35 新学期
どん底のクリスマスイブから約一週間。
「……心配かけて悪かったな、侑」
荒れに荒れた感情は、年の瀬を迎える頃にようやく落ち着いた。
侑が、やっぱり心配そうな顔をしながら、首を左右に振る。
「僕のことなら気にしなくていいから。それよりも、何があったのか分からないけれど、ちゃんと話し合った方がいいと思うよ?」
「ああ。分かってる」
今はただ、何をするにも怠くて気力が出ずにいる。親友の心からの忠告に、ベッドに預けていた背中をのろのろと引き起こし、床に投げ捨てたままの携帯に目を向けた。
侑の言う通り、苺と話し合わなければいけないという事くらいは俺にも分かっている。明日は元旦だ。気乗りはしないが、初詣にでも誘うか――…
携帯に手を伸ばす。苺に連絡を入れようとして、バッテリーが切れていることに気が付いた。
ちっと舌打ちしつつも、ホッとしている自分がいる。
くしゃりと前髪をかき上げて、再び背中から、ベッドにぼすんと音を立てて倒れ込んだ。気が重い。連絡を入れて話し合いをしたとして、その結果ですら俺にはもう分かっているのだ。
苺の気持ちは、俺があいつに向けるものよりも軽い。苺と想いが通じて、もう二度と手放すものかと俺は思っていたけれど、あいつは簡単に俺のことを手放せた。
分かってる。苺と俺じゃ、好きの熱量が違うのだ。その嫌な現実を突きつけられたくなくて、逃げているだけだという事も十分に分かっている。
充電を終えても、携帯の画面は暗転したまま動かなかった。わざと遠ざけていた癖に、いざ繋がらないとなると途端に焦りが込み上げてくる。
もしかして、苺から連絡があったかもしれない――……
乱暴に扱うんじゃなかった。間の悪いことに店は閉まっていて、俺は苛々したまま三が日を過ごす羽目に陥った。動かない携帯は手の施しようがない状態で、すべてのデータがクリアになった真新しい携帯を横目に、俺は自分の行いを激しく後悔するのだった。
「あー、くそ。せっかく手に入れた写真が全部消えやがった……」
スカスカの携帯を眺めていると、自然と愚痴が零れてしまう。
そんな俺を見て、侑が苦笑している。
「また頼みなよ」
「アドレス吹っ飛んじまったからな。連絡の取りようがねえ」
「それこそ、また聞いたらいいじゃないか。そんな怖い顔しなくてもさ、昼に本館行けばあの子に会えると思うよ?」
「行かねーよ」
「そんなこと言わずに行ってきなよ」
今日から大学が始まる。
苺とも、会おうと思えば会えるだろう。けれどあいつのことだ。友達のいる前で俺が現れて、話がしたいと言ったところで高確率で逃げられるに違いない。あいつは俺との関係を友達に隠したがっている。だから学校ではそっとしておいて、放課後にあいつの家へ押しかけてやろうと思っている。
大学の最寄駅に着く。構内からエスカレーターで下に降り、ふっと外に目を遣ると、見覚えのある女と目が合った。
真っ直ぐ伸ばした黒い髪に、女にしては高めの背。堂々としたたたずまいに、意志の強そうな瞳と自信たっぷりに持ち上がる口の端が印象的なあいつは。あいつは……
「…………おい」
「僕が言えた義理じゃないのは分かっているけどさ。逃げない方がいいよ?」
「逃げるぞ、侑!」
「だから……って、えっ!? 麟?」
間違いない。高校時代のクラスメイトで、俺をしつこく追いかけ回していた奴で……
嬉しそうな顔をして駆け寄ってくるそいつの姿に、頭が痛くなってきた。俺は戸惑う侑の手を引いて、大学まで走り出していた。
「え、相良さんがいたの?」
「ああ。なんであんなところにいたのか分かんねーが、あいつだった」
「諦めたんじゃなかったのか、あの子」
息が上がる。追いかけてくるヤツを撒くように走ったせいで、いつもより長い距離を走らされている。相良は女だが、陸上部に所属していただけあって、足も速いし持久力も抜群だ。おかげで切り離すのに時間がかかってしまった。
相変わらずしつこい奴だ。全然かわってねーな。
てか、なんであいつがここにいるんだよ。
高校時代。俺は相良から逃げるために、侑と付き合っているふりをした。黙っていれば綺麗なやつだし、いいように言えば一途なのだろうが、俺の意思を顧みることなく突っ走ってくる猛牛のような相良は正直俺の一番苦手とするタイプで、あいつの想いを受け止める気には到底なれなかった。
侑には悪いことをしたと思っている。断っても断ってもしつこく付きまとってくる相良から逃げるために、優しい俺の親友は笑って恋人のフリを続けてくれた。ライバルが男ということで、さすがのヤツも俺を諦めるようになり、大人しくなったのだが……
侑が不安そうに俺の様子をうかがっている。
躊躇うように持ち上げられた左手の薬指が、日に反射してキラリと光った。
……ああ。侑に彼女が出来たってことが、相良に漏れたのか。
昨日までとは別の意味で気が重い。剣呑な目つきをしてしまっているのか、教授が俺を見てはやたらとビクついている。相良が教授のように引いてくれりゃいいのだが、現実はそう甘くない。あいつは精神が異様に頑丈で、俺が睨もうが怒鳴ろうが、全くお構いなしなのだ。
「麟クン、久しぶりねっ♡」
2限の講義を終え、食堂に向かうべく1階のホールに降りたその時、背後から甘ったるい声が聞こえてきた。
口の端がひきつる。振り返らなくてもヤツだと解ってしまう。
「相良、なんでここに……」
「あら。麟クンがこの大学に通ってることくらい、友達に聞いて知ってるのよ。あたしもここから近いトコロに通ってるの。これって運命よねえ」
くそ。撒けたと思っていたのに、こいつは俺の目的地を知っていたのかよ。この近辺は大学の数もそれなりに多いから、バレないと踏んだのに。
しかも本館じゃなくて別館の方に来るとは。学部までバレてやがるじゃねーか。
「麟クン、葉山くんといつの間に別れたの?」
「なんのことだよ」
「相良さん、僕は麟とは……」
「葉山くん、左手にいいものつけているわね。それペアリングっぽいけれど、麟クンの左手には何にもないわよねえ」
「っ!!」
侑がとっさに左手を隠した。それを見て、相良が我が意を得たとばかりに、にいっと笑った。
◆ ◇
冬期休暇も昨日で終わり、いよいよ今日から大学が始まる。
朝日が眩しい。今日の2限は必須科目なので、グループのメンバーほぼ全員と顔を合わせることになるだろう。麟くんとも、校内ですれ違うかもしれない……
まもるくんや岩田くんと向き合うことが出来て、私も、だいぶ自分に自信がついてきた。大丈夫。私は逃げずに頑張れる。イブの日に逃げたことをあの4人に謝って、麟くんのことを正直に話すんだ。
昼休みにゆっくり話をしよう。そう決めて、2限の講義はギリギリで教室に滑り込んだ。教室の中には予想通り、グループのメンバーがみんな揃っている。
講義を終えた後、4人のところに行くよりも早く、私の周りにぞろぞろとみんなが集まってきた。
みんな。そう、みんな。
「こ、こんにちは。久しぶりだね、みんな……」
あの時の4人に、詰め寄られるだろうと覚悟はしていたけれど。
どうしてみんな総出なの……
「久しぶりだね苺ちゃん。クリスマスイブの日以来だよね」
「あの後、苺に会いたかったけど、冬休みのせいで会えなかったんだよね。ねえ、色々と聞きたい事があるの。―――いい?」
ぐっと息を飲む。
みんなをぐるりと見回して、こくりと頷いた。
大丈夫。大丈夫。私はちゃんと言えるはず。
「うん。私もみんなに謝らなきゃと思って……イブの日だけど、その、ごめんなさい」
私が来る前に、みんなであの日の話がされていたのかもしれない。
「なんのこと?」と首を傾げる子はいなかった。
「そうだ、お店予約だったよね? 麟くんと私の分の食事代、払わなきゃだよね。いくら? 今、払う……」
カバンの中に手を突っ込んで、財布を取り出そうとしたけれど、止められた。
「いいよ。料金はわたしたち4人の分しか請求されなかったし」
「それよりも苺。麟さま、あたしたちが来ること知らないようだったよね。ねえ教えて。あれって、どういう事だったの?」
しん、と沈黙が降りた。
みんなの視線が私に集まっている。大丈夫だと思っていたのに、喉の奥がキュッと詰まる感覚がした。
どくん、どくん、と胸が鳴る。
「そ、それは……」
言わなきゃ。言わなきゃ。
でも……こんなに大勢の前で言うなんて、想定外だよっ!
「どうして、麟様に何も言ってなかったの?」
「わたしたちみんな、麟様がOKしてくれたと思っていたんだよ?」
あの時の事情をよく知る4人が、ずいっと前に乗り出してくる。
雰囲気に気圧されて、1歩、後ずさる。
ううん大丈夫。私は頑張れる!
「麟くんは、大勢の女の子が苦手だから、ホントのことを言うと来てくれないかと思ったの。とりあえずあの場所まで連れて行って、直前でみんなのことを話せば、一緒にご飯ぐらい食べてくれるかと思ったんだけど……全然上手くいかなくて。本当にごめんなさい!」
再び沈黙が降りる。
4人が顔を見合わせた。
「ねえ。それってさ。麟様の方は、苺とデートするつもりで来てたんじゃないの?」
「苺ちゃんは、麟さまのこと興味ないって言ってたよね。怖いとか苦手とか、そのわりにはクリスマスに連れ出せるほど仲がいいんだ?」
「付き合っているなんてあり得ないって言ってたけどさぁ。ほんとに麟様と何もなかったの?」
「苺ちゃん泣いてたよね。もしかして……あたしたちにずっと、嘘をついてたの?」
「それは――……」
一斉に詰め寄られて、その勢いに怯んでしまう。私の視線が、ふっと廊下に泳いだ。
そこには。
鬼のような形相で廊下を駆け抜ける、麟くんがいた。