放して、本当にすみません」
恒亮は肩を振るわせながら頭を下げる。
随分久しぶりに会ったのに、一言目が謝罪なんて。ほむらは少し頬を膨らませながら、淡い色の手の甲を指先でそっと撫でた。
「いいってば。ねえ、タタユク……恒亮さん、顔を見せてよ」
「……」
そこには大粒の涙と、いつまでも夢に見ていた星屑があった。繋いでいないほうの手でそれに触れる。恒亮が少しだけ目を細めて、手のひらに擦り寄った。
「……あなたに豊かな肌が残ってよかった。残念ながらおれに翼はないけど」
無意識に口唇が持ち上がる。この触れ合いが許されるのが何よりも嬉しかった。
手のひらに恒亮のそれが重なったかと思うと、ゆっくりと机に導かれて、紙の束に落ちた。
「あるじゃないですか。これこそが……あなたの翼です」
物語は終わった。けれどこれがほむらの翼なら、きっとどこまででも行ける。
「……これね、あなたを探したくて、書き始めたんだよ。だからおれの翼はあなただよ、恒亮さん」
そう言うと恒亮はますます涙をこぼした。けれど年下の前でそんなふうに泣くのが恥ずかしいのか、ほむらを詰る。
「やめて。やめてください……泣かせないで」
「あなたってば前世から泣き虫でしょ。今更気にしないよ」
「……」
睨みつける瞳が愛しい。その膜のない目線を、砂漠の水のように求めていた。
「おれはきっと、今世でもあなたのことを好きになるよ。だってもうそうなっちゃってるし。だからさ……あなたも同じなら、また特別になりたい」
手のひらの下にある紙が湿気でたわみ始めたが、ふたりとも気にも留めなかった。ほむらにとっては一世一代の告白なのだ。世界の全てがこれより瑣末な問題に感じられた。
「……わたしも同じです」
あぁ、我が太陽よ、その光がここまで届きました! ほむらは喜びの中で目を閉じて、その言葉を噛み締めた。
だが一瞬でそれは絶望に開かれることとなる。
「しかし交際を始めるのはあなたが大学に入ってからです」
「なんで⁉」
「まだ未成年でしょう。それに……」
「それに?」
「……あなたはいつも物事を悪く考えますから。いまわたしがここで頷けば、いつかきっと『恒亮さんが好きなのはおれじゃなくてカシュハなんでしょ』とかなんとか言っていじけるでしょう。そんなのはごめんです」
うっ……とほむらは言葉に詰まった。そのジレンマは、彼と再会してから考えないでもなかった悩みの種だ。
「わたしも、大切な人として、あなたをまなざす時間が欲しい。我儘を聞いてくれますか?」
ほむらは頭を抱えたくなった。こうなった彼は手が付けられない。言うことを聞かせるまでてこでも動かないだろう。
「わかった……でも絶対付き合うし、結婚するし、一緒に住むから!」
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、噛み付くように叫ぶ。そんなほむらに恒亮は笑い声を上げた。
「あはは! 分かりました、約束です」
言いながら、手をほどいて指を絡ませるように繋ぎ直す。ほむらはどきどきしてたまらなかったが、それは恒亮も同じだった。
「ここからは長いですよ」
「あなたと色んなものを見てたら一瞬かも」
「……ふふ。長いけど一瞬か。いいですね。わたしたちらしい進み方じゃないですか?」
笑った拍子に、涙が彼の頬を滑り落ちた。星の間を駆け降りるさまは美しく、ほむらはまだ夢を見ているような気分だった。
その後、二人して大泣きしたのがどうにも気まずく、場所を変えて話をすることになった。路地の奥地に住宅街があり、そこにほどよい公園があるとかで、恒亮が道を歩いていく。平気な顔で先導する彼の目尻が赤いのがなんとも愛しい。
「そういえば、小説の感想を言い忘れていましたね」
鼻をすすりながら恒亮がそんなことを言うので、ほむらはどきどきしながら返事をした。
「あっ、うん。どうでした? 面白かった?」
しかしこの、赤らんだ頬の小悪魔は、思い通りになどいかない。
「あれでは本は出せません」
絶句するほむらに恒亮が畳み掛ける。こういうときの彼は本当に容赦がなく、無数の針に貫かれるかのような勢いで言葉を並び立てていく。
「児童文学なんですから、希望が残るラストでなければ。あなたが死ぬなんてもってのほかです! あれはわたしたちの中では事実ですが、創作とした時には、あまりに希望のない終わりではないですか」
「そ、それは……そうだけど……」
「非常に言いにくいですが、今回書いてきていただいた分は全没です。世に残すのならば、あれとは別の形をとったほうがはるかに有効だと思います。それに……」
途切れた言葉を待って、並び立つ恒亮の顔を見る。それはすでにこちらを射抜いており、わずかな微笑みをたずさえて言った。
「あなたの知らないことがまだあるでしょう。わたしが見てきたものも併せて、もっと磨いて、いいものにしましょう」
その鋭さ、みずみずしさが、タタユクのそれと重なった。
彼は世界を見るのが上手かった。人にの心をほどくのも、心地よく道に誘うのも、そして有効な手段で言うことを聞かせるのも。
けれど彼がそうしてかの王に膝をつかせるとき、そこには必ずこの熱があった。
「うん。一緒に作ろう……おれたちの物語を」
つくづく彼は王に向いている。ほむらは嬉しそうに顔を歪めながら笑った。




