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1 森の中の死体

 人肉の腐敗する匂いが辺りを一様に覆っていた。アイルは匂いの中心へ向かった。

 アイルは森を抜け、葦の生い茂る沼地の水際に近づいた。朝方の沼は濃い霧に覆われていた。湿気を吸った空気の腐敗臭がアイルの鼻孔を刺激し吐き気をもよおした。

 水辺は静かだった。ただ一対のカエルの鳴き声だけが響いていた。彼は水際のぬかるんだ土をゆっくり踏みしめながら歩いた。やがて葦の向こうに何かが見えた。彼は臭い空気を口から思い切り吸い込み、呼吸を止めた。そして葦をかき分け水面を覗き込んだ。


 水辺に切断された人の足が浮かんでいた。

 アイルは驚き、固まった。水面から突き出たブーツの底の鋲に、黄色い蝶が止まっていた。

 水辺の淀みに波紋の一つも立てずに人の右足がただ浮いていた。


 そのとき、アイルは葦の茂みの奥に人の声を聞いた。

 アイルはためらわず水に飛び込んだ。そして沼を泳ぎ、葦の向こう側に回り込んだ。

 

 葦の茂みの中に兵士が倒れていた。彼は虚脱した目で近づいてくるアイルを見つめていた。

 その甲冑の胸甲には穴が空き、その穴から流れたおびただしい量の血が、黒いかさぶたとなって固まっていた。

 彼に右足はなかった。血にまみれたふくらはぎには皮のベルトがきつく巻き付けられていた。

 彼を囲む葦は、血に濡れて赤く染まっていた。

 兵士は何かを喋ろうとし口を動かした。アイルは兵のそばに寄り、男の口元に耳を寄せた。沼の冷たい冷気の中で、アイルは男の温い息を耳元に感じた。兵士は口を開いた。


【兵士】「オークの襲撃だ……。城がオークどもに襲われた」


 兵士はそこまで言うと苦痛に顔を歪ませ、肩で息をあえいだ。彼は続けて言った。


【兵士】「聞いてくれ……城の内部に裏切者がいる……今からそいつの名前を言う……」


 アイルは兵士の顔を正面から直視し、はっきりとうなずき先を促した。


【兵士】「クラウザー……クラウザーが裏切者の名だ」

【アイル】「クラウザー」


 アイルはその名前を繰り返した。兵士はこくりとうなずいた。


【兵士】「城に入るための符牒がある……『その王命は銀である』と」

【アイル】「その王命は銀である」アイルは再び兵士の言を繰り返した。


 兵士はうなずき、そしてアイルの腕に手を伸ばし、言った。


【兵士】「ロアン辺境伯にだけ直接話せ……」

【アイル】「辺境伯に直接、ですね」アイルは繰り返した。


 兵士は、さらになにか話そうと口を開いたが、大きく咳き込んだ。彼は血が絡んだ痰を吐き出すと、あえぎながら言った。その声はか細く、ほとんど聞き取れないぐらいだった。


【兵士】「アマンダ様を、頼む……」

【アイル】「アマンダ?それは、誰のことですか……?」


 しかし兵士はそれに答えることなかった。彼は目の焦点を失い、呼吸を止めた。

 アイルは彼のまぶたをやさしく閉じてやった。

 

 アイルは兵士から体を離し、岸へ戻った。その途中、彼の足は水中の何かを踏んだ。

 アイルはなにかと思い、足をどけて、水中を覗き込んだ。

 足の下にはオークの死体があった。

 死体の顔は白く蝋化し膨れ上がっていた。その大きく虚ろな黄色い双眸は焦点の定まらない目でアイルを水の底から見つめ返した。波紋一つない水面に沈む魔物は、琥珀に囚われた蜂の死骸を思わせた。死体は甲冑の重みで泥の中に半ば沈んでいた。


 アイルは沼から上がり、人を呼ぶために村へ走った。


ーー


 岸辺に引き上げられた二つの死体の周りには村の大人たちが集まっていた。彼らはアイルが呼んできた村の住人だった。


【村長】「南部連隊の兵か」


 もっとも年長の老人がいった。彼はアイルが住むスホルト村の村長だった。彼はハゲ上がった頭に茶色の粗末な外套を着ていた。そして太いねじくれた木の杖を握っていた。老人は、かつては名の知られた魔法使いだった。

 ここローラント国とオークは長らく戦争状態にあった。南部連隊とはローラント南部の国境を守護する軍隊であった。アイルの住むスホルト村もローラントに属していた。

 

【村長】「年齢は三十といったところかの。認識票がある」


 村長はそう言うと、首から下げられた銀片を取り上げた。


【アイル】「お名前は何とおっしゃるのですか」

【ヤゴー】「名前は書いてない。数字が書いてあるんだ」


 屈強な体躯をした短髪の中年男が代わりに答えた。彼はヤゴーといい、スホルト村の猟師たちの長だった。


【アイル】「数字はなんと」

【村長】「Ⅱ、Ⅱ、Ⅵ、Ⅳだ」


 村長は答えた。男たちは死体を横倒しにすると、甲冑の帯をはずし鎧を脱がせた。甲冑の穴は鎖帷子を貫通し、胸の心臓を穿っていた。砕けた鉄板の破片がすぐ下の肉をズタズタに引き裂いていた。


【村長】「銃創のようだな」


 村長は言った。そして節くれだった細い指を、死体の傷穴に突っ込んで中を弄った。やがてその細い指は鉛の塊を探り当てた。鉛の礫はひしゃげて平らに潰れていた。


【村長】「決まりじゃな。皆よ、銃を探せ」


 皆散り散りになり、近くにオークの足跡や戦闘の痕がないか探しに行った。アイルはふたたび水の中に飛び込んだ。

オークの死体の沈んでいた地点まで泳ぐと、顔を水につけゆっくりと水中を調べ始めた。やがて彼は泥中に沈む銀色の物体を見つけたので、足先で泥を掻き出し、水中からその物体を引き上げた。それは、持ち手に細かい錫の細工が施された短銃だった。しかし、アイルも銃器に詳しいわけではなかったが、火ばさみや火蓋などは見たことがない形をしていた。


【アイル】「ありました!」


 アイルは声を上げて知らせ、村長のもとに戻った。村長は銃を受け取り軽く調べた後、言った。


【村長】「弾は入っていないようだな。これは私が検分しよう。ゲイル、遺書は見つかったか?」

【ゲイル】「ありました。」


 死体を調べていた痩せた男が答えた。彼はゲイルといいヤゴーと同じく年長の猟師だった。彼が胴鎧の裏側を見せると、そこには封が貼り付けてあった。


【村長】「ここではまだ読まん。彼は魔物と戦い村を守った。丁重に葬ってやろう」

【ゲイル】「オークはどうしますか」

【村長】「川に捨てて魚の餌にでもしておけ」


 村長が言った。ヤゴーがオークの死体を蹴り飛ばすと、それは水面に派手な飛沫をあげて落下した。死体は水面に浮かび上がると、そのままゆっくりとどこかへ流れていった。

 男たちは兵士の死体を運んで村に戻った。


ーー


 スホルト村はローラント南部にありがちなあまり文明らしからぬ限界集落のひとつだった。

 村は幅十フィートほどの堀に囲まれ、トウヒの木の杭を打ち込んで作られた要塞壁で囲われていた。等間隔で並ぶ六つの櫓の上には巨大なバリスタが据え付けられていた。それは、空からの竜の襲撃に備えたものだった。

 ローラント南部には、魔獣の狩猟を生業とし山脈のそばに構えられた集落がいくつもあった。スホルト村もそういった未開部族の一つであった。

 アイル達は堀に掛けられた丸太の橋を渡った。二十軒ほどある家の中心にある中庭では、女衆がすでに飯の準備を済ませていた。

 村の広場では男衆が集まり火を囲って朝食の粥をかきこんでいた。焚き火の周囲には一人につき一本分の焼き魚が串に刺されて炙られていた。アイルは串をとり、ニジマスの背中にかぶりついた。塩の効いた背中の身は柔らかくてうまかった。


【村長】「皆、食いながら聞け」


 村長が話しだした。


【村長】「皆も知っての通り、今朝、沼のほとりで兵士が死んだ。南部連隊所属の兵士だ。恐らく南の防衛線のどこかが突破されたのだろう。彼はオークと戦い我々の村を守った。丁重に葬ってやろう」


 村長が銃を取り出しながら言葉を続けた。


【村長】「おそらくこれが兵士を撃った銃だ。見ての通り火蓋などはついていないが……」


 そう言いつつ村長は銃の引き金を絞った。打鉄のからくりが弾け、眩しい火花が瞬間的に舞い散った。


【村長】「先端に火打ち石がついていて、この火花で火薬に着火するようだ。わしはこの仕組の銃を初めて見るし、鍛冶連中もこんなものは見たことがないらしい。となるとオーク達が開発したものだろう……やつらの技術のほうが人間より先んじているということだ。これは火縄に点火する手間がないから便利だし、夜間の襲撃にはもってこいだろう。もしこれで砦が攻撃されているのなら、まずいことになっているやもしれん」


 村長は節くれだった指で銃の引き金をなでながら、続けた。


【村長】「南へ使いを出したい。既に近くに他のオークが侵入しているやもしれんから、三人使いを出すことにする。ヤゴー、ゲイル、アイル、お前たち三人で行け。領主様にもこのことを知らせねばならぬ。カイン、お前は銃を持ってネーヴェに向かえ。ルーはカインと共にネーヴェまで下ったのち、そのままアロンゾまで下りこのことを知らせろ。さあ、飯が終わったら皆で墓を造ってやろう」


 飯の後、男衆全員で村外れの墓場に穴を掘った。村の墓地にはまだ数えるほどの墓石しか立っていなかった。村がこの場所に造られてから四半世紀も経っていはなかった。

 鎧、革靴、剣を外された兵士は穴の中に手を組んで横たわっていた。武具は全て村で再利用される予定だった。それは限界集落の生きる術だった。


【村長】「遺書を読み上げる」


 村長が言った。みな厳粛に聞いた。


【村長】「我、若年より皇軍の栄光に仕え一片の悔いなし。しかし壮年にて故郷に残せし母を思う。我の僅かな蓄え是非母に贈り給え」


 村長は皆を見渡していった。


【村長】「この遺言託された。この言葉必ず砦に届けようぞ」


 死体は埋められ、名前の刻まれない墓石が立てられた。


ーー


 半刻後、アイルは出立の準備を終え、村の出口でヤゴーとゲイルが来るのを待っていた。そこに若い男が近づいてきた。男は村の鍛冶見習いで、ルイといった。


【ルイ】「アイル、受け取れ」


 ルイは鞘に入った短剣を手渡した。その短剣は兵士が腰に下げていたものだ。


【ルイ】「おれが研いだ。よく切れると思う」

【アイル】「ああ。ありがとう」


 アイルはそう言って短剣を鞘から抜いた。アイルはそれを見て驚いた。ダマスカスだ。肉厚の刀身は黒く、妖艶な波紋は油が染み出たような黒い光を反射した。ただ、刃の先端だけは銀色に輝き、鋭角な光を放っていた。彼はこの短剣を非常に気に入った。


 やがて、準備を終えたヤゴーとゲイルがやってきた。三人は村を出発した。


ーー


 こうして三人は川の上流へ向かった。はるか遠方にはウルゴーン山脈の白い山麓が夏の日差しを受けて銀色に輝いていた。八月の入道雲は高くたくましく天空に向かって立ち上がっていた。トウヒ濃い緑色葉が輝く森からは、真夏の山林の生命の匂いが漂っていた。山は狩りの季節だった。

 抜けるような青空と渓流がもたらす静謐な空気の中、三人は川を上っていった。

 オルド川の透明な水の中にはたくさんのニジマスが泳いでいた。 平和な日常であるならすぐにでも村に戻って三人で釣竿を出すところだった。ニジマスはアイルたちの足音に反応してどこか下流へと逃げていった。

 上流から夏の爽やかな風が吹いた。三人は黙って歩いていた。そのとき突如森で何かが蠢いた。

 狩人の習性から、三人は即座に身構えた。

 小さなイボ猪が森の隙間から顔を出した。そして川の水を飲もうと小道を横切った。ヤゴーが滑らかな動作でそれまで肩にかけていた弓をかまえ、そのまま音もなく弦を引き絞り矢を放った。矢はこちらを振り向いた猪の眉間をドスリという音を立てて貫いた。猪は硬直し、四肢を投げ出したまま横倒しに倒れた。


【ゲイル】「無駄な殺生はするな」


 ゲイルが諌めた。


【ヤゴー】「なあに、血抜きで川に放り込んでおいて、帰りに持って帰ろうと思ってね」

【ゲイル】「そうか」


 三人は手早くイノシシの喉を割いた。わずか一分足らずで腹を開いて内蔵を取ると、後ろ脚に石を括り付け、川の淀みに沈めた。喉の切り口から血が煙のように吹き出し、下流を赤く染めた。


 三人はまた川を上り始めた。

 森からまた獲物が出てきやしないかと、ヤゴーは期待に足取り軽く歩いていた。しかし森に動物の気配はなかった。それどころか、上流へ進むにつれて森はいやに静かになっていった。


【ヤゴー】「何も出てこねえな」


 鳥の声すらまばらになっていった。渓流を流れる川の音だけがこの谷の隘路に響いていた。三人はやがて押し黙った。冬の森でもここまで静かにはならなかった。


 やがて彼らは森に潜む危険を確信した。この異様な感覚は、危険な魔物が近くにいるときのそれだった。狩人の本能が彼らの足取りを重くさせた。村から託された責務が彼らに後退を許さなかった。しかし,

前進するにつれ異様な気配はさらに濃くなっていった。


【ヤゴー】「嫌な感じだな。一旦村に引き返すか?」

【ゲイル】「いや、このまま進む。どうせ村の連中もここまでは狩りに来るし、すぐに異変に気づくだろう。あの兵士には義理立てがある。砦の兵達にもだ。はやく訃報を知らせないとな」


 三人はそのまま進んだ。


ーー


 彼らは渓谷にかかる吊り橋に差し掛かった。


【ヤゴー】「なんじゃこりゃ」


 ヤゴーが言った。それは村の人間たちが長年使ってきた蔦の吊り橋だったが、橋の真ん中がなにか重いものを支えたかのように大きくへたり込んでおり、底板の何枚かが抜け落ちていた。なにか大型の魔獣のようなものが吊橋を通過したのだろうか。彼らは渡ることを躊躇し、しばらくの間対岸に目を凝らしていた。


【ヤゴー】「ちっ。ここで止まってても埒が明かねえや。進むぞ」


 ヤゴーがそう言った。三人はそろそろと橋に向かって足を踏み出した。

 吊り縄の蔦は引き伸ばされ、所々皮が傷つき剥げ落ち、薄緑色の真皮が覗いていた。三人は橋を揺らさないように慎重な足取りで歩いた。

 やがて彼らは橋の中央部に差し掛かった。中央部は底板が何枚も抜けていた。穴から下を覗くと、白い水しぶきを上げ走る急流が見えた。

 ヤゴーは橋の両脇に渡された細い蔦に足をかけ、かに歩きでそろりそろりと渡った。

 彼がようやく対岸の板に足を渡したその時、渓谷に突如として強い一陣の風が吹いた。


【ヤゴー】「うわっとっと!」


 ヤゴーが叫んだ。風は橋を左右に激しく揺らした。彼は蔦の吊り縄を必死で掴み、橋に余計な揺れを加えぬようなるべく踏ん張って堪えた。

 やがて風は止み、橋の揺れも収まった。ヤゴーはアイル達に顔を向け、子供じみた笑顔を見せた。


【ヤゴー】「あぶねえあぶねえ!」


 彼はそう笑うと、今度は大股でひょいひょいと穴を渡り、ものの5秒で穴だらけの箇所を渡りきった。


【ヤゴー】「なんてこたねえや、俺達はびびりすぎた。普段の調子でぱぱっと渡っちまえばいい」


 アイルとゲイルも次いで橋を渡り、彼らは先へ進んだ。


ーー


【ゲイル】「……なにか来るな」


 突如、ゲイルがそう言い、背後を振り返った。アイルもゲイルにつられて背後を見た。彼らの通ってきた道の奥から、アイルもまた言いしれぬ異様を感じた。

 ゲイルは地面に伏せると、耳を地面に押し当てた。


【ゲイル】「なにかが近づいて来るぞ!隠れろ!」


 ゲイルがそう言うと、三人は森の中に入った。彼らは森をかき分け、道からは視界に入ることはない薮の奥へと隠れ潜んだ。

 しかしそれはまた、彼らの側でも道を通るものを見ることが出来ないことを意味していた。ゲイルは言った。


【ゲイル】「お前達、絶対に微塵も動くなよ」


 ゲイルにそう言われて、アイルは道を覗きたいという衝動を抑えた。

 やがて、薮に隠れて見ることが出来ない道の左手側から、たくさんの足音が響いてきた。

 その音は太く、間隔も大きい。明らかに、人間のものではない……おそらく魔獣の、オークのものだ。


 しかし、道を通って来る者はそれだけではなかった。

 それは、ゆっくりとやってきた。

 鬱蒼と茂った森を貫通して、言いしれぬ圧力がアイルたちに襲いかかった。


 まず鳥が逃げた。カラスの集団が一斉に羽ばたき、まるで夕方近くのコウモリのように、集団となり何処かへ飛んでいった。

 次に哺乳類が逃げた。ネズミ、リス、イタチ、そしてハリネズミが、姿を晒すのも構わずアイルたちの脇を全速力で駆けていった。

 そして最後に、虫すら逃げ出した、まず羽虫、ついで地を這うクモ、ゴキブリ、そしてムカデすら逃げ出した。


 アイルは総毛立った。アイルの顎から何滴もの汗のしずくが滴り落ちた。

 それは魔物の気配にある程度は似ていた。しかしそれは、アイルの知っている魔物の、何百倍も濃く、濃密で、そして害意に満ちた気配だった。

 アイルは動けなかった……動かなかったのではなく。指先一つすら動かせなかった。

 いま、この”害意の正体”がやってきたら、アイルは一つの抵抗もすることなく殺されるだろう。

 彼らはひたすらに時がすぎるのを待った。

 やがて、森を通る害意は、道の先へと消えていった。


 三人はしばらく後、道に舞い戻った。


【ゲイル】「今のは一体なんだったんだ……」

【ヤゴー】「……さあな」


 三人は、道に大量に残された足跡を追って、さらに奥へと進んでいった。


ーー

 

 彼らは慎重に森を進んだ。そのうちに、頭上を覆う森の梢は段々と薄くなり、夏晴の青い空が見えた。パルパットの尖塔が見える頃合いだろう。

 しかし、まず彼らの目に先に飛び込んだのは、青い空を切り裂く一筋の灰色の煙だった。その煙は遥か高くそびえる巨樹のように、高くまっすぐ空へと登っていた。

 アイルは、緩やかな向かい風の微風の中に、肉の焼ける匂いを嗅ぎ取った。

 それは、人肉の匂いだった。

 羊を食う習慣のない人間は、ラム肉の焼ける匂いに嫌悪感を催すらしい。牛も魚も食わないエルフは焼き魚の匂いだけで嘔吐すると聞いたことがある。

 肉が焼ける匂い、それは本来、生物が灰と無に帰す究極の死の匂いだ。

 屠殺場の豚が感じる、死の匂い。

 アイルは風に人間が焼ける匂いを嗅いだ。

 煙はアイルたちが近づくにつれて、毒々しい黒煙に変わっていった。


ーー


 やがて森は開けた。

 森から続く道の先に、南部連隊の砦であるパルパット城塞の尖塔が見えた。砦はウルゴーン山脈を住処とするオークの侵入を防ぐために、谷の隘路に立てられた古い砦だった。混凝土で造成された分厚い白い壁に囲まれ、その誉れ高い教会の高い尖塔は天空に向かって屹立していた。しかし、今はその姿は、普段とは違っていた。

 砦はオークたちの軍勢に囲まれていた。

 その巨大な城門は、固く閉ざされていた。門の周囲には、焼け焦げた遺体が散乱しており、それらはまだ火をつけられくすぶっていた。

 三百を超えるオークの軍勢の中心に、さっきの異様な気配の正体がいた。

 それは四体のオークが担いでいる輿の上に座り、顎に手を当てて城門を見つめていた。

 それは魔人の類なのだろうか。その姿は、椅子の背に隠れてよく見えなかった。

 

 アイルと仲間たちは、道を逸れ、再び森に入った。そして距離を詰めて、横から魔物を観察した。

 アイルたちは、ひと目見て分かった。

 それの正体は、悪魔だ。

 それは蝋のような白い肌をしていた。頭からは、茶色い一対の角が生えていた。

 目の周りはフジツボのような赤いかさぶたで覆われ、細く長い指の先についたその爪は黒かった。

 彼は手を丸めてはほどくことを繰り返し、城門を見つめながらなにか考え事をしていた。

 アイルたちはその場を離れた。

 

 彼らは森を進み、パルパット城塞の東の城壁に隣接する崖に到着した。上から城を覗くと、何人もの弓兵が胸壁の上から外部を監視していた。

 彼らは森を出て姿を表し、城壁の上の兵に向かって叫んだ。

 

【ヤゴー】「おうい!」


 彼らは、アイルと仲間たちの姿を見つけると、矢を番え、一斉に矢じりの先端を向けた。

 アイルたちは、弓兵たちの様子を見て、両手を頭上に掲げた。そして城壁の真下に降りると、そこから再び大声で叫んだ。


【ゲイル】「俺達はスホルトから来た!お前たちの兵から言伝を預かっている!中に入れてくれ!」

【兵士】 「ならばその言伝を述べよ!」


 壁上の兵士が返答した。

 

【ゲイル】「俺達は辺境伯にのみ直接伝えるように言付かっている!」

【兵士】「ならん!信用できん!」


 アイルは一歩進み出て、言った。

 

【アイル】「我々は符牒を預かっています!『その王命は銀である』と!」


 壁上の兵士たちがざわめいた。

 

【兵士】 「いま一度述べよ!」

【アイル】「その王命は、銀である!」


 ある兵士が、アイルたちを指さしていった。


【兵士】「隊長!自分はあの細い方の男を知っています。ゲイルという男で、10年ほど前にこの城で徴募兵として勤めていました」

【兵隊長】「……ああ!確かに私も見覚えがある!……よし、上から縄を投げる!よじ登ってこい!」


 城から縄が投げられた。三人は縄を伝い、城壁の上まで登り切った。一人の兵士がゲイルのそばにより、声をかけた。

 

【兵士】「よう、俺はケインだ。覚えているか?」

【ゲイル】「ああ、覚えてるよ」

【兵隊長】「久しぶりだな、ゲイル」隊長と呼ばれた、口ひげをたくわえた年かさの兵士がゲイルに声をかけた。

【ゲイル】「ジークラット隊長、お久しぶりです」

【ジークラット】「ロアンのところまで案内してやる。ついてこい」


 隊長はそう言い、アイル達を先導した。

 彼らは側塔のなかにある螺旋階段を下り、地上に降りた。

 

 地上では下人たちがあわただしく動いていた。桶に目いっぱい入れた水を運ぶ下女や、肩に小麦の袋を担いでいる小間使い、胸にバリスタの矢を抱え走り回る兵士などをかき分けながら、彼らは道を進んだ。

 やがて彼らは、二人の槍兵が守る城門の前にたどり着いた。隊長が目礼であいさつすると、彼らは城内に通された。


 彼らは薄暗く湿った螺旋階段を上がった。隊長の鉄の具足が石畳の階段をたたく音が、かつんかつんと響き渡った。彼らは廊下を進み、扉の前に連れてこられた。扉は分厚い樫でできており、茶色い膠が塗られあでやかな光沢を放っていた。

 扉の前に立つ衛兵は、隊長と目線を交わすと、扉を開いた。


 扉をくぐると、部屋の中の視線が一斉にアイル達に向けられた。応接間は広く、豪華な調度品で飾られていた。高い天井には鮮やかなテンペラ画が描かれていた。東洋から取り寄せられたものであろう白磁の壺がいくつも立ち並び、壺の下には東夷の女が編んだものであろう豪奢な分厚い赤い絨毯が部屋に敷き詰められていた。部屋の中央には大きな椅子があり、その上に従者に囲まれた老人が座っていた。


 三人は辺境伯に敬礼した。

 

【ジークラット】「この者たちが、殿下に言伝を持って参りました」

【ロアン】「名乗れ」


 ロアン辺境伯が言った。彼は低く威厳のある声をしていた。

 

【ゲイル】「私はスホルト村において狩猟を営むゲイルというものです。兵士からの言伝を授かってここに参上した次第であります」

【ロアン】「あいわかった。それを述べたものの名は」

【ゲイル】「名は分かりません。ここに軍票があります」

 

 彼はそう言い、アイルか軍票を受け取り、それを差し出した。モノクルをかけた文官らしき装いをした男が、それを受け取り、検分した。

 彼は驚きに一瞬目を見開いた。

 

【文官】「トルドー軍曹のものです」

【ロアン】「彼はどうした」

【ゲイル】「死にました」

【ロアン】「……あい分かった。トルドーの言を述べよ」

 

 ゲイルは一瞬躊躇して、こう答えた。

 

【ゲイル】「なりません。辺境伯とのみで直接話せと申しつかっています」

 

 ロアンは文官に目配せを送った。文官は首を振った。

 

【ロアン】「ならん。いますぐにここで話せ」

【ゲイル】「は。”裏切者の名は、クラウザーだ”と」


 部屋が静まり返った。文官は目線を伏せたままその場に固まった。ロアンは椅子のひじ掛けを強く握った。彼の、歴戦の戦士の筋張った太い指が、ひじ掛けを覆う厚い布地に食い込んだ。

 アイル達は、何事かと顔を上げた。部屋の高官たちの視線は、一人の人物に注がれていた。

 アイルはその視線の先を追った。灰色のローブに身を包み、ながく白いひげを胸元まで蓄えた魔法使いが、表情を消して微動だにせず立っていた。


ーー

 

 やつがクラウザーなのか?アイルはことの成り行きを息を詰めて見守った。

 ロアンが椅子から立ち上がろうと腰を浮かした。

 その瞬間、灰の魔法使いは、口元をにやりとゆがめた。彼の小さな黄色い歯が、唇の隙間から覗いた。

 彼は杖を振りかぶりった。


【クラウザー】「öum ël jackt ël garm älba....」

 

 クラウザーが呪文を唱えた。すると、杖の先端にはめ込まれた宝石が、赤く眩しい光を放った。隊長はアイルを突き飛ばし、魔法使いに突進した。そして走りながら剣を抜き放ち、上段に刃を振りかぶった。

 しかしその剣は間に合わなかった。宝石の赤い輝きはその臨界点に達し、一瞬の閃光が部屋をまぶしく照らした。そして、杖の先端から灼熱の赤い炎が噴き出した。


【ジークラット】「ぐわあああああああ!」

 

 炎が隊長の体を包んだ。隊長は叫び声をあげ、その場に崩れ落ちた。


【文官】「öum ël jackt ël garm zaickt....!!」


 呪文の詠唱を終えた文官が、その両の手のひらを魔法使いに向け、白い光線の魔術を放った。魔術師は杖を振り、その光線を弾き飛ばした。激しい擦過音とともに鋭角にはじかれた光は、天井のテンペラ画に当たり太い線条痕を残した。

 魔術師はすぐに身をひるがえし、壁のステンドグラスを突き破って、外の空間へ飛び出した。

 ロアンもすでに呪文の詠唱を終えていた。その両手の間には、直径三フィートはある大きな水球が浮かんでいた。彼は隊長に向けてそれを放った。水球が隊長の全身を覆い、彼を包んでいた炎はすぐに消えた。

 肉の焦げる甘い匂いが部屋に漂っていた。


ーー

 

 ゲイルは割れた窓の下へ駆け寄り、外を覗き込んだ。高さ八十フィートはあろう空間から地面に飛び降りたのにも関わらず、クラウザーの姿はもうどこにもなかった。

 

【ロアン】「医者をここに呼べ。奴らはすぐに動いてくるぞ」

 

 その時、遥か下方に見える密集した家の路地の隙間から、赤い煙が一本の筋を描いて空へと高く立ち上った。

 

 ゲイルは部屋を振り向いて叫んだ。

 

【ゲイル】「煙があがっています!何かの合図かと!」


 彼がそう言うと同時に、南の方角から、なにかの爆発音が響いてきた。

 

 その爆発は地面を震わせ、振動がアイルの脚を伝い響いてきた。ロアンたちはみな、窓に駆け寄り、南の方角を注視した。

 南の城壁では、爆発の砂塵が一面に広がり、その中央で黒い煙がもくもくと天に向かって立ち上っていた。


ーー

 

【ロアン】「今すぐ兵を出すぞ。ジークラッドはどうだ?」


 ロアンは訊いた。隊長は甲冑を外され横たわっていた。モノクルの役人が隊長の胸に両手を当てて呪文を唱えていた。隊長の体は白い光に包まれていた。それは、恐らく神術のたぐいなのだろう。隊長の皮膚の真っ赤に裂けた傷口は、みるみるうちに塞がった。

 

【文官】「もう大丈夫です。命に別状はないかと」


 役人がそういうと、隊長は天井に握った手を掲げた。それは自分は無事だという合図だった。

 ロアンは安心して一瞬顔を緩ませた。しかしすぐに気を引き締め、言った。

 

【ロアン】「コルトを呼べ。ハミルトンは、私と兵舎に来い」

【アイル】「あの!!」


 アイルが辺境伯に声を上げた。


【アイル】「我々にできることは、ありますでしょうか」


 アイルがロアンにそう言った。一介の猟師である彼は黙っているべきだったが、愛国心から彼の口から言葉が衝いて出てきた。

 

【ロアン】「ない。君たちははやくここから逃げなさい」

【ゲイル】「私は十年前にこの砦に勤めていました。このヤゴーという男も、軍務経験はありませんが、力はあります。手伝わせてください」

【ロアン】「……」


 王は、腕を組みひとしきり悩んだ。この喫緊の事態に、なおも時間を取り思考を逡巡させた。


【文官】「王」


 文官は、見かねて王に声をかけた。しかし王はそれを遮り、アイルたちに言った。


【ロアン】「君たちに軍籍はない……であるからこそ、この任務を果たせるかもしれん」


 王は腕を解き、三人をまっすぐ見つめながら言った。


【ロアン】「これから話すことは、完全に内密に行ってほしい」

 

 アイルたちは、辺境伯の言葉を待った。


【ロアン】「アマンダを……王女を、君たちとともに、連れて行ってくれ」


 王女という単語に驚き、アイルたちは思わず姿勢を正した。

 辺境伯は使いをやり、王女をここに呼んだ。王女は、小人の使いとともにやってきた。 

 彼女は、眼を見張るような長く赤い髪をしていた。その頭の天辺には、大きな三角帽を被っていた。

 

【ロアン】「アマンダよ、帽をとりなさい」

 

 彼女は、そうすることをためらった。

 

【ロアン】「いずれわかることだ」


 ロアンの言葉を聞き、彼女はゆっくりとその帽子を脱いだ

 帽子の下の頭の上には、黄色い天使の輪が、薄ぼんやりした光を放ちながら浮かんでいた。

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