第22話 久しぶりに聞く声
7月1日
久しぶりに物理の講義に出席したら、さっぱり分からず、ついていけなかった。午後の体育実技は、テニスだった。最近、体育実技は楽しい。二人組を作れと言われて、作れないでいた僕に、芦生さんという女の子が声をかけてくれて一緒に練習した。彼女は僕と同じくらいの長身で、テニスの実力も下手な僕と同じくらいだったので、やりやすかった。ただし、ボールを拾いに行く回数が多くて、疲れはした。この日は、体育実技で講義終了。
アパートへ帰ってきて、夕食までにはまだ時間があったので、その頃はまっていた、マーク・トウェインの「アーサー王宮廷のヤンキー」という600ページ近くもある長編小説を読んだ。座って読むと腰が痛くなるし、寝転がって読むと上腕三頭筋に乳酸がたまってくるので、寝たり座ったり、姿勢を頻繁に変える必要があるファンタジー小説だった。
夜はいつもどおり2人が来て、遅くまでしゃべっていた。11時20分に電話が鳴り、こんな時間に誰からだろうと思いながら受話器を取った。
「もしもし、美沙です。久しぶり。元気?」
本当に久しぶりに聞く、美沙さんの明るい声だった。
「まあまあだね」
と、僕が答えた。
「今日も、山崎君たち来たの?」
「うん、今もいるよ。誰かに替わる?」
僕は、夜ここへ電話すれば、山崎や石原と話ができるから、彼女は電話してきたんだろうと邪推し、ひねた態度で聞いた。
「ううん、いい。今日は高広君と話したくて、電話したから」
「誰?」
山崎が、小さな声で尋ねた。
「美沙さん」
僕は、受話器のマイク部分をふさいで、答えた。二人は驚いた様子で、顔を見合わせた。
「何かあったの?」
僕が聞いた。
「ううん、別に。普通におしゃべりしたかっただけだよ」
「そうか。大学はどう?忙しい?」
「忙しいよ。講義がびっしり入っている日が、週に4日もあるの。レポートも出るし、当てられたときに答えられないと困るから、予習もしていかないといけないし」
「いい大学は、厳しいんだよ」
「そういえば、こっちの人たち、英語の発音がすごくきれいで、外人さんみたいに教科書読むんだよ。私なんか全然下手だから、くすくす笑われちゃって、もうすごく恥ずかしかった」
「まあ、美沙さんの発音は特にひどかったからね。完全にカタカナ読みで。っていうか、南中出身の人、みんなそうだったよね。中学の英語の先生が悪かったんじゃないの?」
「そうだよ。きれいに発音する方が、恥ずかしかったんだもん。あとね、こっちの友達からは、美沙って呼ばれる」
「まあ、新しい集団ができると、新しい序列や役割分担ができるからね。それに応じて、呼び方が変わるんだよ、きっと。でも、いやじゃないでしょ?」
「うん、全然。初めてだから、新鮮だったよ。なんか、改めて違う環境に来たんだなって実感した」
美沙さんは、むこうの世界では、”崇拝の対象”ではなく、普通の女の子になっていた。
僕は、電話を持って、寝室へ移動し、ベッドに横たわって会話を続けた。話が当分終わらないと思った、山崎と石原は、僕が電話している途中で帰った。
「そういえば、先月、山崎の部屋で晩ご飯作るって言ってたやつ、あれどうなったの?」
「中止になった。なんか石原君が都合悪くなって、二人きりでやるのはちょっとって山崎君から電話が来て。高広君誘えばって、私が言ったんだけど、高広君に断られたって聞いたよ。それで、結局中止」
「そうだったのか」
この日は、もう付き合っている関係ではなかったからか、将来や結婚についても気軽に話ができた。
「美沙さんは、結婚願望とかあるの?」
「そりゃあるよ。できれば、早く結婚したいなあ」
「相手はどんな人がいい?」
「うーん。こればっかりは、縁だからね。結婚したくなった時点で、付き合っていた人、じゃないかな」
「どんなタイプが好みなの?」
「結婚するなら、健康と相性と経済力は必須条件よね。あとは、あまりこだわらないな」
「案外条件緩いんだ。子供は?あんまり子供好きには見えないけど。山崎とは、美沙さんが子供抱いてる姿は、想像できないよなって話してたんだよ」
「え、ひどいなあ。こう見えて、結構子供好きなんだよ。自分の子供は、3人欲しいな。20歳台のうちにふたり、30過ぎてから勢いでもう一人って感じかな。ただ、これも授かりものだからね。高広君は?」
「子供?」
「結婚とか、子供とか」
「そりゃ、いつかは結婚したいけど。一生できないかもな」
【君のせいで】と付け加えたかったが、それは思いとどまった。
「好みのタイプは?」
「優しくて、思いやりがある子」
「やっぱ、それ大事よね。男は、女に癒しを求めるんだ」
僕の軽い嫌味は、彼女には刺さらず、突き抜けた。
「高広君は、彼女できた?」
「それ、聞く?」
「あっ。ごめん」
さすがに、この質問はまずかったと、彼女も気が付いたようだ。僕には、何となく、美沙さんには彼氏ができたような口ぶりに聞こえた。もう自分には関係ないこととはいえ、わずかな嫉妬心が湧きあがった。