32 譲れないもの
私はバカだ。
バカだ。バカだ。バカだ。
誰にでもいい顔をして、本気でやり過ごせるとでも思っていたの?
麟くんは私と2人きりで過ごすつもりでいたんだよ? それなのに、騙し討ちのような形でみんなと会わせて……彼がどう感じるかくらい分かっていたはずなのに。
あの日囁かれた言葉が脳裏をよぎる。
『俺は、苺だけが好きになってくれたらそれでいい』
麟くんは、真っ直ぐに私を見てくれたのに……。
何度でも引き返せた。本当のことを言うだけで良かった。タイミングが掴めないなんてただの言い訳で、心のどこかで私は、どうにかなると楽観視をしていたのだと思う。
麟くんはいつも私の味方をしてくれた。いつでも、私に寄り添ってくれていた。だから私は、あの人の優しさに甘えていたのだ。麟くんなら分かってくれるんじゃないかって。何をやらかしても、麟くんが私を見放すことはないような―――そんな思い上がった感情を、私は彼に抱いてしまっていた。
……そんなわけないのにね。
本当に私はバカだ。
麟くんの気持ちを踏みにじって、それが赦されると思っていたなんて。
右の手のひらに視線を移す。振り払われた時の感触が、未だに衝撃として私の中に残ってしまっている。麟くんに初めて突き放された……
ううん。彼が私を見限るのは、これで2度目だ。5年前にも、私は彼に背中を向けられている。
短く吐息を漏らす。
やっぱり私じゃダメだったんだ。
彼女役ですら上手く行かなかったのに。
本物の彼女になんて、なれるはずもなかったんだ……。
「ねえねえ苺ちゃん、リビングに降りてきなよ。お母さんがケーキ買ってきたんだって!」
「最近できたお店なのよ。ここのケーキ、すっごく美味しいんだから」
ベッドの上で物思いに耽っていたら、勢いよく開いたドアと共に双子が私の部屋になだれ込んできた。あんずが私の右手を掴み、こももが左手を引っ張っていく。新年早々、元気いっぱいな妹たちだ。
あれから大学は冬期休暇に突入したので、麟くんとも、友達とも顔を合わせないままだ。迷惑をかけてしまったみんなにも、傷つけてしまった麟くんにも、謝らなければいけないのは分かっている。けれど、どちらとも気まずくて、私は自分から連絡を入れられないでいた。
誰にも会いたくない。家族にすら会う気になれなくて、アパートの部屋で1人年越しをしようとしたけれど、あんずとこももにせっつかれ、渋々実家に戻ってきた。
「ショートケーキにモンブラン、苺タルトにショコラかぁ。うーん、どれもおいしそ~!」
「待ってこもも! フライングは駄目よ。公平に、じゃんけんで順番を決めましょ」
「お母さんは最後でいいわよ。あんたたち先に選びなさい」
「私も後でいいよ」
結論的には戻って正解だったと思う。あんずもこももも相変わらず賑やかで、そのおかげで思ったよりも鬱々とせずに過ごしていられる。一人でいるとどうしても沈んでしまうけど、それでも実家にいなければ朝から晩までこの状態だったかと思うと、この可愛い妹たちに私はだいぶ救われている。
「苺ねえ、じゃんけんしないの?」
「うん。あんずとこももで先に選んで」
「苺ちゃん、ほんとにいいの?」
「いいよ。どれも美味しそうだし」
苺タルトがとびきり美味しそうだな……とは思うけれど、他のケーキだって十分美味しそうだしね。
結局、じゃんけんに勝ったあんずがショコラを選んだ。こももは悩みに悩み、モンブランを諦めて苺タルトを選んでいた。
私はモンブランを選んで、こももとあんずに一口づつ、幸せのお裾分けをするのだった。
◆ ◇
にぎやかな双子に囲まれているうちに、するすると日は過ぎていった。
「あけましておっめでと~、苺ちゃんっ!」
「苺ねえったら、いつまで寝てるのよ。もう9時よ」
あの最低のクリスマスから、早くも1週間以上が経とうとしている。
「ねえねえ、早くお雑煮食べようよ~。あたしお腹すいちゃった」
「ごめんごめん2人とも。急いで着替えて、顔洗ってくるね」
「早くしてよね。もう、わたしたちお腹ぺこぺこなんだから」
お腹空いてるのに、2人とも私を待っててくれたんだね。
口元が緩む。変わらない2人の存在が、今はひたすらありがたい。
リビングに入ると、味噌の香りが漂ってきた。
食卓の上には3人分のお雑煮が並べられている。母の姿は見かけない。あんずとこももだけが席に座っていて、私に手招きをした。
「みてみて苺ちゃん! 今年のお雑煮はねえ、あたしとあんずちゃんで作ったんだよ!」
「えっ、2人が作ったの!?」
「そんなに驚かなくても、お雑煮くらい作れるし。わたしたちだってもう中学生なんだから」
「お母さんは?」
「まだ寝てる」
我が家のお雑煮は、普段のお味噌汁にお餅を突っ込むだけの簡単なものだ。具材も、大根と人参を入れるだけ。
それでも毎年私が作っていたのに……
「ん、美味しい」
器に口をつける。きちんと出汁を取っているようで、柔らかな味わいがした。
2人とも私の反応を見て、くふくふと嬉しそうに笑っている。
「ねえ、苺ちゃん」
「なあに?」
「あとで一緒に、初詣に行こうよ!」
「うん、今年も3人で行こうね」
朝食の後は近所の神社に初詣に行く。これも毎年恒例の我が家の行事だ。
と言っても、母は一日家でだらだらしてるので、あんずとこももと3人だけの恒例行事なんだけど。
「ねえ、苺ねえ」
「うん?」
「麟にいと何があったの?」
「ぶふっ!」
ちょっとあんず!
汁物を飲んでいる時に、そういう核心に触れた質問、しないでっ!
けほけほとむせている私に、こももまで一緒になって身を乗り出してきた。
「あやしいよねえ、あんずちゃん。絶対何かあったよねえ」
「な、なんにもないけど?」
「おかしいわよねえ、こもも。何にもないなら、わたしたちじゃなくて麟にいと初詣に出掛けているわよねえ」
ふっ、2人とも突然なんなの……
「苺ちゃんてば元気なふりしてるけど、いつもと様子が違うよねえ」
ぐっ……見抜かれてる……
「麟にいとクリスマスに喧嘩したんでしょ」
「ちょっと! ちょっと待ってあんず! なんでそれを……」
「だってクリスマスの日から、メッセージの返事こなくなっちゃったんだもん」
ちく、と胸に痛みが走る。
それはきっと、私のことが嫌になったから。だから、私の妹であるあんずやこももとも、関わるのが嫌になってしまったんだろうな……。
「なんで喧嘩するかなぁ。デートの様子が聞きたかったのに~!」
「でっ……デートっていうかあれはその……っ」
そんなことまで知ってるの?
麟くんたら、どこまでこの2人に喋っちゃってるのっ!?
「ディナーどうだった? 素敵なお店だったでしょ」
「ディナーどころかランチだって一緒に食べてないからっ!」
「ええ~!! 行ってないの!? 麟にい、クリスマスに苺ちゃんと食べに行くって予約してたのに……!」
―――――え?
麟くん。
ディナーの予約を……していたの?
◆ ◇
「苺ねえって本当に馬鹿だよね。大馬鹿だよね」
「ぐっ……なにも、否定できません……」
双子たちに詰め寄られ、イブの出来事を洗いざらい喋らされてしまった。
「それは苺ちゃんが悪いよ! あ~あ、麟にいカワイソ~!」
「う、うう……」
今私は、じっとりとした目つきの2人に責められまくっている。あんずもこももも、すっかり麟くんの味方だし。
あんずが腕を組んで呆れた顔をした。
「しかも未だに謝っていないってなあに? そんな事じゃ、愛想尽かされても知らないよ」
……ううん分かってる。悪いのは私の方。
クリスマスの日、麟くんは私に内緒で、こっそりディナーの予約をしてくれていたらしい。
あんずとこももには相談していたようで、麟くんの提案から私の好みそうなお店をピックアップしたのは2人だったとか。双子の携帯に残る履歴には、いつか麟くんに尋ねられたフレンチとイタリアンのお店が写っていた。
麟くんは本当に1日中、私と過ごすつもりでいてくれた。
それなのに、私が全部台無しにしたんだ。
ごめんね麟くん。ごめんなさい……
肩をがっつり落としてうなだれる。
「愛想なんて、もうとっくに尽かされてるよ」
「そんなこと言わないで謝りに行きなよ。今ならまだ間に合うかもしれないよ? 苺ねえは、麟にいと別れたくないんでしょ?」
「別れ……んん?」
そういえば、私って麟くんと付き合ってたんだっけ?
好きだとは言われたし、キスもされたけど……別に付き合ってくれとは言われていない気がする。
こももが私の両肩を掴み、がくがくと揺さぶってきた。
「そもそもさぁ、どーして友達に紹介するなんて言っちゃったのよぉ! 苺ちゃんのお友達って、麟にいのこと狙ってたんだよねっ?」
「そ、それはその……う、上手く、断れなくて……」
「紹介なんてしちゃダメじゃない。むしろ取られないようにガードしなきゃいけないところだよっ!」
「う……」
長い髪をかき上げて、はあ、とあんずが大きなため息をつく。
「苺ねえは何でも気安く引き受けすぎなのよ。友達に頼まれて彼氏を紹介するとかありえない。ねえ。どうして苺ねえはそうなの……?」
あんずが、真っ直ぐに私を見つめてきた。
「どうして、麟にいのことも譲ろうとしちゃうのよ」
真剣なあんずの瞳に、居心地が悪くなって視線を逸らす。その先には、あんずと同じ顔をして、同じ表情をしながら、私を見つめるこももがいた。
同じ顔をした双子の妹。私の……6歳年下の妹たち。
――――はじまりはたぶん、この子たち。
あれは私が、小学一年生の頃のこと。
あんずとこももが産まれて、母に余裕がなくなった。それまで毎日独占していた母は、すっかり双子にかかりきりになっている。6歳の私はそれがとても寂しくて、それでも仕方ない事だと理解も出来たので、母を困らせないように、甘えたいのをぐっとこらえていた。
双子のお世話は、本当に大変そうだった。1人がようやく眠った頃に、もう1人が泣きだしている。その泣き声に眠ったばかりの赤ん坊が目を覚まし、一緒になって泣き始めるのだ。
母はいつも疲れているように見えた。そんな母を少しでも助けてあげたくて、幼い私は家事を手伝ってみた。
といっても、6歳の子供に出来ることなんてたかが知れている。お風呂を洗ったり、洗濯ものをたたんでタンスにしまったり。その程度のちょっとしたことしか出来なかったけど、母は私にたくさん感謝をしてくれた。
『ありがとう、苺。助かるわぁ!』
私を見て笑いかけてくれる母の姿が、とびきり嬉しかったことを今でも覚えている。あれは私にとって麻薬のようなものだった。6歳の私にとって、自分を見てもらう一番の方法が、母のお手伝いをすることだったのだ。
頼まれたらなんでもしてあげた。喜んでもらえることが嬉しくて、期待に応えたいと思うようになっていた。
友達も、先生も、それほど親しくないクラスメイトでも、誰にでも。いつしか私は、ものを頼まれたら喜んで引き受けるようになっていた。みんなが私のやることで喜んでくれる。みんなが、私にありがとうと言って、笑いかけてくれる。
お気に入りのおもちゃを妹に譲ることは、決して嫌ではなかった。
押しつけられたクラス委員をやることに、抵抗はなかった。
それを断る時の、相手のがっかりする顔を見る方が嫌だった。受け入れて、喜んでくれた方が気分がいい。それに断ると、もうみんなわたしに笑ってくれなくなるかもしれないし。
そんな中、麟くんだけが違っていた。
麟くんは、何もしなくても私の側にいてくれた。私に頼み事をするどころか、逆にいつも私を手伝ってくれていた。こんな私を心から心配してくれた。
「麟にいのこと、その程度しか好きじゃなかったの?」
今でも、大好きだよ……
それなのに私は。あのギリギリの場面ですら声が出なかったのだ。みんなの反応が怖かったのだ。
大事な人を失う方が、ずっと怖いことだったのに。
今更のようにそんな事を思う。
「苺ねえはさあ。いっつもなんでも、わたしたちに譲ってくれるけど、それで私たちが喜んでいると思っていたら大間違いなんだから」
いつまでも幼いつもりでいた妹たちは、今、大人びた顔をして私の目の前にいる。
「そうだよ。あたしたちだっていつまでも小さな子供じゃないんだし、苺ちゃんだって遠慮しないで好きなケーキを選べばいいんだよ。お友達だってさ。苺ちゃんと麟にいの仲を裂いてまで、麟にいと付き合いたいなんて思ってないと思うよ!」
気付けば、頬にぼろぼろと熱いものが伝っていた。私、6歳も年上なのにね。まるで2人の方が私のお姉さんみたいだね。
「麟くんのこと……譲りたくなんか、ないよ……」
麟くんの隣にいられないなんて、いやだ。
麟くんが、他の女の子の隣で笑っているなんて、いやだ。
ほんとうは、他の誰にも渡したくないよ……。
「苺ねえは麟にいと、このままでいいの?」
ふるふると首を横に振った。
私の肩を、左右から2つの手がぽんぽんと優しく叩く。
「じゃあ、麟にいに謝りに行こ?」
「あんず……」
「大丈夫! 苺ちゃんがちゃんと謝れば、麟にいだって許してくれるって!」
「こもも……」
「だって麟にいも、お姉ちゃんのことが、絶対大好きなんだからっ!」
2人が眩しくて目を細める。
麟くんだけじゃなかった。この2人だって、私が何もしなくても、こうして私に笑ってくれる。
「苺ちゃん、失恋したら美味しいもの食べに行こうねっ!」
「ちょっとこももったら、なに不吉なこと言ってんの! ……でも、万が一の時にはパーっと食べに行こうね。その時は、わたしたちが奢るから」
向き合うことが怖かった。関係が崩れたことを、はっきりと知ってしまうのが怖かった。だから私は逃げていた。いつもいつも、都合の悪いことから私は逃げ続けていた。
麟くんとは、もう無理かもしれないね。
でも、大丈夫。
ごめんねくらいは言えるはず。
「………ありがとう、2人とも」
右手であんず、左手でこももの肩をぎゅっと抱き寄せる。
だって私には。
とても心強くて可愛い味方が、2人もいるのだから。