4 相変わらずの私たち
―――あ、ほんとに来た。
その日の放課後、チャイムの鳴る音がして。扉を開けると麟くんが、家の前に立っていた。
呆ける私と目が合って、横一文字だった彼の口角がほんの少しだけ持ち上がる。どうやら今は機嫌がいいようだ。
「あ、麟くん。玄関までで良ければ上がって」
「――――は?」
「ええと違うの、部屋に入るなって意味じゃなくて、今ちょっと入れない状態で……」
わわわ、眉間にしわが寄っちゃった!
おかしな誤解をしたようで、麟くんのご機嫌が、一転して斜めに転がってしまった。詳しく説明するより見せた方が早い。私は彼の腕を引き、扉の中に引き入れた。
「……なんだ、これは」
「紙だよ」
「そんなの見りゃわかる。そうじゃなくて、なんで紙が部屋中に散乱してんだよ」
麟くんが訝しむのも無理はない。只今ワンルームの部屋中に、B5サイズのコピー用紙が所狭しと並べられているからだ。
「これ昼間にコピーした紙なんだけど、順番が滅茶苦茶になっててさ」
「まあ、清々しいほど盛大にぶちまけてたからな」
「というか、ページの順番どころか、6冊分のノートのコピーが入り乱れている上に、ところどころ表裏や上下すら逆さになっていて、それはもうひどい状態なんだよね」
「―――ちょっと待て。6冊分ってなんだ」
「いくらなんでもこのままみんなに渡すわけにもいかないと思って、並び替える作業をしていたところなの。ただ場所が足りなくて、今ちょっと足の踏み場がない状態に……」
なぜだろう。話せば話すほど、麟くんの目が薄くなっていくんだけど……。
切れ長の黒い瞳が、約半分のサイズにまで減ってしまった。彼は今、非常に分かりやすく呆れている。苛立たし気に髪をかき上げながら、麟くんがわざとらしく溜め息をついた。
「……………はぁ、ほんっと苺は変わんねーな」
麟くんが身体を屈めて腕を伸ばした。黒い髪がさらりと下方に垂れ下がる。
「全部一度に並べてどうするんだよ。そんなの、場所が幾らあっても足りる訳ないだろ。まずはノートの種類に分けて、ページ順に並べるのはそれからにしろよ」
「…………」
―――麟くんも、変わらないね。
彼の綺麗な指先が、床に並べてある紙に触れた。靴を無造作に脱ぎ、部屋の中にその長い足を踏み入れては、床に置いてある紙を次々と拾い上げていく。
私はなぜか、時が止まったように動けずに。その光景に、ぼうっと見惚れてしまっていた。
「おい、聞いてるのか?」
「は、はいっ」
「ぼーっとしてんじゃねーぞ。いいか、ノートごとに分けるのは苺がやれよ。並び替えは原本見ながら俺も手伝うから」
「麟くん、ありがとう……」
「……ったく、さっさと終わらせるぞ。こんの馬鹿イチゴ」
私の頭にポンと重みのかかる感触がした。麟くんの手だ。ひんやりしている手のひらなのに、不思議と心が温かくなっていく。
意地悪なようでいて優しい、この手が。
記憶よりもほんの少しだけ大きくなった手のひらが、懐かしくて私はそっと目を伏せた。
ほんと変らないよ麟くん。
馬鹿イチゴ、とぶつくさ文句を言いながらも、私を助けてくれるとこ。
……ほんと昔のまんまだよ。
◆ ◇
麟くんと初めて言葉を交わしたのは、中学2年の秋だった。
今でもはっきりと覚えている。最初にかけられた声は「馬鹿」だった。
その日はクラスの女子に頼まれて、日直の仕事を引き受けていた。放課後に大事な用があるとかで、帰る間際に代わって欲しいと声を掛けられたのだ。
彼女とは特別仲が良いわけじゃない。だけど彼女に限らず、こうしてクラスメイトからものを頼まれることは私にとって日常茶飯事だったりする。なんでも気軽に引き受けてしまうせいか、先生から雑用を頼まれることも多かった。
頼みごとをされるのは嫌じゃない。大変なことも多いけれど、私でも力になれるのだと思うと嬉しくなってくる。笑顔でありがとうと言われると、もっと嬉しくなってくる。私はたぶん、単純なんだと思う。
「いいよ、代わりにやっとくよ」
「ほんと? ありがとー苺ちゃん! 助かるわぁ!」
日直の放課後のお仕事は、日誌を書くこと。黒板を綺麗にして、日付を明日のものに書き換えること。みんなが帰った後の教室で、机を綺麗に並べること。
たいしたことをする訳でもないのに、笑顔でお礼を言われて、私もにこやかな気持ちになってくる。
日誌を書いているうちに、1人、また1人とクラスメイト達が教室を去っていく。書き終えた頃には私1人になっていた。
誰もいないがらんとした教室が、なぜだか私は好きだった。だから最後の1人になれる日直は、私にとって嫌な仕事ではなかったりする。お気に入りのメロディを口ずさみながら、机や椅子を並べていると、突然ガラリと扉の開く音がした。
振り向くと、1人の男子生徒が教室の入り口に立っていた。なぜかむっつりした顔で、私をじっと睨んでいる。冷ややかなオーラを放ちながら、困惑する私の側までつかつかと彼がやってきた。
「何やってんだよ、お前。馬鹿だろ」
「えっ?」
「なんで日直の仕事やってんだよ。今日の当番は、お前じゃねーだろ?」
「あ……クラスの女子に頼まれたから」
黒い髪に、高い背丈。どことなく冷たげな表情。桁外れに整った顔をしている彼は、女の子たちにいつも騒がれている同じクラスの確か……ええと、
「麟くん」
はっとして、思わず口を塞ぐ。親しくもないのに下の名前で呼んじゃったよ……。だってみんながそう呼んでいるから……
とっさに、苗字が出てこなかったのだ。
「ごめんなさい、みんなそう呼んでるから……ええと苗字……なんだっけ?」
「いい」
焦ると余計に出てこない。同じクラスになって半年も経つクラスメイトの癖に名前を尋ねるという失礼な私を見て、彼がなぜかふっと笑みを漏らした。
「麟でいいよ」
後で聞けば、どうやらその日の日直は麟くんだったようで。
彼にいい顔をしたかった女の子が強引に仕事を引き受けて、それを私に頼んできたらしい。帰り道、日直で遅くなるはずの彼女の姿を見かけて、おかしいと思って引き返したら、私が教室にいたというわけた。
麟くんには、なんで気付かなかったんだと怒られてしまった。
日直の仕事は放課後だけじゃない。合間の黒板消しに、号令に……それを今日は誰がしていたのかって言われたら、確かにそれはあの女の子じゃなくて……
そういえばそうだった……と笑って言ったら、今度は呆れられてしまった。
それから、麟くんは私に話しかけてくるようになった。
◆ ◇
「やったぁ、終わった――!!」
最後の1セット、完成っ!
麟くんと2人がかりで黙々と仕分け続けて、今ようやく7人分のノートのコピーが完成した。開放感と満足感でいっぱいだ。仕上げのホッチキスを止め終えた瞬間、私は両手を広げてバンザイのポーズを取って、喜びの声を高らかにあげてしまった。
「おま、小学生かよ」
肩を震わせながら、麟くんがクククと声を漏らしている。失礼な。中学生とはよく言われるけれど、さすがに小学生はありえない。むっと睨むと、もっと笑われてしまった。
なにが面白いのか、今日の麟くんはよく笑っている。
気が抜けると今度はお腹が空いてきた。夢中で作業をしていたけれど、今、何時だろう。そういえば麟くんにお茶すら出してなかったな……
ふっとベランダの方を向いて、ぎょっとした。
いつの間にか外が真っ暗になっている。
「ええ、もうこんな時間!? ごめんね麟くん、すっかり遅くなっちゃった」
「今の時期は日が落ちるのが早いからな、まだ大した時間じゃねーよ」
「それでももう7時過ぎてるよ……! こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね、私全然時計見てな……痛っ!」
私の頬を、麟くんが指でピンと弾いた。
「うるせーな、謝んなよ。謝られたくてやってんじゃねーんだから」
むっつりした顔をして、麟くんがふいと横を向く。
弾かれた頬に、そっと手を当てた。
そうだよね。ありがとうだよね。
私だってそうだもん。この紙束を明日みんなに渡したとして、言われて嬉しいのは絶対に『ごめんね』なんかじゃない。
「手伝ってくれて、ありがとう」
麟くんの、服の裾を軽く引っ張った。
「麟くんが助けてくれなかったら、朝になっても終わらなかったと思う。おかげで今夜はゆっくり眠れそうだよ」
私の方を向いてくれたから、感謝の気持ちを込めて笑顔でお返ししよう。そう思ったものの、照れくささが入り混じってしまって、へらりとした笑顔になってしまった。
やだ、微妙な顔になっちゃった。にっこりと笑うつもりだったのに……!
麟くんは、やっぱり愛想のない顔をしている。でも……口元がほんの少しだけ綻んだように見えたのは私の気のせいじゃないはず……。
「じゃ、俺は帰る」
「あ、待って! 時間も時間だし、麟くんもお腹空いたでしょ。夕飯ご馳走するよ」
「なんか作ってくれんの?」
「うんうん、作っちゃう。こう見えても私、料理には結構自信があるんだよね。手伝ってくれたお礼に、今日はこのシェフ・苺が腕によりをかけて……ってどうしよう、こんな日に限って冷蔵庫がスカスカだぁ……!」
「腕によりをかけたお茶漬けでも食わせてくれるのか?」
「それお礼どころか恩を仇で返している気が……! うーん、デリバリーでも頼もうかな。あ、焼きそばならある。これでもいい?」
またなにか、イジワルなことでも言われるかな……と思っていたけれど。
意外にも。目をふっと細めて、彼が緩やかに微笑んだ。
「いいよ、好きだから」
―――焼きそば、大好物なんだ。知らなかったな。
3玉100円の安い焼きそばだったけど、嬉しそうに彼は食べてくれていた。