9 ずっとずっと
「なあ、そこのチビ」
味のしない弁当をもそもそと食べた後、食堂を出たところで声を掛けられた。
琴音ちゃんの彼氏である、なおくんだ。
「琴音ちゃんなら、もう帰ったよ?」
「いや、お前に用がある」
あれから琴音ちゃんは、ビニール袋の中身を一口も食べずに学校を後にした。ちらりと覗いた彼女の眦には雫が盛り上がっていたので、たぶん今頃は、ベッドの上で枕に顔を埋めているだろう。
私に用ってなんだろう。
戸惑う私に剣呑な視線を向けながら、彼氏くんが口を開いた。
「お前、彼氏が欲しいのか?」
「へっ!?」
「欲しいなら俺がいい奴紹介してやるよ。だから合コンなんかやめておけって」
「あ、あ、あの――――?」
「合コンなんて、どうせ持ち帰り狙いの軽い男しか来ないぞ。本気で彼氏が欲しいなら、知り合いの紹介の方が堅いぜ。な?」
どうやらなおくんは、私に合コンに行って欲しくないようだ。
それってつまり……琴音ちゃんに合コンの幹事をさせたくないってことだよね……。それならそれで、そう言えばいいのに。
「ねえ、琴音ちゃんを迎えに来てあげて? そうしたら、合コンなんて開かないと思うよ?」
「行かね。俺は悪くないのに、なんで俺が折れなきゃいけないんだ。謝るのは琴音の方だろ」
腕を組みながら彼氏くんはそっぽを向いた。ああもう、ほんと似たものなんだから。
「来てくれないならホントに合コン開いちゃうよ? 琴音ちゃん、行動力は抜群だから」
「俺は悪くない、俺を信用しないあいつが悪いんだ……っ!」
「どっちが悪いとかじゃなくてさあ……」
「もういい。お前なんかに声をかけた俺が馬鹿だった。もう知らねっ!」
吐き捨てるように言いながら、彼氏くんが去って行った。
やれやれと肩を落とす。2人が仲直りするには、まだまだ時間がかかりそうだ。
◆ ◇
なおくんと別れた後、私は1人図書館へ向かった。
テスト前でもないせいか、人は少ない。
1階にはまだ、ぽつぽつと学生がいたけれど、階を上がるにつれてそれも段々まばらになっていく。4階奥の書庫に辿り着く頃には、辺りにはもう誰もいなかった。
「ふあぁぁぁぁぁぁぁ」
分厚い本を棚から取り出して、手に取ってみる。レポートを作成するのに必要な個所を探し出そうとしたけれど、その前に盛大なあくびが一つ、口から溢れてしまった。誰もいなくてよかった。
あー、眠いな……
パラパラとページをめくりながらも、強烈な睡魔がガンガンと私を襲ってくる。ただでさえ、お腹がいっぱいになった後というのは眠たいものなのに、加えて今の私は慢性的な睡眠不足に陥っていた。
なにせ琴音ちゃんがうちにやってきて以降、私はゆっくり眠れていないのだ。朝が遅い分、彼女は夜中まで元気いっぱいに過ごしている。その上、琴音ちゃんは恐ろしく寝相が悪い。
やっぱり、マットレスと予備の毛布を買うべきか……
半分夢の中にいた私は、背後に誰かが近寄っていた事に気付いていなかった。うつらうつらとしていると、私を囲うようにして、頭の両横に腕が伸びてきた。
「よお」
ええと、これなんて言うんだっけ……壁ドン?
ううん壁じゃなくて本棚だから……棚ドンになるのかな?
よっぽど今の私は眠いのか、この状況にも関わらず頭がまともに反応していない。呑気なことばかり考えてしまうのは、呼ばれた声に聴き覚えがあるのも原因だと思う。
ゆっくりと真上を向くと、思った通りの人が綺麗な顔を覗かせていた。
「麟くん……ここ学校だよ……?」
「誰もいないからいいだろ」
確かに誰もいない。それに、私たちが今いる場所は階段付近からは死角となるので、すぐさま誰かに見つかる事もない。仮に見つかったとしても、図書館で偶然居合わせただけだと普通は思うだろう。けれど……
どうしてだろう。学校で彼が私の側に来るなんて、今までなかったのに。
「苺は。そんなに彼氏が欲しかったのか?」
ゆっくりと問いかけるような彼の声に、ただならぬ冷気を感じてまじまじと顔を見返した。
気のせいかな。麟くんの表情が、どことなく苛立っているように見える。
「へっ? も…もしかして麟くん、さっきの食堂での話、聞いてたの……?」
「あんなに大きな声出しといて、聞かれていないとでも思っていたのか」
その大きな声は、私じゃなくて琴音ちゃんです。
「―――で、なに? 俺とは絶対付き合えないって言っといて、合コンってなんだよ」
冷ややかだと感じていた彼の声が、今や氷点下にまで下がっている。
なぜだか分からないけれど、麟くん……機嫌悪くない?
「それは、琴音ちゃんが……」
「彼氏が欲しいなら俺でいいじゃねーか」
麟くんが、私をじっと睨みつけてくる。彼の黒い双眸は、冷気を帯びているようで、それだけでもない色をして。
氷塊の奥で炎が燻っているような――……冷ややかな眼差しの中に含まれている一点の熱を感じ取り、私の喉がごくりと音を鳴らした。
なに言ってんの……麟くんじゃダメじゃない。
だって麟くんの言う彼氏は、本物の彼氏じゃないでしょ。
彼氏のフリでしょ?
私は麟くんの期待に応えたいの。あなたの友達で居続けたいの。友達だからドキドキなんてしたくないし、動揺だってしたくない。だって友達にそんなのおかしいよね……。
でも麟くんは、王子様のようにかっこいい人だから。イジワルだけどほんとは優しい人だから。こんな風に、友達の範囲を越えて近付かれちゃ……不覚にも胸が揺らいでしまうから……。
だから。
付き合ってるフリなんてしちゃ、ダメなんだ。
「ダメなんだよ……」
あーなんか、頭がグラグラしてくる……。
私は麟くんを見上げるのを止めて前を向いた。本の続きを見ようとして視線を手元に向けると、背後の彼が突然私を抱きしめてきた。
ピクリと指先が跳ねる。支えを失った本がポロリと床に落ち、鈍い音を立てた。
「なあ苺。お前は、俺と付き合うなんて2度とごめんだと思っているかも知れないけれど……」
彼の長い腕が、私の小さな体をいとも容易く包み込む。頭上に重みを感じて、私のクルクルと跳ねる癖っ毛に、彼の顎が沈みこんでいるのが分かった。
酷いよ麟くん、こんなの反則だよ。
心臓が、バクバクと音を立ててしまうじゃないか。
隙間なく塞がれた背中から、彼の温もりが伝わってきて。私の全てが包まれているようなこの甘く痺れる感覚に、がくがくと力が抜けていきそうになる。
「もう一度……あの時のやり直しをさせてくれ……」
やり直しなんて出来ないよ。
だって私は……私は本当は麟くんのことが……
堪らなくなって目を伏せると、ドクドクと、誰のものとも分からない鼓動が聴こえてきた。一定のリズムで刻まれるそのメロディーが不思議と耳に心地よく、安らげるような感覚が、して。
ああ……麟くんの腕の中、あったかい……
「……って。このタイミングで寝るか? 普通」
彼の呆れた声も、もう私には届いていなかった。
◆ ◇
ずっとずっと好きだった。
私をからかうことが大好きな、口の悪いイジワルな王子様。チビとか馬鹿とか言っちゃうし、じろっと睨んできたりもするし、態度も荒っぽいけれど。
いつもいつも、私を助けてくれていた。
その優しさに触れるたび、どんどん好きになっていた。
でもそんなのダメだと思ってた。
麟くんは嫌がるだけだと思ってた。
何度も何度も自分の心を誤魔化して。堪えきれずに自覚した時は愕然とした。私と親しくしてくれるのは、他の子と違って彼に好意を寄せないからなのに……それなのに好きだなんて、そんなの、私もみんなと同じじゃないか。
麟くんを、がっかりさせてしまうじゃないか。
だから想いを必死で隠してた。ずっと友だちのフリをして過ごしてた。
付き合ってくれと頼まれた時も、彼女の役をするだけなのだと自分に言い聞かせていた。フリだと分かっていても嬉しいだなんて、バレないようにしなくては。
彼の期待に応えたい。私は彼の為に彼女の役を演じるだけ。私はみんなの目を誤魔化すだけの存在で、全部、全部分かっていた筈なのに……。
頼まれた翌日の朝、初めて彼と一緒に登校した。休み時間になると彼が私の席までやってきて、いつもの放課後のように2人で喋り合っていた。
たったそれだけのアピールなのに、周囲の反応は素早くて。
その日の昼休み。早速私は屋上に呼び出され、女の子達からの質問攻めに合っていた。
『苺ちゃん……まさか麟くんと付き合ってるの……?』
顰められた眉。怪訝そうな表情。わずかに怒りの籠る声と彼女たちの震える拳に、周囲を上手く騙せたのだと私は勝手に満足していた。
『浮かれちゃってみっともない。麟くんがちびっ子の苺なんかに、本気になるとでも思ってるの?』
『麟くんからすれば、年の離れた妹の子守している感覚なんだから。いい気にならないでよね』
でもそれは、私の思い上がりだった。女の子達はいつまで経っても、誰も私を麟くんの彼女として認めようとはしなかった。私という『彼女』がいてもなお、麟くんに群がろうとし続ける。
『やっぱいいわ苺。悪かった。―――もう別れよう』
役立たずの私は、結局たったの1週間で、彼からお役御免を言い渡されたのだ。
浮かれちゃって馬鹿みたい。
麟くんの隣に私が並んで。
明らかに見劣りする事くらい、少し考えればすぐに分かったはずなのに。
『だから言ったでしょ。麟くんの気紛れだって』
『たった一週間でフラれるとか、苺も可哀想にねえ』
『ていうかさ、付き合っていたって思っていたの、苺だけだったんじゃないの?』
みんなの言う通りだ。フリでも付き合えていると、彼女になれていると思っていたのは、私だけだった。
ごめんね麟くん。がっかりさせちゃったね。
私じゃ麟くんの彼女役は――――無理だったね。
もう……話しかけてもくれなくなっちゃったね。
彼女たちの言う通り、私はすっかりいい気になっていた。偽物なのに嬉しくて。フリなのに、手を握られるだけでドキドキして。他の子には冷ややかな視線しか向けない彼が、私にだけは柔らかく笑ってくれたから―――
自分が、彼にとって特別な存在のような勘違いをして。
彼のことを……好きになっても許されるんじゃないかって……幻想を抱いてしまっていたんだ。
麟くんが私に求めていたのは、そういう甘い関係じゃないのに。
あくまでも彼は、友達として私と仲良くしたいだけなのに。群がる女の子達を遠ざけたいだけなのに。
全部分かっていたはすなのに。ほんの少し、彼女のような扱いをされただけで、私は駄目になったのだ。
だからもう、彼とフリでは付き合えない。
私はまた、浮かれてしまうと思うから。今度こそ、隠し切れずに嘘がバレてしまうから。
『苺はみんなと違うだろ』
違わない。違わないんだよ麟くん。
想いを押さえきる自信なんてどこにも無くて。きっと私は、フリを続けているうちに彼にとっての特別になりたいと思ってしまうから。
麟くんの期待する『友人』の枠を、超えたくなってしまうから――――……
だから無理なの。
だからもう、付き合ってなんて言わないで。