第28話
その人は落ち着いた色のシャツに深緑のベストを重ね、まっすぐなスラックスを穿いて、ほむらの目の前に現れた。
その瞳は柔らかくたわみながらこちらを射抜くように見つめて、短い髪はくるくると楽しげに揺れている。肌は薄い色をしていたが、星のように散るほくろやそばかすはあの頃と変わらなかった。
ああ、ようやく、この時が来たのだ。
ほむらは声が漏れないよう、奥歯をぐっと噛み締めた。視界はぼやけてよく見えなかったが、彼が”彼”であることははっきりと分かった。
「土岐ほむらさんですね。本日はよろしくお願いします」
あの目尻の下がり方を知っている。唇のうすさや、それが触れてくる感覚─彼がそれでどんな言葉をつむぐのかも。
ほむらは喜びのあまり叫び出しそうになったが、ここで不審がられては意味がない。どうにか一呼吸おいて、彼─恒亮が差し出した手を、震える手で握りしめた。
「はじめ、まして。土岐ほむらです。会えて嬉しいです……小椋さん」
一言ずつ飲み下すように名前を呼んだ。彼の名前だ。新しく、美しい名前。
「ええ、わたしもです。では早速、お話をさせていただいても?」
あれっ? と思ったのも束の間、小椋はすばやく資料を広げて、視線をほむらから移した。
「な……なんで?」
思わず責めるような口調になったのも無理はない。ほむらは彼に会うために生まれ変わって、十八年間生きて、小説まで書いた。それが身を結んだのに、彼はどうして知らないふりなどするのだろう?
「……どうかしましたか?」
彼のやわらかな笑みを知っている。困ったときに下がる眉の深さも。けれどこれは知らない─彼は、私のことを、こんなふうに見ない。
ほむらは呆然としたまま、耐えがたい衝動に突き動かされて、立ち上がった。
「すみません。帰ります。ほんとにすみません」
「えっ……? ほ、ほむらさん?」
そのまま駆けるようにして店を出る。ドアベルの音を聞いてはっとして、財布から千円札だけ取り出して店員に渡した。困惑したその人を置いてふたたびドアベルを鳴らす─滑り込むようにして飛んできた明李とともに。
「ほむら」
「……覚えてなかった」
明李もきっと気付いたはずだ。彼が”彼”であることを。
「そんなの些細な問題でしょ。会えたんだから、戻ろうよ」
「ううん。彼は単に、覚えてられなかった訳じゃない。きっと忘れたくて忘れたんだ。じゃないとありえない。彼が……おれの星が……おれを忘れるなんて」
青年の声がひどく震える。
「ほむら、考えすぎだよ。単純に生まれた時から記憶がなかったのかもしれないじゃん」
「そんなわけないって明李も分かってるでしょ。おれたちは生まれた時から記憶があった。彼にだけ無いなら─それ相応の理由があるってことだ」
明李はほむらの震える手を握りしめた。彼は元から悲観的だが、それが今日ほど彼を痛めつけたことはなかった。明らかにいつもと違う─前世の人格に引き摺られている。
「明李も知っているだろう。おれたちの別れはひどかった。彼はおれのことなど忘れたかったのかもしれない」
その一言を聞いて明李は黙っていることなどできなかった。肩を手のひらで強く叩く。
「ふざけないで! あの子は一瞬たりともあんたを忘れたりしなかった。あの子は世界の全部を諦めても、あんたのことだけは諦めなかった。そのせいでどんなに苦しんだか……」
「…………」
「ほむら。今の彼が覚えてなくても、前世のあの子があんたを愛してたのは本当のことだ。ぜんぶ否定しないで」
自分のそれより大きなほむらの手を包むように握って、明李は言った。
「うん……」
ゆびさきが白くなる。ほむらは縋るように明李の手を握っていた。
「……逆に言うとね。前世のあんたが彼を好きだったからって、今世でも好きになる必要ないんだよ」
「それは……無理かも。だってタタユクだもん」
馬鹿正直な返答に、明李は思わず笑った。この王が小さなトウヒを愛すのに、記憶や生まれ変わりなど些細なことなのだ。
「無理なら諦めな。今回もあの子を好きになっちゃうなら、それを受け入れなさいよ。戻って新しいあの子と話して。あたしのときとは違って、一から始めるんだ」
ほむらは震える息を二往復で整えて、頷いた。
「……ありがとう、明李」
握りしめていた手をほどく。途端に赤さを取り戻すそれを見ながら、ほむらは己を奮い立たせた。
おれを覚えていない彼と、一から関係を始める。いや……もう始まっているのだ。ほむらの中で彼が単なる”コウ”だったときのやりとりは、軽やかで楽しかった。今回も彼らは友人になった─年や、生まれ育った場所や、記憶の有無さえも乗り越えて。
ドアベルが再度鳴って、二つの影が奥に進む。仕切りの奥には、呆然としたままアイスココアを見つめる姿がぽつんとあった。
二つの影が分かれて、一つだけ残る。彼は少しだけ震えの残る唇をすっと開けた。
「─さっきはすみませんでした。お話、聞かせてください」
ぱっと向けられる顔が、瞳が、何もかもが愛しくて、ほむらは泣きたくなった。けれどそこには何も浮かんでいない。ほむらが抱いている熱が移ることもない。
彼は覚えていないのだ。かつて二人が唯一の親友で恋人だったことなど、なにひとつ。
「あぁ……よかった。あの、話を急いでしまってすみませんでした」
「いえ。ちょっとびっくりしてしまって……あなたが知り合いにとても似てたので」
ほむらの頭にはひとことだけが延々と鳴り響いていた。泣くな。泣くな。絶対泣くな。
彼と再会した喜び、全てを忘れている悲しみ、彼への愛しさ、全てを押し殺して、一から始めるんだ。
「そうなんですか。わりとよくいる顔なので、そういうこともあるかもしれませんね……」
戸惑う彼の声が愛おしかった。そして憎らしかった。
一瞬、こぼれるように笑って、ほむらは目を伏せた。
そうして”彼”との再会は果たされた。長い旅の終わりではなく、始まりとして。




