2 脱出
【ヤゴー】「天使様!」
彼女の輝く光輪を目撃して、ヤゴーは思わず平伏した。アイルも思わず片膝を着いた。ゲイルだけは、直立不動で王の命令を待っていた。
【ロアン】「この子が一体何者であるのか、今は何も訊いてくれるな……」
辺境伯はそう言い、続けた。
【ロアン】「君たちもさっき見たように、このローラントはもはや国家の中枢さえ国賊に蝕まれている。今や、王の弟である私にすら、完全に信用できる者は少ない。クラウザーでさえ裏切ったのなら、尚の事だ……」
彼はそう言い、一旦言葉を切った。
【ロアン】「君たちはまず教会へ向かえ。そこには地下水道への入口がある。その地下水道は、城の外へと続いているのだ。城を出た後は、まずスホルトへ逃げ、その後にブリスコーへ向かへ。民を置いて王族を逃がすことは、心苦しい。しかし、今は君たちは事情を理解してくれ」
ゲイルは大きな声で応えた。
【ゲイル】「その任務、承りました。必ずや果たして見せます」
ロアンはそれを聞き、うなずいた。そしてアマンダに言った。
【ロアン】「少しここで待ちなさい」
辺境伯は部屋の奥へ入った。そして、自ら長銃を手に持ち戻ってきた。辺境伯は、長銃をアマンダに手渡した。その長銃は、村で見つかったものとは違い、よく見る火縄点火式のものだった。となると、村で見つかった短銃は、やはりオークのものなのだろうか。
【ロアン】「これを持っていきなさい。お前が積んだ鍛錬の成果は、決して裏切らないだろう」
辺境伯はそういった。アマンダは、こくりとうなずいた。
ーー
アイルたちは城を出た。
通りは閑散としていた。城門を守っていた兵士たちは、城壁の守護に向かったのだろう、いなかった。民たちも、避難のためどこかに集められているに違いない。
ゲイルはアマンダを振り返った。アマンダは大きな帽を深く被り直し、首紐で帽子を止めていた。彼女の光輪は、帽子よりも幅が大きいと思うのだが、姿は隠れて見えなかった。
アマンダは、彼女の隣に立つ小人の少女の手を握っていた。小人は、格好からして、おそらく侍女なのだろう。彼女の背は、アマンダの胸の高さまでしかなかった。彼女はその大きな瞳で心配そうにアマンダの顔を見上げていた。
【ゲイル】「走るぞ」
ゲイルはそういった。アマンダはうなずいた。
ーー
彼らは北に見える教会の尖塔に向かって走り出した。
人影はまばらだった。ゲイルは街でアマンダに気づくものがいないかとあたりを見回したが、その心配は不要のようだった。
閑散とした道路に、石畳を打ち付けて走る五人の足音が響いた。
彼らは道をいくつか曲がり、細い路地に入った。路地裏はさらに人影がなかった。おそらく人々が急いで避難したためであろう、いくつかの家の扉は鍵も閉めず開け放たれたままだった。
彼らは何度目かの曲道にさしかかった。
その時、女の叫び声が通りに響いた。
アイルたちは、急いで角を曲がり、通りの先を覗き込んだ。
通りの先には男の死体が横たわっていた。死体は首を剣で断ち切られており、地面は血で赤く染まっていた。
死体のそばで女が口に手を当てて叫んでいた。
女に向かって、剣を構えたオークがじりじりとにじり寄っていた。オークは、その大きな背中を、アイルたちに向けていた。
ヤゴーは背中から音もなく剣を抜いた。その反射的な動作は、彼が獲物を見つけた瞬間に矢を射掛ける所作に似ていた。
ヤゴーは路地の細道を突進した。彼は狩人が常にそうするように、音を消して走った。そのため、オークの反応は遅れた。彼は剣を握る手を引き絞り、全体重をかけて剣ごとオークに横から体当りした。
二人は地面を転がり、壁にたたきつけられた。
ヤゴーは急いで体を起こした。
彼の剣は、オークのわき腹に、鍔まで丸ごと突き刺さっていた。
オークは茫然とその剣を眺めていた。その傷口から血が噴き出した。オークは傷口を押さえた。その血は、ごつごつした緑色の手の甲とは対照的な、乳白色のつるりとした手のひらを、赤く染めた。
死を悟ったオークは動かなかった。ヤゴーとオーク、二人の間に沈黙が流れた。
【ゲイル】「ヤゴー、なにやってる!はやくとどめを刺せ!」
ゲイルが叫んだ。ゲイルは抜き身の剣とともに、全速力で走ってきた。
彼はオークに漸近すると、剣を頭上に振りかぶり、全体重を剣に込めオークの頭にたたきつけた。彼はそれでは終わらず、何度も何度も剣を振りかぶり、その頭部を滅多打ちにした。
【ゲイル】「アイルもやれ!百回たたきつけるんだ!」
アイルはオークの落とした幅広の剣を拾うと、その血まみれの頭に剣を振り下ろした。頭蓋骨が砕け、歯が口から吹き飛んだ。その白い犬歯は石畳の上にカツンカツンと跳ねた。
アイルは夢中になって、何度も何度も剣をふるった。
【ゲイル】「もういい!もういい!」
ゲイルが叫んだ。アイルは剣をふるうのをやめた。彼は、いつの間にか肩で息をしていた。
オークの顔面はずたぼろのミンチと化し、ぴくりとも動かなかった。
ーー
彼らは再び走り出した。
道行く途中、路地からちらちらと覗く大通りでは、激しい戦闘が行われていた。彼らはオークとかち合わないことを祈りながら走った。
彼らはやがて高い尖塔を持つ教会にたどり着いた。
その樫の巨大な扉は、閂が掛けられ閉ざされていた。ゲイルは教会の扉を叩いた。
【ゲイル】「おい、誰かいるか!」
ゲイルは叫び、扉をたたき続けた。やがて扉の奥で、何かが動く物音がした。
閂が抜かれ、扉が開いた。扉から差し込む光が、暗い教会の中にひとり佇む僧侶の顔を照らし出した。
僧はアマンダに目を走らせた。そして、すぐに事態を悟った。
【僧】「こちらです」
僧は言った。そして、アイルたちを教会の奥へと案内した。
彼はアイルたちにカンテラを持たせ、地下へ降りる階段を降りた。地下に降り、壁の白い廊下を進むと、その奥にある部屋の扉を開けた。
部屋の中には、花崗岩で作られた祭壇があった。
僧は明かりを置き、祭壇の上部を両手で押した。
祭壇の蓋が大きな音を発てて動いた。やがて、さらに深い地下へと続く階段が現れた。
僧侶はアイルたちを振り返り、先へ促した。彼はここに残り、この階段を隠すつもりだろう。
五人は階段を降りた。
【僧】「アマンダ様、どうかお気をつけて……」
階段の上から僧が声をかけた。そして彼は、階段の蓋を閉じた。地底へと続く階段は、暗い暗い闇に包まれた。
ーー
地下の階段は、下水道へとつながっていた。
ゲイルがカンテラの炎で道を照らすと、水に浸かった暗渠が遠くまで続いていた。
彼らは水に入り歩き出した。水はくるぶしの高さまで浸かっていた。
下水道の水は臭く、ぬるかった。彼らが道を進むと、カンテラの光に驚いたネズミがあちこちへ逃げていった。
アイルはあまりの臭さに思わず鼻をつまんだ。ヤゴーも思わずうめいた。
【ヤゴー】「うげえ、鼻がひん曲がりそうだぜ。貴族様が、こんな汚ねえところ通んのかよ」
【アマンダ】「なるべくそういう場所の方が、外部の人間に見つかりにくいと言われました」
【ゲイル】「誰がこの道を知ってるんだ?」
【アマンダ】「わずかな人間のみです。父や母のほかには、高位の役人ぐらいでしょうか」
【ゲイル】「高位の役人ってのは?」
【アマンダ】「イーサン様、コルト様……それにクラウザー様です……」
【ゲイル】「何だと?」
ゲイルはアマンダの言葉に反応した。
【ゲイル】「クラウザーがこの道を知っているのか?」
彼がそう言ったちょうどそのとき、彼らは暗渠の曲がり角を曲がった。
曲がり角の向こうに、クラウザーが立っていた。
カンテラの明かりが彼を照らした。彼は闇の中で、邪悪な笑みを浮かべていた。
アイルは、驚愕に足を止めた。
しかしヤゴーは、瞬間的に動いた。ヤゴーはアイルを後ろから突き飛ばし、剣を抜きクラウザーに突進した。
クラウザーは杖を覆っていた布を取り去り、掲げた。杖の先にはめ込まれた石が、すでに真っ赤な輝きを放っていた。
クラウザーはカンテラの火を見て待ち構えていたのだ。
【クラウザー】「äm」
クラウザーは短い言葉で呪文の詠唱を終えた。そして杖を突き出し、魔術を放った。
炎が眩しい光とともに、杖の先端から吹き出した。
しかし、ヤゴーは怯まず突進した。
ヤゴーは炎を突き破った。麻でを編んだ粗末な上着は、襟口が焦げてちりちりと炎が点いていた。
【ヤゴー】「らぁあああっっ!!!」
ヤゴーは叫びながら、上段からクラウザーに切りつけた。
この突進は、クラウザーにとっては予想外だった。剣はクラウザーの黒い外套を切り裂き、肩を浅くだが切り裂いた。
【クラウザー】「くっ」
クラウザーは、後ろに飛び退った。そして次の瞬間異変に気づいた。
カンテラの明かりが、ない。
クラウザーの放った炎が消えた後、暗渠の先は真っ暗闇だった。
ヤゴーは、暗渠の床に倒れ、転がっていた。暗渠の底に溜まった下水が、ヤゴーの体についた火を消した。
暗渠は完全な闇に包まれた
ヤゴーは火が消えてなお、床を転がり続けていた。
クラウザーは、ヤゴーの動作に不審を感じた。
しかし、彼の思考が結論に達する前に、クラウザーの左腕が、何かの衝撃に貫かれた。
「ぐあっ!」
クラウザーは思わず叫び、腕を庇った。右手が冷たく硬い何かに触れた。
それは、矢じりの先端の鉄だった。
二本目の矢が放たれた。今度は、弓が放つ音をクラウザーの耳は捉えた。
しかし、クラウザーはそれを避けることは出来なかった。矢は彼の右肩を貫いた。
クラウザーは身をひるがえし、暗渠の先の暗黒の中に逃げた。
暗渠の暗闇に、水を打ちながら走る足音を残しながら。
【ヤゴー】「待て!」
ヤゴーは叫び、クラウザーを追い走り出した。
「ヤゴー、追うな!」
ゲイルが叫んだ。しかし、ヤゴーはそれを無視し、暗渠の奥へと走っていった。
彼はクラウザーの足音を頼りに、暗渠を奥へ奥へ進んだ。やがて彼は、開けた空間に出た。
ここは、どこかの部屋だろう。彼は、足音の反響音から、そう推察した。
ヤゴーからクラウザーは見えない。しかし、それはクラウザーも同じだろう。
やつは矢を二本体に受けた。そして魔法使いである以上、呪文の詠唱に時間がかかる。やつが呪文を唱えている間に、自分なら懐に飛び込める。彼は、闘いの素人ではあるが、勝算はあると思った。
いま、クラウザーはこの部屋のどこかに息を潜めている。
彼は懐から火打ち石を取り出した。
一瞬の光があればいい。一瞬これで火花を散らし、クラウザーの姿を確認すれば、あとは一気に接近してかたをつけるだけだ。
彼は部屋の入口の壁に、火打ち石を押し当てた。そして呼吸を整えた。
彼は火打ち石を擦った。
大きな火花が散り、部屋を一瞬照らし出した。
彼の目はクラザーの姿を捉えた。しかし、そこにいたのはクラウザーだけではなかった。
ネズミだ。
五十……いや百を超えるネズミが、壁一面にひしめいていた。その小さな対の目は、火花の光を反射して、ヤゴーの網膜に強い残光を残した。
一瞬の後、部屋は闇に包まれた。
ネズミ「キィィィィィイイ!!!」
しかしすぐに、ネズミは金切り声の奇声を上げた。そしてヤゴーに飛びかかってきた。それは彼の全身に噛み付いた。
【ヤゴー】「ぐわぁ!」
ヤゴーは叫び声を上げて倒れた。彼は顔をかばい、体を丸めてうずくまった。
崩れ落ちるヤゴーの足元に、クラウザーが歩いてきた。彼の黒く長いローブの袖から、短刀の剣先が覗いていた。
クラウザーはヤゴーを見下ろし、歯を見せ、笑った。そして短剣を引き絞った。
【アマンダ】「クラウザー様、おやめください!」
アマンダが叫び、ヤゴーと彼との間に飛び込んだ。彼女が走り込んだ拍子に、フードがはだけ、頭上の光輪が現れた。
それは強い光で暗渠の暗闇を照らした。
光はまたクラウザーの顔面も照らした。クラウザーの顔は、明確に怯んでいた。それは眩しい光に怯んだのでも、アマンダの姿に怯んだのでもない。
急に立ち現れた、罪の意識に怯んでいたのだ。
【クラウザー】「うう……」
クラウザーは嗚咽を漏らした。彼は一歩、また一歩と下がり、そして暗渠の奥の暗がりへと逃げていった。
いつの間にかネズミたちも去っていた。ヤゴーは全身から血を流しながら、よろよろと立ち上がった。
【アマンダ】「ヤゴー様、しばしお待ち下さい」
アマンダはそう言うと、ヤゴーの胸に手を当て、目を閉じ、祈った。すると、彼女の光輪が白く眩しく輝き出した。
ヤゴーの全身を白い光が包んだ。すぐに全身の痛みは引き、気づくとすべての傷口は塞がっていた。
【ゲイル】「こっちに出口があったぞ!」
部屋の入口からゲイルが叫んだ。彼の指さす先を見ると、暗渠の先に、わずかなに明るくなった外の景色が見えた。
彼らは地下水道から脱出した。
ーー
地下水道を出ると、そこは、城の南側に位置する、崖の斜面の中腹だった。出入口は、その手前にある大岩によって巧妙に隠されていた。
彼らは斜面を下り、渓流の水で念入りに体を洗った。
【アマンダ】「シリカ、深いから気をつけてね」
アマンダが小人に向かって言った。
【シリカ】「こんな浅い渓流で溺れたりなんかしません!」
シリカはピシャリと言った。彼女は子供らしいかわいい声をしていた。そして胸まで水に浸かり、服を擦った。
【ヤゴー】「よく汚れを落としとけよ、匂いで追跡されるかもしれねえ」
ヤゴーは言った。彼はブーツも脱いで、中に入り込んだ汚物を何度も洗い流した。
【ゲイル】「ヤゴー、火傷は大丈夫か?」
【ヤゴー】「まあちょっと皮がむけたぐらいだ。大したこたねえ」
ヤゴーは答えた。
アイルはパルパット城塞を見上げた。
城のあちこちから火の手が上がり、空は灰色の煙で遮られ霞んでいた。
彼らがいまいる場所からは、南の城壁に穿たれた大きな穴を見ることが出来た。
あれが、爆発の結果なのだろうか。
穴の手前には、見たこと大きな、緑色に錆びた大砲が鎮座していた。
この城は落ちるのだろうか。ここで何人の人が死ぬのだろうか。辺境伯は、無事なのだろうか。彼の頭には、様々なことが交錯した。
彼らは体を洗い終えると、出発した。
五人はまず渓流を下った。そのうちに陽は落ち、辺りは暗くなった。
渓流は滝になっていた。彼らは滝の手前までやってくると、水辺を上がり、森を通過して道に戻った。そして、夜の道を駆けた。
彼らは走り続けた。やがて彼の行く先に、闇夜の谷に浮かぶ長い吊り橋が見えてきた。
アイルは、橋の真ん中に何かが立っているのを認めた。
【アイル】「何かいる」
アイルは言った。皆、走るのをやめ、橋に目を凝らした。たしかに橋の上に何かがいた。しかし、夜の暗闇に閉ざされ、この距離からではその正体を見定めることができなかった。
彼らは道を進み橋の入口に立った。そしてようやくその距離から、その正体を看破した。
【ヤゴー】「トロルだと……」
ヤゴーは言った。橋の中央に、トロルが仁王立ちで立っていたのだ。
この醜怪な生物は、強力な魔物だった。その体高は十フィートにもなり、並の騎士では三人がかりでようやく仕留めるほどができるほどの化け物であった。
吊り橋はトロルの重みでUの字にへたり込んでいた。
【ゲイル】「俺が隙を作る。お前たちは隙を見て渡れ」
ゲイルはそう言い、トロルに近づいていった。そしてあえて至近距離から矢を放った。彼は近距離で体を晒して矢を放つことで、トロルの攻撃を誘おうとしていた。しかし、矢はトロルの硬い皮膚に浅く突き刺さりはしたが、トロルは仁王立ちしたまま微動だにしなかった。
【ゲイル】「ちっ。まるで動かねえ」
ゲイルはもう一度矢を番えた。ヤゴーはそれを制止して、言った。
【ヤゴー】「作戦があるぜ。ここを渡ったときのことを思い出せよ」
アイルはなんのことか分からなかったので、ヤゴーを見返した。
【ヤゴー】「作戦名『突風』だ」
【ゲイル】「なるほどな」
ゲイルはそう言いニヤリと笑った。
アイルはしばらく考えた後、ようやく合点がいった。彼は女の子二人に耳打ちした。
彼らは橋をさらに渡った。それに反応して、トロルは手に持った棍棒をゆっくりと構えた。
ヤゴーは小声でカウントを始めた。
【ヤゴー】「三……二……一……いくぞ!」
5人はそれぞれ橋の両端の蔦に捕まり、勢いよく左右に揺らし始めた。
【ヤゴー】「右いくぞ!」
ヤゴーが掛け声を上げ、右の蔦を掴み思い切り押した。アイルも彼と同様に右の蔦に飛びついていた。二人の体重に引っ張られて、長い吊り橋は大きく右にたわんだ。
【ゲイル】「左!」
今度はゲイルが叫んだ。女たちは掛け声に合わせて左の蔦を引張り、今度は橋は左に大きく揺れた
【ヤゴー】「よっしゃ、右だ!」
ヤゴーがまた叫んだ。橋はさらに大きく右側に揺れた。これを何度も繰り返しているうちに、橋の揺れは危険なほど大きくなってった。蔦の吊り縄は弦楽器の鉄線のように緊張した。
トロルは、はじめは橋の踏み板に仁王立ちになって踏ん張っていたが、揺れが大きくなるに連れてその巨体を支えきれなくなり、思わず左の蔦に飛び移った。
【ヤゴー】「今だ!」
ヤゴーは叫んだ。女たちは右の吊り縄に飛び移り、蔦に腕を絡めしがみついた。
ゲイルは素早くナイフを取り出し、左の吊り縄を切った。
蔦はバンジョーの線が弾けるように、緊張から解き放たれ中を舞った。
急に支えを失ったトロルは、つんのめって橋の上から身を投げだした。
【トロル】「ガァアアア!」
トロルは叫んだ。そして蔦を掴んだまま、渓流の底へ落下していった。
アイルは、谷底へ消えるトロルを見ようと身を乗り出した。しかし谷の暗黒の中、トロルの姿は見えなかった。彼が後ろを見ると、ゲイルはすでにナイフを鞘にしまっているところだった。
【ヤゴー】「急ぐぞ」ヤゴーは言った。
彼らは橋を渡りだした。今度はアイルが先頭を務めた。片方の太索を落とされた橋は不安定になり、そのうえところどころ底板が抜けているので、橋を渡るのは非常な困難が伴った。
しかし、それでも彼は女子を先導し、橋の四分の三を渡り切った。
【アイル】「ここに穴が開いてるぞ!気をつけて!」
アイルは足元を指差し叫んだ。橋のはめ板が飛び飛びに何枚も空いているところを、女子たちはジャンプで軽々と超えていった。
アイルは夜で谷底が見えなくてよかったと思った。もし見えていたら、彼女達は足がすくんで動けなくなっただろう。
アイルがすべての穴を超えると、最後はヤゴーの番だった。彼は助走を漬けると、穴を一気に飛び越えた。彼が着地すると橋は大きく上下に揺れた。ゲイルが非難がましい目つきでやゴーを睨んだ。
【ヤゴー】「へへへ」彼は笑った。「おい、お前らは先に渡っとけよ」
ヤゴーはアイルたちに向かってそう言った。そう言うと、彼は二つ目の穴を渡るために助走をつけた。
その時、彼の足首が何かに掴まれた。
彼はつんのめって、橋のはめ板に倒れ込んだ。
彼が振り返ると、その足首が巨大な手に握られていた。
トロルの手だ。
トロルはどういうわけか、落下していなかったのだ。
【アイル】「ヤゴー!」
すでに橋を渡りきったアイルが、対岸から叫んだ。
トロルはヤゴーの足を掴んだまま、橋に這い上がった。そして立ち上がり、ヤゴーを見下ろした。
ヤゴーは剣を抜き、トロルのへそに突き刺した。
しかしその剣は、浅く一インチしか皮膚を突き破らなかった。
トロルは手を払い、その剣を弾き飛ばした。そして自らの腰の剣を抜き放ち、ヤゴーを上に剣を振り下ろした。
剣はヤゴーの体を貫いた。
【ゲイル】「ヤゴー!!」
ゲイルは叫んだ。ヤゴーは床のはめ板ごとその太い剣に串刺しにされた。
そして、トロルはアイルたちを見て、走り出した。トロルがそのすさまじい体重で橋の底板を踏み抜き、橋は揺れ凄まじい足音が響いた。
トロルはあっという間に対岸に迫った。
【ゲイル】「くそがっ」
ゲイルは言い、剣を抜き橋へと一歩足を踏み出した。
【ヤゴー】「馬鹿野郎!来るんじゃねえ!!」ヤゴーが叫んだ。
ヤゴーは、自分の腹を見た。
トロルの太い剣は、ヤゴーの肝臓を貫いていた。傷口からは黄色い脂肪の塊が飛び出していた。
彼は剣を抜こうとしたが、それははめ板に深く突き刺さり抜けなかった。
ヤゴーは死を悟った。
彼は橋に串刺しにされたまま腰のナイフを抜いた。そして手を伸ばし、残った右手の吊り縄を断ち切った。
”パン”と音を立て蔦が弾け飛んだ。
支えを失った橋は、一瞬ふわりとたわみ、そして落下を始めた。
【トロル】「グァアアア!」
トロルは叫び声を上げた。それは知性のない野獣の咆哮だった。
橋は、ヤゴーと、そしトロルを巻き込んで、谷の底に落下していった。
【ゲイル】「ヤゴー!」
ゲイルは叫んだ。彼は崖から身を乗り出し、谷底に向かって叫んだ。
「ヤゴーーーー!!!!」
ゲイルの叫びは闇夜の谷間に反響した。しかし、その叫びに応えるものは何一つなかった。
アイルたちはその場に立ち尽くした。ゲイルは、震える手で崖の淵をつかみ、闇の底を呆然と見つめていた。。しかし、やがて大きく首を振り、立ち上がり言った。
【ゲイル】「ここから逃げるぞ」
彼はそう言い、アイルに道を先導させた。
ゲイルは、アイル達が行った後も、しばらくその場にとどまっていた。
【ゲイル】「すまねえ」
彼は谷の底に向かって小声でつぶやくように言った。そして踵を返した。
四人は森の道を走った。