6 突然の来訪者
―――――え、まさかもう来たの?
日曜の朝、午前8時30分。チャイムの音がして、私は目を覚ました。
早い。いくらなんでも早すぎる。
そりゃ授業のある日はもう教室にいるような時間なんだけど……休日は話が別だよね。
せっかくのお休みなんだもん、いつまでもベッドでだらだらしていたい。寒い時期ならなおさらだ。8時半なんて、まだまだ布団にくるまって幸せを堪能していたいのに。
「ごめんね、私まだパジャマなの。急いで着替えるからちょっと待って!」
扉を数センチだけ開けて、隙間から外を覗く。
そこに立っていたのは、背の高い彼ではなくて小柄な女の子だった。
「琴音ちゃん?」
「あーゴメンね苺ちゃん。まだ寝てたよね」
「どうしたの、凄い荷物だけど。とりあえず中入って」
麟くんだと思っていたら、違った。
琴音ちゃんだ。肩までの髪に緩いパーマを当てた、明るくてパワフルな女の子。彼女は仲の良い友達グループの1人で、私と同じくこの近辺で1人暮らしをしている。
確か、同じ大学に彼氏がいて……同棲してるって言ってなかったっけ……
琴音ちゃんは大きなキャリーカートを引きずりながら、肩からカバンを3つも下げていた。そのうちの1つは収納力抜群のボストンバッグだ。よく見るとリュックも背負っている。
なんだこの荷物は。まるで、夜逃げのようじゃないか。
まさか。まさか……。
「ありがとっ! もう、クタクタだよ~!」
部屋の奥に荷物を全部置いてから、琴音ちゃんが私のベッドの上にぼすんと音を立てて座った。
「ねえねえ苺ちゃん。お願いがあるんだけど、しばらくここに泊めてくれない?」
「えっ!?」
「ちょっと、彼氏と喧嘩しちゃってさぁ……顔合わせたくないんだよね」
……ほんとうに夜逃げだった。正確には朝逃げか。
「うち、予備の布団がないからベッドを2人で使うことになっちゃうよ?」
「いいよいいよー! サンキュー苺ちゃん、助かるっ!」
無邪気に笑って、琴音ちゃんが荷物の山に近づいた。
あの、まだ返事してないんだけど……
琴音ちゃんの中では話がすっかりまとまっているようで、バッグから荷物を取り出して、お泊まりグッズを洗面所に運び込んでいる。シャンプーやリンス、コスメの入ったポーチを手にしているのが見えた。
琴音ちゃんはウキウキしながら、部屋のあちこちにお泊りグッズを並べている。ああだめ、この姿を見て断るなんて私には出来ない……。
まあいいや。
1人用のベッドだから2人で寝るには狭いけど、2人とも小柄だしいけるかな。
枕は1個しかないから……しょうがない。
ちょっとの間だけだし、なしで我慢するかぁ。
「琴音ちゃん、朝ごはんはもう食べた?」
洗面所でパジャマからきちんとした服に着替えて部屋に戻ると、彼女はベッドの上で寝転がって携帯を眺めていた。
「ううん、まだ。お腹すいちゃったぁ!」
「私もまだなの。一緒に食べよ。なにがいい?」
「ピザ! ピザ取ろうよ! わたし、蜂蜜のかかったやつ食べたい!」
「分かった、電話しておくね」
彼氏から着信が来ているか、確認してるのかな……。
「ほんっとーに、ありえないと思わない?」
鳴らない携帯をポンとテーブルの上に置き、琴音ちゃんがベッドの上でうつぶせになりながら両手をぎりぎりと握りしめている。
泊まらせることになったわけだし、事情は把握しておきたい。だから彼氏との事の経緯を私に語ってくれるのはいいけれど、そろそろ話がループの状態に入ってきた。
「わたしというものがありながら! 他の女と! 飲みに行って朝帰りとか! そういう相手じゃないだとか、相談に乗ってただけだとか、言い訳ばっかり並べてるけど要は浮気よね。それなのに謝りもせず開き直るってある? あるとおもう? ありえないよね苺ちゃんっ!」
ドンっと拳を叩きつける。ベッドの上なので思うような感触が得られず、不満気のようだ。でも、派手な音を出せばすっきりする代わりに手が痛いから、これでいいと私は思う。
話を要約すると、昨夜、琴音ちゃんの彼氏が女の子と2人で飲みに行っていたようだ。
どうやら相手は彼氏くんの幼馴染の女の子で、その子が好きな人のことで相談に乗りたいと琴音ちゃんの彼に持ち掛けてきたらしい。
うーん、それは彼氏くん、やらかしちゃったなぁ……
ちなみに、朝帰りと琴音ちゃんは言うけれど、話を聞く限りでは彼氏くんは夜中に帰ってきている。まあそれでも、そんな遅い時間まで彼氏が他の女の子と2人っていうのは嫌だろうけど。
「前々から怪しいと思っていたのよね。ただの幼馴染だなんて言うけどさ、ぜーったいにあっちはそう思ってないんだって! それなのにあいつは大事な幼馴染だからとかなんとか言っちゃって……じゃあわたしは何よ。大事な彼女じゃないのかよー!」
どうどう。琴音ちゃん、落ち着いて。
「真剣に謝ってくれるならまだしも……疑うなんて俺のこと信じられないのか、なーんて……信じて欲しけりゃ信じられるような態度を取れっつーの!」
琴音ちゃんはすっかり盛り上がってしまっている。
こりゃ駄目だ。この調子じゃしばらくは、彼氏と接触しても余計に喧嘩するだけのような気がする……
「ねえ聞いてるの、苺ちゃんっ!」
「き、聞いてるよ、聞いてる……」
ピーンポーン。
あ、天の助け。
「琴音ちゃん、ピザ来たみたい。ちょっと行ってくるね」
琴音ちゃん、悪い子じゃないんだけれど、パワーがすごくて疲れちゃうんだよね……。マシンガンのように繰り出される愚痴から束の間解放されて、ホッとした気持ちで玄関に向かった。
「はーい、おいくらですか……」
ガチャリと扉を開けると、そこに立っていたのは天の助けなどではなく、黒髪の美青年だった。
わわわ、麟くんだ!
そういえば麟くんと約束してるんだった。すっかり忘れてた……
「なんだ、金くれんの?」
「ちち、ちがう、間違えて……」
「朝っぱらから集金なんて来るのか? お前んとこは。まあいいや、入らせて」
「だ、だめ、今は無理……」
「はぁ?」
家の中には琴音ちゃんがいる。
このままだと、麟くんと鉢合わせしちゃうよ!
心臓がバクバクと音を立てている。扉の隙間からするりと抜けだすように外に出て、声が中に漏れないよう、後ろ手でバタンと扉を閉めた。
「……どうした。何かあったのか?」
「い、今ね、友達が来てるの……。もう少ししたら帰ってもらうから、ちょっとだけその辺で待っててもらえる……?」
友達グループの中には、1人暮らしをしている子が私の他にも数人いる。これからバイトに行くフリでもして、琴音ちゃんには夕方まで他の子の家に遊びに行ってもらおう。
ああでも、琴音ちゃんはピザを食べるまで出て行かないよね。それはそれで麟くんをかなり待たせることになっちゃうな……。
思案していると、麟くんの眉がふっと寄せられた。
「……友達にすら俺を会わせたくない?」
「……え……」
がらりと変わった彼の空気に、思わず息を飲んだ。私を捉える黒の双眸が、何かを言いたげに揺らいでいる。
それは怒っているようで、微妙にそれとも違っていて……
――麟くん?
揺れたように感じた彼の瞳は、覗き込むとすぐにいつものポーカーフェイスに戻っていた。
「―――分かった。いいよ、今日はもう帰る」
「でも……せっかく来てくれたのに……」
「そうだな、せっかくだし侑んちにでも行こうかな」
そういえば、葉山くんはこのアパートの2階に住んでいるんだった。
申し訳ないけれど、葉山くんと過ごしてくれるのなら助かる……
琴音ちゃん、出て行ってくれるかどうかわからないし。
「ごめん、ほんっとーにごめん! 今度埋め合わせするから!」
「埋め合わせって……なにしてくれんの?」
「なにって……」
言い淀んでいると、閉めたはずの扉が派手に開いた。
「苺ちゃん、ピザまだぁ……?」
こ、琴音ちゃん………!!!
「って、あれ、麟さま!?」
ぴしりと固まる私と、涼しい顔をしたままの麟くんを、琴音ちゃんが交互に見比べて目を見開いている。さすがの彼女もとっさに声が出ないらしく、口をパクパクさせている。
どうしよう。琴音ちゃんに見つかってしまった……。