37 苺とイジワルな王子様
耳元で、低い低い声がする。
「勝手なこと言ってんじゃねーよ……」
目の前にあるのは、麟くんの、黒のセーター。呻くような呟きを耳にしながら、私はなぜか彼の腕の中にいた。
「怒ってる、の?」
「当然だろ……」
そうだよね……。
あんなことをしておいて、今更付き合って欲しいだなんて。麟くんからすれば勝手すぎるお願いだよね。
そのくらい分かっていた。
勢いでつい、付き合ってなんて言ったけど、彼の中にわだかまりが残っていることくらい私にも予測できている。簡単に許してもらえるなんて思っていない。だから脳が追い付かない。今の私の状態が、ちっとも理解できなくて……
――どうして私は、麟くんに抱きしめられているんだろう。
「なにがごめんなさいだ。なにが付き合ってだ。こんの馬鹿イチゴが」
「ごめ」
「適当に謝るなよ。何が悪いのか全然分かってないだろ、お前は、」
「麟くん、あの、」
「俺の気持ちも、全然分かってないだろ……っ」
私を抱く腕に力がこもる。怒っていると言うくせに、やっていることが、ちぐはぐで……
耳たぶを掠める彼の熱が、くすぐったいと感じた。
「お前、嫌だったんだろ? 頼まれて、断り切れなかったんだろ? それなのにどうして俺に言わなかった。どうして、俺を頼ろうとしなかったんだ。俺を頼れよ。そう言ったはずだぞ?」
「あ……」
――――麟くんは、本当に。
涙が出そうなほど優しくて。ふかふかのセーターに眦をこすりつける。
「お前、俺が好きなんだろ? 大好きなんだろ?」
「うん。……うん」
「だったらもう2度と一人で抱え込むなよ」
「しない……絶対しない……」
温かな黒のセーターにしがみつきながら、こくこくと頷いていると、麟くんが私の髪をくしゃくしゃと掻き乱した。
「ほんと、一人で勝手に色々悩みやがって。付き合ってとか、いつの間に別れたことになってんだよ。俺は別れ話なんてしたつもりねえっての」
「え……」
はっとして見上げた。
じゃあ私、麟くんと付き合ってたんだ。
麟くんとの関係は、あの日確実に破綻したと思っていたのに。
私は、今でも彼女のままだったんだ……
呆けながら彼を見続けていると、麟くんがむっつりと眉を寄せた。
「俺はあの日、振られていたのか?」
「ううんっ! そんなつもりじゃ! 振るなんて滅相もないです。か、彼女のままでいたいです」
「そうか。彼女のままでいたいか」
両手を組みながら、首をぶんぶんと上下に振る。
「まあでも。俺はお前に酷く傷つけられた訳だしな。どうしても付き合い続けたいっていうなら、条件を飲んでもらおうか」
「――う、うん! 飲む、飲みます」
条件? なんだろう。
なんにせよ、彼女でいたいなら受け入れるしかない。
大丈夫。麟くんは優しいから、無茶なことは言わないはず!
「いいか。今度から少しでも困った事があれば、すぐに俺を頼ること」
「うん、ちゃんと頼るようにする」
こくりと頷く。
ほら、やっぱり麟くんは優しい。
やっと分かったの。
なんでも気軽に引き受けちゃいけないってこと。大事なものは、頼まれても譲っちゃいけないってこと。
それでもこんな私だから。時には、断り切れない場面もあるかもしれない。私一人じゃどうにもならなくて、悩むこともあるかもしれない。
でも今度は、ちゃんと麟くんを頼るから。
困った時には、なんでも相談するから。
とびきり優しい、私の素敵な王子様に。
「時間が合う日は、門のところで待ち合わせをして一緒に帰ること」
「うん、一緒に帰ろうね」
懐かしいね。
一週間だけ彼女のフリをしてた時、麟くんは毎日私の家まで迎えに来てくれたよね。帰りも送ってくれたよね。
もう誰にも隠さないから。
また、一緒に登下校しよう? 今度は、一週間なんて言わずに。ずっと、ずっと。
「たまには、一緒に昼飯昼食おーぜ。お前の友達も一緒でいいからさ」
「うん、食べよ」
葉山くんも一緒に。みんなで、賑やかに食べるのもいいかもね。
私が作ったお弁当で良ければ。麟くんの分も、用意しておくからね。
「ああでも、俺の誕生日と苺の誕生日は2人きりで過ごすからな! 絶対に友達呼ぶんじゃねーぞ」
「うん、分かってる」
もうしない。二度としない。
それに私だって……記念日は2人きりで過ごしたいもん。
「これからは、友達に誘われても合コンなんてついて行かないこと」
「うん。もちろんだよ」
「苺の愛を俺が疑わずに済むように、1日1回、苺から俺にキスをすること」
「うん。分かっ――――……ん?」
顔を上げると、麟くんがニヤリと楽しそうに笑っている。
ああ、忘れてた。
麟くんは優しいけれど……イジワル王子なんだった……
「じゃあ早速、今日の分。今ここで……やれるよな?」
え……えええええええ!!!
麟くんから勢いよく身を離す。ぐるりと辺りを見回すと、大勢のギャラリーが固唾を飲んで私たちを見守っている。
ちょっと麟くん、みんなが私たちに注目してるんだけど!
こんな中でキスなんて無理だよ無理。
ああでも。キスしないと彼女でいられない……
「ちょっと!? 麟クンに変なこと仕出かさないでくれる?」
相良さんが真っ赤な顔で私に詰め寄ろうとしたけれど、状況を察した琴音ちゃんが、後ろから彼女を羽交い絞めにした。
「やだやだ琴ちゃん、今すぐ離して! あたしには、麟クンをあのちび子の魔の手から救い出すという崇高な使命があるの!」
「苺ちゃーん! 相良っちはわたしが押さえておくから、ほら早く! 今のうちにやっちゃいなよ~♪」
え……っと。
「やっぱり苺ちゃんてば麟さまと付き合ってたんだね。もう! どーして言ってくれなかったのよ!」
「そうそう。そんな大事なこと、黙ってちゃダメでしょ」
「罰として、公開ちゅーの刑だからね!」
あ、あの……
「わたしもほんのちょっとだけど、頑張ったら幸せになれたのよ。苺ちゃんも頑張って!」
えみりちゃんが琴音ちゃんに加勢して、暴れる相良さんを押さえ込んでいる。
「え、えと、えと……」
なんか、みんな麟くんの味方だし……!
これはもう、キスをするしかないのだろうか。
視線をうろうろと彷徨わせてから、恐る恐る麟くんに向き直る。彼が満足そうに微笑んで、左の頬を私の目の前に突き出してきた。
「ほら、早くしろよ。今日は、俺から助けてやらないからな?」
そう言って目を閉じる。
……そういえば、前にもこんな場面があったなぁ。
あの時はどうしても自分からキスが出来なくて。ギリギリで、顔を逸らしちゃったっけ。
遅いと詰られてキスされて。頬に触れた感触に、どうしようもなくドキドキさせられたっけ。いつもいつもそう、私は麟くんに敵わないの。今、目の前にいる彼も、目を伏せながら余裕たっぷりに口角を上げている。その余裕がちょっぴり憎らしくて、反発する気持ちがむくむくと沸き起こってきた。
ようし。
今度は、私がドキドキさせてやる……
覚悟を決め、周囲の視線を意識からシャットアウトして、私はじりじりと彼に顔を近づけた。私を困らせてばかりのイジワルなひと。伏せられた睫毛は長くて、まるで本物の王子様みたい。
唇をそっと寄せていく。作り物のような綺麗なカーブを描く頬をそのまま素通りし、その先にある艶やかな彼の唇に、掠めるように、音もなく軽く私のものを触れさせる。
麟くんが、驚いたように目を見開いた。
白い頬がほんのり桜色に染まっている。
やった!
得意げな心地になって、ニヤリと笑い返そうとしたけれど、それよりも素早く大きな手のひらに後頭部を抱え込まれてしまった。逃げられなくなった私に、麟くんの顔が覆い被さってくる。
ちょっと待って、麟くん。
「やだ苺ちゃん、大胆……」
分かっていると思うけど……これみんなに見られているんだよ……っ!
もがく私を押さえ込むように、もう片方の腕が私の身体を捕まえた。苦しい。羞恥心と、隙間なく触れ合った唇の熱さに、心臓が壊れそうなほど音を立てている。
ああもう。今度こそ私の番だと思ったのに!
……ほんっと、麟くんには勝てないな。
今日もまた、とんでもなく反則な彼に、私だけがドキドキさせられるのだった。
◆ ◇
激しい刑罰を終えた後、息も絶え絶えになった私と周囲のギャラリーに向かって、麟くんは改めて好きだと宣言してくれた。
それを見て、相良さんは盛大に崩れ落ち、嘆きながらも麟くんを諦めてくれた。
曰く。
「麟クンの好きな女の子って、この子のことだったの? 男の次はちびっこ子を好きになるだなんて、ひどい。ひどすぎるわ。あたしは18歳なのよ? 小学生がいいなんて言われたって、時間は巻き戻せないじゃない……」
あの、私も大学生なんだけど……。
腹が立ったけど、大人しく諦めてくれそうだったので、あえて訂正しないでおいた。琴音ちゃんも、他のみんなも、空気を読んで突っ込まないでいてくれた。ありがとう、みんな。助かるよ、みんな。悔しいけれど、今だけ私は小学生。ランドセルは絶対に背負わないけれど。
クリスマスイブの件は、拍子抜けするほどあっさりと許してもらえた。
麟くんと同じで、みんなも私が黙っていたことが不満だったらしく、嫌なことは断るようにと、しっかり約束させられた。
「麟さまの件はわたしたちもテンションあがりすぎて悪かったけどさ、苺ちゃんも悪いんだよ?」
「そうそう。あたしたちも苺ちゃんに無理強いなんてしたくないの。嫌なら嫌って、ちゃんと言ってくれる方が嬉しいんだからね?」
「しっかし……やっぱり麟様、苺ちゃんが好きだったのか……」
「すっごい見せつけられちゃったね」
クリスマスイブの日、逃げ出した私たちに驚いた4人は、その場でグループのみんなにメッセージを飛ばしていたらしい。そしてみんなの間では、麟くんが私のことを好きなんじゃないかという事で話がまとまっていたという。
2限のあと、みんなが私の周りに押し寄せたのは、私を責めるため……などではなく、単純に私と麟くんの恋バナが聞きたかったからだとか。
もう、ほんとにミーハーなんだから。あの後、洗いざらい喋らされちゃった。
そして放課後。
今日はさっそく、麟くんと門のところで待ち合わせをして、一緒に私のアパートに向かっている。
自転車を押しながら、長い影が2つ並んで伸びているのを、私はくすぐったい気持ちで眺めていた。
「お前の友達、みんないい奴らばかりだな」
「うん」
本当のことを打ち明けると、みんなとの関係が崩れてしまうと思っていた。
でも。全部杞憂だったのだ。
麟くんも。みんなも。あんずやこももたちも。私が本音を言ったって、どうってことはなかった。ううん、きっと。私の周りにいる人は、そんな人の方が圧倒的に多かったのだ。私が怖がっていただけで……
まもるくんも岩田くんも、すぐに分かってくれたしね。
勿論分かってくれる人ばかりではなくて。頼みごとを断ると、嫌な顔をする人もいるかもしれない。がっかりされて、私は心が苦しくなるかもしれない。けれど……
「ん? どうした、俺の顔をジッと見て。あまりにもカッコいいからって、見惚れてんのか?」
「……うん。見惚れてた」
私もちゃんと、私の大事なものを守らないといけないから。
出来ることは出来る、出来ないことは出来ない。そう、はっきり伝えらえるように、これから頑張っていきたいな。
私を見守ってくれる麟くんの為にも――……ね。
にっこりと微笑むと、麟くんが少し照れくさそうに横を向いた。
「あ――……、苺には悪いが、近いうちに俺との噂が学内で広まると思う」
「だろうねえ。門のところで私たちが一緒にいるところ、女の子たちにガン見されたもん」
講義を終えて待ち合わせの場所に向かうと、門のところで佇む超絶美男子に周囲の視線が既にくぎ付けとなっていた。そこに私がのこのこ現れたのだ。そりゃあもう……黄色い悲鳴が凄かった……
ハンドルを握る私の手に、麟くんの手が覆いかぶさって。
「安心しろ。今度こそ俺が苺を守るから」
キュッと力がこもる。
物語の王子様のような、カッコいいセリフにと仕草にドキリとした。
でも……
「麟くん。今度こそ守るって……何のこと?」
「――――は?」
こういうセリフ、お話にはよく出てくるよね。ほら、ヒロインを助けられなくて怪我をさせた過去があったりなんかして、数年後にヒーローが言うの。今度こそ俺が守る――…って。
でも私、怪我なんてしたことないし。
守ってもらえなくて酷い目にあった過去なんて、ないと思うんだけど?
「私がどんくさいってこと? 守るとか嬉しいけど、ちょっと大げさだなぁ……」
意図がよく飲み込めなくて、首を傾げていると、麟くんが信じられないものを見るような目つきで私を見た。
「おま……中学の頃、俺と付き合ってるからって苛められてただろ……?」
「そんなことあったっけ?」
「はぁぁぁぁぁぁあああ?」
あれ、なんでそんなに驚くの?
確かに、麟くんと付き合うフリはしてたけど。だからって、苛めなんてなかったような?
「女子に呼び出されたり、嫌がらせされてただろっ!」
「嫌がらせなんてされてないよー。呼び出しはあったけど、忠告を受けたくらいだよ?」
「ああそうか……上靴も教科書も俺がこっそりどうにかしたし、傘の件は悪意を感じてなかったか……」
ブツブツと呟く麟くん。私の知らないところで何かあったのだろうか。よく分からない。
「いや。その呼び出しで、色々ひでーこと言われてたじゃねーか!」
「あれは……ひどいことって言うか、ほんとのことって言うか……。実際、あの時の私、いい気になって浮かれてたし……」
「大学で俺に近づくな、ってあれ。あれは、嫉妬した女に苛められるのが怖いからじゃなかったのか!?」
「違うよ! あれは……あれは、私が近づいたら、また麟くんが女の子たちに騒がれて大変になると思ったからだよ。あと、麟くんの彼女のフリなんて、もう無理だと思ったから……」
「……フリ?」
麟くんの足がピタリと止まった。
あれ? なんだか怖い顔。
「お前、俺が付き合ってくれって言ったこと、冗談だと思ってたのか?」
「冗談というか、中学の頃と一緒で彼女のフリをして欲しいのかと……違ったの?」
「あの頃も今も。そんな頼み事をした覚え、俺には一切ないけどな」
―――――え?
あの頃も……?
「お、女の子避けがしたくて、私に付き合ってって頼んだんじゃ……なかったの?」
「不正解もいいとこだ」
「じゃあなんで、一週間だけ私を彼女にしたの?」
「なんでって……好き以外に理由があるのかよ……」
熱い瞳でじっと見つめられて、心臓がドクンと跳ねる。
じゃあ。
あの時私は。たったの一週間だったけど……
麟くんの、本物の彼女だったんだ。
「付き合えて、俺だっていい気になって浮かれてたんだぞ。だけどあいつらが苺を苛めるから……苺は俺の側にいない方がいいと思って……諦めたんだよ。あの時は」
私は、この人にちゃんと好かれていたんだ。
女の子避けの役に立たないから、愛想尽かされて別れたんじゃ、なかったんだ……
「もう今は、諦めるつもりはないけどな」
黒の瞳に光が宿る。真摯な眼差しを真っ直ぐに向けられて、心が歓喜に震えた。全身にじわじわと、彼の言葉が沁み込んでいく。
「う、嬉しい……」
「……それで、中学の頃から好きでごめんなさい、だったのか。ごめんなさいだけ余計だと思ってたら、そうか。俺の気持ちが伝わってなかったのか」
「うう、ごめんなさい……。だって麟くんは女の子が苦手だと思ってたし、私のことは友達として仲良くしたいとばかり思ってたから……」
「まあ、俺の告白も下手くそだったしな」
麟くんが私の頭をくしゃくしゃと掻き回す。指の動きは優しくて、心地よい。この手が、あの頃も私のものだったなんて。にやける私に、彼が眩しい笑顔を向けた。
「―――よし。昼間の条件、もう一つ追加だ」
見惚れているうちに、気付けば長い指先が私の顎を掬い上げていた。よく見ると麟くんの笑顔が、イジワルな笑みに形を変えている。
あ、これ、嫌な予感……
「俺の愛を苺が疑わずに済むように。1日3回、俺からキスをしてやるよ」
ん、ん…………麟くん?
彼の顔が近づいてきた。自転車を押しているため、私の腕は現在2本とも塞がってしまっている。ど、どうしよう……
ちょっと待って麟くん。
ここ……公道なんだけど!
「ま、待って! みんな見てる、見てるからっ!」
「見せつけてやろーぜ。俺たちの愛を、他の奴らが疑わずに済むように……」
吐息が触れる。
頬に熱が集まって。真っ赤に熟れた苺な私を、イジワルな王子様は嬉しそうに笑いながら、ぺろりと食べてしまうのでした。
完結です。
ありがとうごさいました。