第2話
その人は落ち着いた色のシャツに深緑のベストを重ね、まっすぐなスラックスを穿いて、ほむらの目の前に現れた。
その瞳は柔らかくたわみながらこちらを射抜くように見つめて、短い髪はくるくると楽しげに揺れている。肌は薄い色をしていたが、星のように散るそばかすやはあの頃と変わらなかった。
ああ、ようやく、この時が来たのだ。
ほむらは声が漏れないよう、奥歯をぐっと噛み締めた。視界はぼやけてよく見えなかったが、彼が〝彼”であることははっきりと分かった。
「土岐ほむらさんですね。本日はよろしくお願いします」
あの目尻の下がり方を知っている。唇のうすさや、それが触れてくる感覚─彼がそれでどんな言葉をつむぐのかも。
ほむらは喜びのあまり叫び出しそうになったが、ここで不審がられては意味がない。どうにか一呼吸置いて、彼─恒亮が差し出した手を、震える手で握りしめた。
***
土岐ほむらには前世の記憶がある。
そこは広大な砂漠の世界で、現代とはまるで違う生活を送っていた。ひとつの国の王として暮らし、砂漠中を旅し、唯一の友人を得た……短いながらも濃い人生だった。そこに後悔がないとは言わない。しかし、この世界に違和感こそあれ、元の世界に戻りたいと思ったことはなかった。
なぜなら、前世で約束をしたからだ。嵐のようにあらわれた隣国の客人─タタユクと、ふたたび生を受けて再会すると。そのために彼には苦行を強いてしまったし、ほむらも彼と会うためにここまで生きてきたから、その約束を諦める気はなかった。
しかし問題は、今世で十八年が過ぎても運命が交わる気配がないということだった。
幼稚園、小学校のころは、まだ耐えられた。前と同じく彼は数年遅れて生まれてくる可能性があったからだ。しかし中学、高校まで来ると、話が違ってくる。もしかして生まれる時代が違ったのでは? それか国がまるっきり違うとか? ほむらは焦り、家族や友人の心配を振り切って世界一周の旅に出ようとした─しかしその直前に計画は中断された。
「あんた……もしかしてカシュハ?」
ほむらの救世主、五季明李の登場によって。
「き、きみは……?」
突然校内で女子に話しかけられたほむらは挙動不審になった。なにしろ五季は派手なのだ。対するほむらは、社交的ながらギャルへの苦手意識がどうしても拭えない、小心者だった。
「……そうなるのも仕方ないか。あたしも絵を見ただけだし、面識はなかったから……あたしは五季明李。あんたと同じ代の、森林の国の王だよ」
「─!」
ほむらの人生にひとつめの星が堕ちた。それくらいの衝撃だった。
「し、森林の国? じゃあタタユクもここにいるのか⁉」
ほむらは藁をも掴む思いで五季に詰め寄った。がしかし、彼女はため息で答える。
「それは知らない。あたしも探してるけど、見たことない。なんでここが先に再会するかなあ……あたしはずっとあんたにムカついてたのに」
五季は一切喜ばなかったが、ほむらにとって彼女はまさしく希望の光だった。彼女がいるなら、彼も近くにいるはず。そう信じて、彼と再会できずとも、その日を決して諦めなかった。
しかしただ待つのは性に合わず、常に焦りながら、そこかしこに出かけた。
ほむらは子供の頃から行ける範囲で歩き回っていたが─知らぬ土地で迷子になり、大問題に発展したこともしばしばあった─高校からはある程度自由を得て、電車でどこまででも行けるようになった。海を繋ぐ線路を辿りながら、一日中人々の顔を見つめ続けたこともある。そんな生活を重ねていたが、残念ながら〝彼”は、ほむらが十七歳になっても現れなかった。
「やみくもに探そうとするのが間違いなのかな?」
出会いから一年足らずですっかりセットとして定着した明李とほむらだったが、そこに新しいメンバーが増える気配は一向にない。今のところ、〝記憶持ち”はこのふたりだけだ。新一年生の中にいるかもと二人揃って探したが結果は空振りだった。
ふたりは二年生で同じクラスになってから、ほとんど一緒にいた。明李は時折ほむらに呆れた顔を見せるが、彼女もまた、誰とも分かり合えない記憶を独りで抱いてきた子どもだった。そういう意味では、ふたりは共通の時間を過ごした、姉弟に近い関係性だった。
〝タタユク”について、明李は「そのうち会えるだろう」という姿勢だったが、ほむらが危険なことをしないうちは、彼の背を押した。まさしくこの時も。
「ネットで聞くのは? こういう人を探してますって」
ゆるいウェーブがかった髪を肩の後ろに除けながら、明李は言った。
「でも今のタタユクのこと、おれは何も知らない。何歳かとか、どこの人か、外見だって……」
「あぁ、確かに……前回と同じ顔じゃないのは、あたしたちで証明されちゃったしね」
「……やっぱり地道に旅して探すしかないのか……」
二人は沈黙の中、駅までの道を歩いていた。坂道を下って、駅舎の看板の端がちらと見え始めた頃、明李が「じゃあさ」と切り出す。
「〝前”のことを書いて公開するのはどう? タタユクじゃなくても、関係してる人がいたら声をかけてくるはず。協力者が増えたら、そのうちあの子にも繋がるかも」
ほむらの人生に二つ目の星が堕ちた。
「た、たしかに! 明李って天才?」
「ふふん。あんたほど度胸はなかったけど、優れた王だったからね」
感激したほむらに、明李はふんぞり返って答えた。彼女の王としての過剰な自信は通常運転なので、ほむらはものともしない。
「あぁ、はいはい……まあ、タタユクを育てたんだから、優れた王なのは否定しないよ。おれより優れてたかは分かんないけど!」
ふたりは商業施設の中を抜けて、駅に向かう。路線は逆だが、いつもどちらかの電車が来るまではホーム下で駄弁るのがお決まりだった。
「あたしは隣国のいたいけな青年を捕まえて、人生めちゃくちゃにしたりしなかったけど?」
明李にとってほむら─カシュハは、『自国のとくべつ目をかけていた青年を恋人にしたならずもの』だった。ほむらはその点について否定こそしないが、かといってすんなり受け入れることもないので、いつも口論になる。
「タタユクはお前が思ってるような男じゃないんだってば。可愛かったのなんて、ほんとに最初のほうだけだったし。人生めちゃくちゃにされたのはおれの方だから!」
「うるさい、黙って。他の人もいる」
「こいつ……!」
ふたりの仲はともかく、このとき立てた作戦はかなり有効なものと思われた。砂漠の砂のごとき人混みから、一粒の宝石を見つけようとすることよりは。
この日から、彼の人生は大きく変わることになる。