31 ラスト1パックの卵
みんなの声が聞こえる。
のぼせ上がった頭がすうっと冷えていく。素早く麟くんから身を離し、慌てて立ち上がる。
振り返ると、少し離れたところに、今日待ち合わせていた友人たち4人がずらりと並んでいた。
「わたしたち早く着いちゃってさぁ。暇だし、この辺うろうろしてたんだけど、苺ちゃん達も来ていたんだね!」
「わ~、本物の麟さまだぁ!」
みんながはしゃぎながらこちらに駆けよってくる。その様子を見て、麟くんがはっきりと眉を寄せた。分かってはいたけれど……
「なんだあいつらは……」
「わっ、私の友達なのっ!」
麟くん、……嫌そうだな。
どっくん、どっくん、と心臓が大きくリズムを刻み始めた。出来れば何も言いたくない。けれど、ここまできたらもう逃げられない。麟くんの顔が見れなくて、視線を地面に向けながら、なんとか声を振り絞る。
「今日のお昼ご飯、みんなで一緒に……食べよ?」
「は? みんなで?」
「うん……」
「どうしてお前の友達と一緒に飯食わなきゃいけないんだ」
だよね……
恐る恐る見上げると、困惑70%、苛立ち30%といった顔つきで、麟くんが私と友達をちらちらと見比べている。気まずくて、また麟くんから顔を逸らした。
「麟様こんにちは! 今日はよろしくお願いしまーす♡」
「とっても楽しみにしてました! 今日もカッコいいですねっ♪」
みんながやって来て、彼の周りに群がりだした。4人のはしゃぎっぷりに圧倒されているのだろうか。無言のままの麟くんが怖い……。
「予約の時間までまだ間があるので、ゆっくりお喋りしませんかっ」
「予約……?」
「あれ、苺ちゃんから聞いてません?」
「何も。聞いてない」
麟くんの声からは、すっかり温度が消えている。
「今日のランチ、あそこのビルに入ってるレストランで予約してあるんですっ!」
「落ち着いた雰囲気のお店だから、ゆっくりできそうだよね」
「うんうん。お料理も美味しそうだしね」
「……ふぅん……予約、か」
ぽん、と麟くんが私の肩に手を置いた。
「初めから、そのつもりだったのか?」
うぅ、怒ってる……
どうしよう。なんて言おう。
「あの、ずっと聞いてみたかったんですけどぉ。麟様ってほんとは葉山くんと付き合っていないですよね?」
「……それが、なんだってんだ」
「クリスマスにこうして来てくれたってことは、今、フリーなんですよねっ!」
「あたしも質問です! 麟さまってどんな女の子が好みなんですか?」
「わたしもわたしも! 彼女とか募集してますかぁ?」
肩に置かれた手に、ぐっと力がこもった。
「……なぁ、苺」
冷ややかな声で、咎めるように名前を呼ばれて。身体が、氷のように固まってしまう。
「どうして俺がフリーで、彼女が欲しいか聞かれるんだ?」
「…………」
「どうして」
言葉が。
「……みんな……、麟くんと仲良くなりたいんだって……」
上手く、のどから出てこない。
「お前はそれでいいのかよ!」
強く問われて、肩がびくりと揺れた。
彼の様子がおかしいことに、みんなも気づいたのだろう。周囲の声がピタリと止まる。
「俺が、他の女のところへ行ってもいいのかよ!」
そんなの……
そんなの、いい訳がない!
本当は、嫌だ。本当は、誰の側にも行って欲しくない。だって私は、麟くんのことが……
「わっ、私は……」
ぐるりと周囲を見回した。
麟くんも。友達も。みんなが私に注目して、じっと見つめている。
バクバクと、心臓が大きく音を立てている。言わなきゃ。今こそ、本当のことを言わなきゃ。
言わなきゃ、いけないのに。
「い、苺ちゃんは麟様に興味ないんだよ……ね?」
「好みじゃないって言ってたもんね?」
戸惑うみんなを前にして、私の口元は、震えたまま動かなくて……
そんな私を見て、麟くんがすぅっと表情をなくしていった。
……あ。
肩からすっと温もりが離れていった。焦って隣を見上げたけれど、麟くんはもう私を見ていなかった。とっさに彼の腕を掴もうとしたけれど、指先が触れる前に振り払われてしまう。
足元が、ぐらりと揺れる心地がした。
いつでも。どんな時でも、私の味方をしてくれていた麟くんが。
麟くんが……私を突き放した……。
「麟様?」
他の子たちが、私と同じように麟くんに触れようと手を伸ばした。何人かに腕を掴まれて、彼がちっと舌打ちをする。
「離せ」
「きゃっ!」
女の子たちの手を、彼が強引に振りほどいた。勢いあまって後ろによろける子もいたけれど、麟くんは気にも留めずに荒い動作でみんなの輪から抜け出していく。息を飲む私たちに、彼が冷ややかな視線を投げつけた。
「付き合ってられるか。俺はもう帰る」
聞いたことのないような、冷たい、冷たい声。
呆然とする私たちを置いて、麟くんが足早にこの場を去っていく。
引き留める声も出せないまま、その姿が人混みに紛れて消えてしまうまで、私は彼の後ろ姿をジッと見つめていた。麟くんは一度も振り返らなかった。
口の端が震える。
……どうしよう。
本気で怒らせちゃった……。
「ねえ苺ちゃん、どうなってるの?」
そりゃそうだよね。
2人きりで過ごそうって言ってたのに。
「……うっ……」
……最低だ。
私はずっと、友達に嘘をついていた。ホントのことを言う機会なんていくらでもあったのに、嘘つきと詰られるのが怖くって。みんなにいい顔をしていたくって。期待を裏切るのが怖くって、私は……
麟くんを、裏切ったんだ。
一番大事な人だったのに……
「うぅ……ごめんみんな、ごめん……っ」
「あっ、苺ちゃん!」
視界が滲む。
すべてから逃げ出すように。私はその場から駆け出していた。
◆ ◇
「ちっくしょ……!」
手短に用件を終えたあと、俺は携帯を乱暴に床に投げつけた。
結局、あれから一度も振り返ることなく電車に乗りこみ、苛立ちが抑えきれないままこうして自宅に戻ってきた。
どすどすと階段を駆け上がり、2階の自室に入って、枕に拳を一発沈めた辺りで、夕食の予約をしていたことを思い出す。
……初めてのクリスマスで浮かれていたのは、俺だけだったのか。
乾いた笑いが込み上げてくる。苺の提案は、俺が思い描いていたデートとは全く違うものだった。今日は一日中、2人きりで甘く過ごそうと思っていたのに……どうして、昼飯をみんなで一緒に食べようなんて言い出すんだよ……。
しかも。
『今、フリーなんですよねっ!』
『麟さまってどんな女の子が好みなんですか?』
『彼女とか募集してますかぁ?』
なんだ、あの言い方は。
まさか俺に言い寄る気なのかよ、あいつらは。
彼女募集だぁ?
ふざけてんのか。俺がそんなことするわけねーだろ。フリーじゃねえよ。俺には、苺がいるのに……
『みんな、麟くんと仲良くなりたいんだって』
だからなんで、あんなことを彼女に言われなきゃいけないんだ、俺は。
あんなのまるで……
まるであいつらとくっつけと言われているみたいじゃねーかよ……
「くそ……くそっ……!」
苛立ちが収まらなくて、勢いよく拳をベッドに打ち付ける。全力で殴りつけてやったのに、柔らかなベッドは拳を優しく受け止めて、俺の怒りを柔らかく飲み込んでいく。何度も何度も繰り返して、疲れて肩で息をし始めるようになった頃、ようやく頭が冷えてきた。
―――分かってる。
お人好しの苺のことだから、恐らく、あいつらに頼まれて断れなかったんだろう。
あいつはいつもそうだ。
みんなが嫌がるようなことでも、頼まれたらニコニコ笑って引き受けやがる。本当は欲しがっていた癖に、最後の1パックの卵を見知らぬ誰かに譲るような、馬鹿な奴なのだ。
簡単な話だ。ジュースの時のように、俺がまたあいつらに強く言ってやればそれでいい。苺の友達は、考えが足りないだけで意地の悪い奴らじゃない。俺は苺と付き合っていると、他の誰とも付き合うつもりがないことをはっきりと言いさえすれば、あっさりと俺から手を引くだろう。
ただそれだけの話だ。あいつらさえ黙らせれば、苺が俺の元に戻ってくることぐらいは、分かってる。分かっているけれど、どうにも、悔しくて……
「大丈夫?」
翌朝、ベッドの上でぼんやりしていたら、頭上から心配そうな侑の声が降ってきた。
ちっと舌打ちをして身を起こす。
そういえば昨日、レストランにキャンセルの電話を入れようとして、間違えて侑に掛けてしまったことを思い出す。「どうしたの?」という侑の呑気な声がして、それが妙にカチンときて、荒い言葉を口にしたような……
それでこいつは、俺を心配して様子を見に来たというわけか。
「何かあったの?」
本当に、お人好しなやつだ。
あの時の俺は、普通の奴なら腹を立てるような言い方をしていたと思うんだが。
「昨日は悪かったな。雛とデートの最中だったんだろ?」
「ああ、うん。まあ、クリスマスだしね」
照れくさそうに侑が髪に手を触れる。ふっと、左手の薬指にシルバーのリングが嵌っているのが見えた。
「それ、ペアリングか?」
「あ、うん……。雛ちゃんとクリスマスプレゼントってことで、お揃いのリングを交換したんだ。すっごく喜んでくれたよ」
「そうか。あいつは単純だからな。良かったな」
「ありがと」
指輪を見つめながら幸せそうに微笑む侑を見て、ぐっと羨望が込み上げてくる。
侑は、いいよな。
こいつは、妹の雛と付き合いだしてからずっと幸せそうだ。馬鹿な妹に始終振り回されていて、傍から見てると不憫に思えてくるのだが、本人は現状に満足しているようで、始終浮かれてにやついている。
だから俺は、手を伸ばしたくなったのだ。
目の前で。親友が幸せそうにしている姿を見て。
―――俺も、と。
欲が出てしまったのだ。
「麟。もしかして、野原さんと……」
「侑」
やり直しがしたかった。
苺と想いが通じて。
これで中学時代の仕切り直しが出来るのだと。
俺も、侑のように幸せになれるのだと、信じていたのに。
それなのに……。
苺は、頼まれたら誰かに俺を譲ってしまえるのだ。
「悪い。しばらく1人にしておいてくれ」
―――苺にとって俺は、所詮その程度の存在だったのか。
そう、あいつにとって俺は。ラスト1パックの卵と変わらなかったのだ。