36 告白
「麟くんっ!」
弾かれるように廊下に出た。
ここは本館。彼の学部は別館のみで講義が行われている。せいぜい一階にある食堂くらいしか、麟くんに用はないはずだ。
それなのに、どうして麟くんがこんなところにいるのっ!?
すごい勢いで走り抜けていったけど……
その先は行き止まりなんだけど。
どこに行く気なんだろう?
首を傾げていると、麟くんは後ろをちらりと振り返り、苛立った様子ですぐそばにある教室の中に駆けこんだ。
私も、麟くんの後を追いかける。
「苺ちゃん!?」
「ごめん、あとでちゃんと話すから!」
後ろからみんなの声が聞こえる。中途半端なまま抜け出してしまったけれど、訳ありな彼の様子がどうしても気になってしまう。
「麟くん……?」
麟くんの駆け込んだ教室は、2限で使われていない教室だったらしく、中は空っぽで誰もいなかった。麟くんの姿さえもどこにも見当たらない。
あれ? おかしいな。ここに入ったように見えたんだけど……
キョロキョロと辺りを見回して、教室内を探るように巡回した。窓際の長机の近くを通りかかった時、背後からにゅっと手が伸びてきた。
「んぐっ!?」
強い力で引き寄せられる。驚いて声を上げようとしたけれど、もう片方の手で口をふさがれていて、くぐもった声しか出せなかった。
そのまま押さえ込まれて、背後の人物もろとも地面にしゃがみ込む。机の足を視界に入れながら、バタバタとささやかながら抵抗をしていると、手の主が小さな声で話しかけてきた。
「しーっ、静かにしろよ。俺だ、俺。おま、なんでこんなところにいるんだよ」
麟くんっ!?
振り返ると、私のすぐ後ろにいたのは麟くんだった。私の動きが止まったので、安心したのか、麟くんの手が私の口から離れていく。自由になったのをいいことに、私は小声でぼそぼそと彼に話しかけた。
「麟くんこそ、どうしてここに?」
「ちょっと今、しつこい奴から逃げてるとこ」
「何か手助け出来ること、ある?」
「苺は何もしなくていい」
そう言って、麟くんが私の頭をくしゃりと撫でた。
久しぶりの彼の感触に、どきりと胸が鳴る。
そういえば忘れていたけれど……麟くんと気まずい状態なんだった……
よっぽど切羽詰まってんのかな?
私に腹を立てているはずなのに、いつもと同じ調子で喋りかけてくる。
「ねえ、麟くん……」
クリスマスイブのことだけど、と続けようとして、言葉が止まった。
麟くんが背後から私をぎゅっと抱きしめてくる。
「俺のことは気にするな。いいからじっとしてろ」
耳元で彼の声がする。
甘やかな囁きに、私の心臓が跳ね上がる。
何も言えなくてじっとしていると、廊下の向こうで、バタバタと激しい足音が聞こえてきた。
麟くんが私を抱く腕に力をこめる。
足音がピタリと止まって。廊下を挟んで向かいの教室をがらりと開ける音がした。怖くなってギュッと身体を縮こませていると、首筋にチュッと温かいものが触れた。
「ひゃあっ!」
「あ、馬鹿!」
びっくりして、大きな声が出た。
首筋に手を当てて振り返る。
「ななな、なにしたの麟くんっ!?」
「だから大声出すなって。あのくらいで騒いでんじゃねーよ」
「だ、だって……」
あんなことされたら、どうしたって反応しちゃうよ!
抗議の眼差しを向けているのに、麟くんはにやにやと楽しそうに私の顔を覗き込んでくる。悔しくてプイと顔を背けた。彼の大きな手が私の頬に触れ、ぐいっと彼の方へと引き寄せられる。
「っっっっ!!!」
声にならない悲鳴を上げながら、麟くんの腕の中から勢いよく抜け出した。椅子に足がぶつかり、がたりと派手な音がする。
しまった。そう思った時には既に遅くて、つかつかとした派手な足音がどんどん近くに寄ってくる。息を詰める私たちのすぐ側で、ピタリとその音が止まった。恐る恐る視線を上に持ち上げると、そこには腕を組んで仁王立ちをする綺麗な女の人がいた。
◆ ◇
「探したわ、麟クン」
「探さなくていいっつーの。ほんっと、しつこい奴だな」
悪態をつきながら、麟くんがさり気なく私を自分の背中に隠した。
「俺のことは諦めろよ。無理だって、何度も伝えたはずだぞ」
「今は無理でも、未来はまだ分からないじゃない」
「未来永劫、可能性なんて微塵もないから諦めろ」
「あら、10年後には全く別のことを言ってるかもしれないわよ?」
謎の女の人が麟くんの腕を親し気に取ろうとし、それを彼が邪険に振り払う。それでも怯むことなく、にっこりと笑いながら手を伸ばし、再び麟くんの腕を取ろうとする。
この人、すごい。
全く相手にされてないのに、全然引く気配がない……
私ならしつこいなんて言われた時点で、ショック受けて引き下がっちゃうよ。
「大体、なんで今更俺の前に現れてんだよ。高校の時に諦めたんじゃなかったのかよ」
「一度は諦めたわよ。だってあたしは女なんだもの。男がいいなんて言われたらどうしようもないじゃない? でも女の子でもいいのなら、あたしだっていいわよねえ」
堂々とした態度の彼女が、羨ましいな、と思った。どんな状況でも自分の想いをはっきりと伝えきれる強さは、私にはないものだ。
言い合う2人をゆっくりと見比べる。私と違って背の高い彼女は、麟くんの隣に並んで対等なように見えた。艶やかな長い黒髪がとても綺麗で、大人っぽい人だ。幼く見られがちな、私と違って……
彼女が、しなやかな手を伸ばして、麟くんの身体に絡ませようとした。
「やめてっ!」
とっさに、飛び出していた。
「麟くん、嫌がってるよね。それなのに勝手に触ったり、追いかけたりするの、止めてよっ!」
気付けば私は、麟くんの後ろから抜け出していて。彼女の腕を払いのけて、2人の間に割り込んでいた。
麟くんを背中に隠すようにして、女の人の前に立ち塞がる。
謎の女の人は、意志の強そうな瞳に剣呑さを含ませて、私をじろりと睨みつけてきた。
「なんなの、このちびっ子は。小学生がこんな時間にこんなところにいちゃダメじゃない。ささ、学校に戻りなさい」
「しょ、小学生じゃないし!」
「じゃあ中学生? どっちでもいいから、早く学校戻って給食食べてきなさいよ」
「~~~~~っ!!!」
もう、もうっ!
そりゃ、あなたと比べたら幼く見えるかもしれないけどさ。
これでも一応、大学生なんだけど!
私をちびっ子だと勘違いしている彼女は、小馬鹿にしたように手をひらひらと振ってくる。悔しくて真っ赤になった私の後ろで、押し殺すような笑い声が聞こえてきた。ちらりと振り返ると、麟くんの大きな体がプルプルと震えている。
わ、笑うんじゃない、麟くん!
「さっさとそこをどきなさいよ。邪魔なのよ」
「だ、だめ。どかない」
「色々と厳しいご時世なんだから。あなたみたいな小さな子につきまとわれたら、彼に迷惑がかかるだけなのよ? 大人しく同じクラスの男の子でも追いかけてなさい」
「わわっ!」
彼女が私の肩を掴んで、強引に横に押しのけた。
「おい、相良っ!」
ぐらりと揺れた私の身体を、危なげなく麟くんの腕が受け止める。
見上げると麟くんが、見る者を凍り付かせそうな冷たい視線を彼女に向けていた。
「お前……いい加減にしろよ?」
頭上から凄みのある声が聞こえてくる。
ナンパをしてきた女の子たちに向けていたものとは比べ物にならないくらい冷ややかな彼の様子に、私の方がびくりと震え上がってしまう。それなのに、まともにこの冷気を浴びているはずの彼女に、なぜか怯む様子はない。
なんて逞しい女なんだろう……いっそ感動すら覚えていると、廊下の方から琴音ちゃんの声が聞こえてきた。
「苺ちゃん!」
「え? え? み、みんな……」
扉の方に目を向ける。私の後を追ってきたのだろうか。琴音ちゃんを先頭に、グループのみんなが教室の中にぞろぞろと入り込んできた。それに気づいた麟くんが私から素早く身体を離した。
「おい、苺。もういいから向こうに行けよ」
「麟くん?」
「あいつら、お前の友達だろ? ……俺といるところ、見られたくないんだろ」
そう言って麟くんが寂しそうに眉を寄せ、昏く目を伏せる。
その表情を見てハッとした。
――――学校では、近づかないで欲しいの。
そんなニュアンスの言葉を、これまでに私は何度も麟くんに伝えてきた。その方がお互いの為にはいいと思っていたからだ。でも私は、その時の彼をよく見てなかったの。まさかこんな、切なそうな顔をさせていたなんて。
ごめん。ごめんね麟くん。
もう、こんな顔させないから。誰に見られても構わない。私は、堂々とあなたの側にいることにする。
「見られても、いいよ」
きっぱりと答えると、麟くんが伏せていた目を持ち上げた。
私を見て、戸惑うように目を瞬かせている。
みんなは少し遠巻きの位置で歩みを止めて、私たちを見守っている。その輪の中から琴音ちゃんだけが抜け出して、相良さんと呼ばれた女の人の側にやってきた。
「相良っち! なにやってるのよ、もー!」
「琴ちゃんっ?」
え? お友達?
「だって琴ちゃんが、麟クンに好きな女の子が出来たなんて言うからっ!」
「だから諦めなよって言ったのに、どうしてここまで押しかけてんのよー」
「だって! 女の子を好きになれるなら、あたしのことだって好きになって貰えるかもしれないって、期待しちゃうじゃない!」
「ほんっとーに相良っちはめげないよねえ」
相良さんが、麟くんに恨みがましい視線を向けた。
「麟クンはあたしだけじゃなくてどの女の子にも興味なさそうにしていたし、葉山くんもいたから渋々諦めたのに……それなのに好きな女の子ってなによ。冗談じゃないわよ」
怒りなのか不安なのか、よく見ると彼女の拳が微かに震えていた。ちくんと胸が痛む。
ああ、この人はただ、麟くんのことが好きなだけなんだ。
こんなにはっきりと断られているのに。それでもわずかな可能性に賭けたいんだ。
一度は確かに諦めたのに。それでもこうして、未来まで含めた可能性に縋りながら再び追いかけてきたのは。それは、どうしても麟くんのことが忘れられなかったから。
私と、一緒だね。
「そんな、ぽっと出の女に奪われてたまるものですか。あたしはね、高校の頃からずっと麟クンのことが好きだったのよ?」
彼女の悔しさが、私には分かる。ずっと女の子に興味がなかった麟くん。そんな彼の彼女になんてなれないと私は諦めていたけれど。同時に私は、どこかで安心もしていたのだ。そんな彼だからこそ、他の女の子のものにもならないだろう――と。
それなのに私みたいな子が隣にいたら、そりゃショックだよね。
いつの間にって思うよね。
私の代わりに、麟くんの隣に立ちたいって思うよね。分かる。どうにかしてあげたいとも思う。
でも。
……でも。
ごめんね。麟くんだけは。譲る訳にはいかないんだ。
「高校の頃から? 私……私なんて、麟くんのこと、中学の頃から好きだったよ!」
お腹に力を入れて声を張り上げた。ここにいるみんなに聞かせるように。何よりも、目の前にいる彼女と自分に負けてしまわないように。
麟くんが大きく目を見開いて、私をまじまじと見つめている。なんでそんなに驚いているのかな。口までぱかっと開いてるよ?
それでも間抜けな顔には見えなくて。とくべつカッコよく見えるのは、整った顔立ちのせいなのか。それとも、好きになった欲目というやつなのか……
口元が緩む。―――うん、たぶん両方だ。
少し怯んだ様子の彼女に私は詰め寄った。
「ごめんね。私も、あなたと同じなんだ。麟くんのことだけは、誰にも譲りたくないの」
ずっとずっと好きだったんだ。
奪われたくないのは。麟くんの隣に立っていたいのは……この想いは、私だって、絶対絶対負けていない。
辺りをぐるりと見回した。みんなが呆けた顔をして、私をじっと見つめている。これでもう完全に、私の気持ちはみんなに伝わったよね?
ずっと嘘をついていたことも。密かに隠していたことも。なにもかも。
あとは、麟くんだけだね。
「麟くんっ!」
「お、おう?」
彼に向き直り、ぺこりと頭を下げる。
「クリスマスイブの日はごめんなさい。麟くんの気持ちを踏みにじって、本当に悪いことをしたと反省しています。あとで、なんでもお詫びをいたします」
「あ、ああ……」
「そしてごめんなさいは、それだけじゃないの。私ずっと麟くんに嘘をついていたの。友達のフリをしていたけれど、本当は、中学の頃から麟くんのことが好きだった」
私は馬鹿だった。みんながどうしたいのかばかりに気を取られていて、私は、私がどうしたいのかをずっと置き去りにしていた。
私は。私が譲りたくないものは、ただひとつ。
「あの日だって本当は……麟くんに他の女の子のところになんて行って欲しくなかった……。もう、誰に頼まれてもあんなことはしたくない」
頭を上げて、真っ直ぐに麟くんの黒の瞳を見つめる。私の大好きな彼は私をじっと見返したまま、喉をコクリと鳴らした。
「好きなの。これからも麟くんの側にいたいの。麟くん、私と。馬鹿だけど。チビだけど。こんな私と……どうか、付き合ってくださいっ!!」
必死の告白をした次の瞬間。
私の視界が、彼に埋もれた。