33 可能性はずっと上
穏やかな1月の昼下がり。
窓際から差し込む光は柔らかくて、暖かい。
大学の近くにあるこのお洒落なカフェは、女子大生に人気のある店だ。普段は混み合っているけれど、冬期休暇中の為か、客はまばらで店内には空席が目立っていた。
緊張を解すべく、注文していた紅茶を一口、口に含む。カップからはベルガモットの香りがふわりと漂って、私の心を少し落ち着かせてくれた。
ちりん、と入り口から音がする。
振り返ると呼び出した相手がそこにいて、私と視線を合わせた。彼は私にふわりと微笑みかけた後、そのまま、真っ直ぐに私の座るテーブルまでやってくる。
「こんにちは、苺ちゃん。久しぶり」
「こんにちは。突然呼び出してごめんね、まもるくん」
「ううん、苺ちゃんならいつでも歓迎だよ」
お日様のようなぽかぽかとした笑みを浮かべながら、まもるくんが私の正面に座った。テーブルの下、膝の上に置いた手を私はぎゅっと握りしめ、彼から目を逸らそうとする弱い心を叱咤する。麟くんに謝る前に、私にはしなくてはいけない事がある。
まもるくんと付き合うつもりはない。それなのに私は、決定的な言葉を告げて落胆されるのが嫌で、今までずっと曖昧な態度を取り続けていた。
でも……いつまでも、ずるずると期待を持たせていては駄目だよね。
今日こそ、はっきりと断るんだ。
店員さんがやってきて、水の入ったグラスを彼の前に置く。軽くメニューに目を通し、まもるくんはカフェラテを注文した。
「冬休みの間、ずっとこっちにいたの?」
「ううん、昨日まで実家に帰ってたの。最初はこっちで年越ししようと思ってたんだけど、妹たちが許してくれなくて」
「へえ、妹いるんだ。苺ちゃんに似てる?」
「ううん。2人とも私より背が高いし、大人っぽい格好だって似合うし、悔しいことに全然似てないよ」
「そうなんだ。でもオレは、苺ちゃんみたいな小さくて可愛い子の方が好きだな」
まもるくんがにこりと笑う。
あ、嫌な予感。
返す言葉が見つからず、手元の紅茶をがぶりと飲み干した。この話の流れは非常によろしくない。さっさと本題に入らねば。
すぅ、と軽く息を吸い、私は話を切り出した。
「お話が、あるんだけど」
あんず、こもも。お姉ちゃん頑張るからねっ!
「うん、なに? 正式に付き合ってくれる気になった?」
「それなんだけど、私……」
「もしかしてまだ迷ってるの?」
まもるくんが穏やかな笑みを消して、ふっと真面目な顔をした。
クリスマス、実はまもるくんからもお誘いがあったけど、友達と約束があると言って断ったんだよね……。学内でもなるべく彼を避けていたし、年始年末だって忙しいと言って会ってない。
そんな私が突然連絡を入れてきたのだ。これから私に何を言われるのか、彼なりにうっすらと感じ取っているのかもしれない。まもるくんに縋るような眼差しで見つめられてしまった。
「あのさあ、いくら考えてもちっとも忘れられないし先に進めないと思うよ? とりあえずオレと付き合おうよ。それから、どうしても無理なら別れることにすればいいんじゃない?」
「まもるくん、あの、私、まもるくんとは……」
「苺ちゃん、もっとオレのことを知ってよ。頼むから」
そう言って、まもるくんがわずかに身を乗り出してきた。
う、うわわわわわわ。
全身からじっとりと嫌な汗が噴き出してきそう……。
今日こそ逃げないって決めたのに、早速逃げたくなっている。こんな自分がつくづく嫌になる。私ってばほんっとーに、この手のお願い事に弱い。弱すぎるよ。
懇願するような彼の瞳に、負けてしまいそうになる……
だめ!ちゃんと言わないと!
まもるくんとは付き合えないって、はっきり言わないと!
「私は……っ!」
「そうだ。あとで、オレの家においでよ。犬飼ってるんだ。見せてあげるよ」
「わた……」
「大型犬だけどちっとも怖くないよ。しっぽ振って頭すり寄せてくる可愛い奴なんだ。あいつ、女の子が好きだから、苺ちゃんが来たら喜ぶと思うな」
「あ……」
「大丈夫。今日は親も出かけてるから、誰にも気兼ねすることなくゆっくり出来るよ」
まもるくんが、期待に満ちた瞳で私を見つめている――……
心臓がバクバクと音を立てている。
口はハクハクと動くばかりで、声がちっとも出てこない。
「ねえ、いいだろ……」
ねだるような彼の声に、ぐらり、と心が歪んで揺れた。いつものように、弱い私が私に囁きかける。
――おうちに行くくらい、構わないんじゃない?
彼女にはなってあげられないけどさ。友達なら別になってもいいんだし。
取り合えずまもるくんのおうちに行こうよ。
断るのなんて、それからでも遅くないよね……
「まもるくん……」
頷きかけたその時。
『苺ねえって本当に馬鹿だよね。大馬鹿だよね』
腕を組んでじっとりとした目つきをする、可愛い妹たちの姿が浮かんできた。
◆ ◇
すんでのところで我に返った私は、今度こそ、はっきりとまもるくんに向き合った。
「ごめんなさいっ、私、まもるくんとは付き合えませんっ!」
「苺ちゃん?」
「おうちにも行けません。誘ってくれたのにごめんね……」
やっと、言えた。
まもるくんが数度瞬きをして。それから、私の言葉を脳が理解したようで、表情を陰らせた。
「そう……」
彼が短く呟いて、その声の重さに胸がずきりと痛む。
分かっている。まもるくんの想いに応えられない以上、これはどうしようもないことで。いくら心を痛めても、私にできるのは向き合うことだけなのだ。
「まもるくん。私ね、まもるくんの言った通りになると思う」
「え?」
まもるくんが、パッと顔をあげた。
「麟くんのこと、ちっとも忘れられないし先に進めないと思う。でも、それでいいの」
「……麟くん?」
「忘れられないままでいいと思ってる。フラれても、いつまでも気の済むまで好きでいようかなって」
彼に心を奪われてから、私の中にはずっとあの人しかいなかった。
さよならを言われても。高校が別々になっても。大学生になって、遠い存在になったしまったあの人を、それでも心の奥底の大事なところに私はずっとしまいこんでいた。
簡単に忘れられないってことくらい、私が一番よく知っているんだから。
「ちょっと待って苺ちゃん。もしかして苺ちゃんの好きな人って、女子に騒がれまくっているあの有名な……」
「はっ!!」
しまった、口を滑らせた!
両手で口元を抑えたけれど、手遅れだ。まもるくんはしっかりばっちり名前を聞いていたようで、私の好きな人を正しく把握してしまっている。
まもるくんが目を丸くして、私をまじまじと見つめている。その瞳には同情の色がはっきりと見て取れた。
「……それは確かに、きついな。きつい相手だな」
「うう……」
「でもさ。同い年なんだろ?」
――――え?
「苺ちゃんはさ、そいつの親にだって警戒されてないだろ? ならまだまだいけるよ。オレよりも可能性は、ずっと上だと思う」
「まもるくん―――……」
私、まもるくんをフッたのに。
まもるくんは、こんな私を応援してくれるの……?
まもるくんの優しさに、胸にじわりと温かいものが込み上げてくる。
「オレも苺ちゃんを見習って、ミカのこと……もう少し頑張ってみようかな」
そう言ってにっこりと笑った彼に、少しだけ口の端がひきつった。