7 埋め合わせ
どうしよう、みんなにバレてしまう。
琴音ちゃんは明るくて、賑やかで、そしてお喋りな子だ。彼と私の関係は、あっという間にみんなに知られてしまうだろう。それはまずい!
どうしよう。どうすれば誤魔化せる……?
「――――苺ちゃん、これって……?」
琴音ちゃんの呆けた視線が私に突き刺さる。憧れのアイドルを目の前にして、どうやらさすがの彼女も言葉が上手く出てこないようだ。
でも分かる。彼女の目が全てを物語っている。琴音ちゃんは私に詳しい説明を求めている。
「あの、これは……」
言葉が出てこなくって、私は助けを乞うように視線を彼へと向けた。私と目が合って、麟くんは綺麗な口元にふっと余裕の笑みを浮かべた。
「あれ、ここ侑のうちじゃないのか」
「えっ?」
しれっとした顔をして、麟くんが嘘をつきだした。
「侑……あー、葉山ってやつがこのアパートに住んでるはずなんだが……知ってる?」
端正な顔に戸惑いの表情を浮かべながら、彼が周囲をぐるりと見回した。
麟くん凄いな……演技派だね。
「り、麟くん? ははは、葉山くんの部屋はここじゃなくて、2階だよ!」
私も慌てて調子を合わせる。でも、私の演技はぎこちない上に噛み噛みだ。琴音ちゃんに怪しまれたかもしれない……
不安に思ってちらりと彼女を覗うものの、その心配は皆無のようだった。琴音ちゃんは、目の前で喋るアイドルにぽーっと見惚れてしまっている。
「そっか。サンキュ。ここ表札誰も出してないから、分かりにくいんだよなぁ」
軽く笑って見せながら、麟くんがくるりと背を向けた。琴音ちゃんは何も追及することなく、頬を染めながら黙って彼の後ろ姿を眺めている。
その後ろで、私は1人ふぅ~と長い息を吐いていた。
結局、琴音ちゃんには麟くんが訪ねる家を間違えただけなのだと誤魔化した。この言い訳を琴音ちゃんは信用しているようだった。
「び、びっくりしたぁ……! 麟さまが至近距離にいるんだもん、頭真っ白になっちゃったよ。めちゃくちゃカッコよかったね、苺ちゃん!」
「だねえ……」
「葉山くんって苺ちゃんと同じアパートに住んでるんだ、すごい偶然。あ―驚いた。わたし、麟さまが苺ちゃんに会いに来たのかと思っちゃったよ」
「そっ、そんなわけないじゃない……」
あれからすぐに宅配ピザが来て、今は2人で蜂蜜のかかったピザを食べている。琴音ちゃんはこれが好きらしく美味しそうに食べているけれど、正直私は味がしてこない。さっきの余韻がまだ頭の中に残っていて……
「ねえ、琴音ちゃん。さっきのことだけど、みんなには内緒にしてくれる?」
「え、なんで?」
「もし、もしもだけどさ。みんなが押し掛けてきたら大変なことになっちゃうし……。騒ぎを起こすと家主さんに睨まれちゃうから困るんだよね」
「んー分かった分かった。苺ちゃんにはしばらくお世話になるしね、黙っとくよ」
「ありがとう!」
みんながここに来たら、さすがに隠し切れないよ……
ピザをかじりながら、ふっとさっきの麟くんを思い出す。
最初は、怒らせたと思った。
次に、落胆させたのだと思った。
でも違った。
「―――苺ちゃん? どうしたの、ボーっとして」
「……え? ううん、なんでもない……」
……気のせいかな。
『友達にすら俺を会わせたくない?』
悪いのは私の方なのに。
まるで麟くんの方が。
私に謝罪しているかのようだった。
◆ ◇
「琴音ちゃん、まだ起きてるの?」
「あ~苺ちゃん、先寝てて! わたしこの番組見てから寝るから!」
琴音ちゃん、それ深夜番組……。
「分かった。先に寝るね」
電気付いたままだから、明るくて寝辛いけど……。
「苺ちゃん寝るの早いねー! わたしいつも2時過ぎまで起きてるから、まだ眠くないんだよね~」
だって明日、1限から授業だよ!?
琴音ちゃんもだよね?
ってそういえば、1限の授業で琴音ちゃんを見かけたことがなかったな……。
「あー、今日も面白かったぁ! ふぁぁぁぁぁ~、ねっむーい!」
琴音ちゃん、独り言結構激しいね。
一応、私寝てるんだけど……。全然眠れてないけど。
「ん~、なおのバカぁ~! 許さないんだからぁ……」
琴音ちゃん、寝言も激しいんだね。
……あ、キックが飛んできた。私、なおくんじゃないってば……
結局、琴音ちゃんに蹴り出された私は、ベッドから転がり落ちてそのまま床で一夜を明かした。
身体が痛い……そして、あんまり眠れた気がしない……。
琴音ちゃんはベッドの真ん中ですやすやと眠っている。一応起こしてみたけれど、まったく起きる気配はない。仕方がないのでテーブルの上に、メモと予備の鍵を置いて登校した。
◆ ◇
「苺。昨日のアレはなんなんだ?」
放課後、アパートに辿り着くと麟くんがすでに待ち構えていた。
「ごめんね。友達がうちに泊まりに来てるの」
「日曜は暇つってたのに?」
「昨日の朝、突然やってきたんだよ。同棲中の彼氏と喧嘩中で……仲直りするまでうちに泊まりこむつもりなんだって」
「マジかよ……」
「ごめん。見つかるとマズイし、麟くんはしばらくここに来ない方がいいと思う」
琴音ちゃんは神出鬼没だ。
気分次第で直前に講義をサボることだってザラだし、バイトも決まった曜日の決まった時間などではなく、いつもランダムで入っている。いつ部屋にいるのか、全く読めない子なのだ。
申し訳なく思いながらそろそろと見上げると、切なげに寄せられた眉に目がいった。麟くんの瞳が、昨日と同じような揺れ方をしている。
「俺と一緒にいるところ、そんなに知られたくない?」
「――――え」
「やっぱり……怖いのか……?」
怖い……?
知られるとマズイのは……
女の子に囲まれて怖いのは、麟くんの方なんじゃあ……
「―――分かった。しばらく来ないから安心しろ」
長い睫毛が伏せられて。彼を纏う空気に、仄かに悲哀の色が立ち籠る。
その様子にざわざわと胸を騒がせていると、麟くんが再び顔をこちらに向け―――
にっと意地悪く笑った。
「昨日の埋め合わせをしてくれるのなら……な」
とっさに半歩後ずさる。この顔は絶対に良からぬ事を考えている。
「う……埋め合わせって何をすれば……」
「そうだな、キスでもしてもらおうかな」
………………え?
麟くん……今、なんて?
き、ききき、キスって聞こえた気がする……
「俺は鬼じゃないからな、頬で許してやるよ」
いや、鬼だ。ニヤリと愉しそうに笑いながら、麟くんが右の頬を突き出してきた。
ちょっと待って。これ、一体なんの冗談っ……!?
「ええ、本気なの!? 本気で、その……」
「ほら、屈んでやるから早くしろよ。友達にバレたくないんだろ?」
「もう……麟くんのイジワル……っ!」
にやにやしちゃって……絶対面白がってるし!
麟くんが長い身体を折り曲げて、新雪のような白い頬を私の目の前に近づけてくる。肌のキメ、細かいな……毛穴が見あたらない……って、そうじゃない。
え? ほんとに?
ほんとに今からキスしなきゃいけないの?
うそ…………
すぐにでも帰って欲しいのに、麟くんは頬を差し出したまま微動だにしない。本当にキスをするまで動かなさそうだ。
ううう……これは、覚悟を決めるしかないのか……
ごくりと喉を鳴らした。
そろそろと、唇を彼の頬へと近づける。作り物のように綺麗な顔をした彼は、温度を感じさせない姿をしているけれど。
ギリギリまで近づいて。やっぱり彼は、生きているのだと思った。麟くんの綺麗な肌からは温もりらしきものが滲んでいる。
ゆっくりゆっくり近づいて。
あと数ミリ……というところで、耐え切れなくなってバッと顔を逸らした。
や、や、やっぱり無理だぁ!!
「なにやってんだよ」
「だ、だって……だって……!」
ねえ麟くん。こんな難易度の高い罰ゲームは止めようよ。
もっと何か別の……手頃な埋め合わせ、ないの!?
プルプルと拳を握りしめながらぎゅっと目をつぶっていたら、私の肩に彼の冷ややかな手が触れて。ほんの少しだけ籠められた力で彼の近くに引き寄せられて、心臓が息を詰めたその瞬間――――頬に、何かがそっと触れてった。
ほんのり温かくて、……柔らかい。
「おっせーよ」
彼にしては薄っすらと照れたようにも感じられる声が聞こえてきて。今どんな表情をしているのかとても気になったけれど、それ以上に私の方が照れくさくて目が開けられない。
そのまま固まっていると、頭にポンと手のひらが被さってきた。荒っぽい手はぐしゃぐしゃと無造作に私の頭を掻き回してから、「じゃあな」と言ってその場を立ち去った。
頬が、たまらなく熱い。
――――マズイな。
どうしようもなく、ドキドキしてしまっている…………。