27 月曜の異変
「おっはよー、苺ちゃん!」
「え? 琴音ちゃん!?」
月曜日。
1限の講義を受けようとして教室に入ると、そこには琴音ちゃんがいた。大きなあくびをしながら、目に涙を浮かべている。
「ねっむ。こんな時間に起きるのホント久しぶり。苺ちゃん、居眠りしてたら起こしてね」
「う、うん」
昨夜はよく眠れなくて、寝不足だったはずなのに。目の前の異変に、私の眠気は綺麗さっぱり吹き飛んだ。
いつも夜中の2時過ぎまで起きている琴音ちゃんが。
1限の講義で姿を見かけたことのない琴音ちゃんが。
私よりも先に来ている……
ううん、琴音ちゃんだけじゃない。
教室内を見回すと、グループのメンバーが普段よりもたくさん席に座っている。というかこれ……この講義を取っている子、全員いるんじゃない?
あれ? あれ? あれ?
みんな、どうしちゃったの!?
異変は1限だけで終わらなかった。2限の講義も、同じ講義を取る友人が全員教室の中にいたのだ。それだけじゃない。みんなが真面目にノートを取っている。いつも机に突っ伏して寝ている子ですら、ちゃんと起きて先生の話を聞いている……。
戸惑っているうちに講義は終わり、お昼の時間がやってきた。私は琴音ちゃんに手を引かれて、本館3階の端の空き教室に連れられた。いつもの場所だ。
そういえば私、みんなの前で逃げ出したんだっけ。
麟くんとのアレコレが衝撃的すぎて、すっかり忘れてた……
みんなになんて言われるだろうとビクビクしながら中に入ると、グループのメンバー達がずらりと並んでいて、教室に入る私にみんなが一斉に視線を注ぐ。
―――え、何この状況。
みんなが真顔でじっと私を見つめている。いつも賑やかな教室の中はしんと静まり返っていて、妙な緊張感が漂っている。
もしかしてみんな……怒ってる?
あの時私が逃げたから? それとも、その後気まずくて避けていたのが、良くなかったの!?
身構える私に、みんなが揃って頭を下げた。
「苺ちゃん、今までごめんねっ」
「へっ!?」
あれ? 謝られてる?
驚いて隣の琴音ちゃんを見ると、彼女も私にぺこりと頭を下げている。
ど、どうなってるの……
「苺ちゃん、あの時はごめんね。なおのことで意地になってて、わたし苺ちゃんのこと考えてなかった。無意識のうちに、苺ちゃんなら許してくれるかなって甘えてたんだと思う……」
「琴音ちゃん……」
「あたしもごめんね。自分で取るより、苺のノートを借りた方が分かりやすいし楽だからって、ずっと甘えてた。これからはマジメに授業に出て、自分で取るようにするよ」
「わたしも。1限だからって、だるいとか言わずにちゃんと出るようにする!」
「苺ちゃん。わたしも……色々と、無理なお願いばかりしてごめんなさい」
みんな……えみりちゃんまで……
ああなるほど、それで今日はみんな真面目に授業に出てたんだ。
みんなが、日頃の授業態度についての反省をしつつ、私に頼りきりだったことを悔いてくれている。真摯な謝罪と今朝の行動に、みんなの決意がヒシヒシと伝わってきて、感動してしまった。
「ちょっと待って、みんな。急にどうしたの?」
でも……どうしてこんな展開になってるの?
てっきり。こないだのことを問い詰められるとばかり思っていたのに……
みんなが気まずそうに顔を見合わせた。
「こないだ、麟様にはっきり言われちゃったでしょ」
「え」
麟くんの名前が出て。ドクンと心臓が跳ねる。
「言われた時はビックリしたけど、よくよく考えたらその通りだなって思って。わたしたちみんな、苺ちゃんのノートも出席も当てにしすぎてたよね」
「ジュースも、一人で買いに行かせてごめん」
「ううん……私も悪かったの」
ゆるく首を振った。
麟くんはみんなを責めていたけれど、悪いのはみんなだけじゃない。頼られてその気になって。一人で出来ることかどうかも考えずに、なんでもかんでも引き受けていた私だって悪かったのだ。
結局一人で出来なくて、麟くんに助けてもらってるし……。
『ノートが欲しけりゃサボらず授業に出て、自分で取ればいいんだよ』
あの時は、ずいぶん突き放すような言い方だと思った。でも麟くんの方が、私よりもずっと本質では親切だった。
彼の言う通りだ。授業もノートも、本来は代わりにやるようなものじゃない。本人が自分でやる方が、ずっとその子の為になる。私のしたことは……ただの私の自己満足だったのだ。
「これからは苺ちゃんに甘えないようにする。自分で出来ることは、横着せずに自分でやるようにするよ」
「分かった……。あ、でも! 本当に困った時はちゃんと頼ってよ。私で力になれそうな事があったら、遠慮なく言って!」
「うん、ありがとう!」
みんながわたしに、にこりと笑ってくれた。
私も。
麟くんに。今すごく、笑顔でありがとうと言いたくなった。
◆ ◇
土曜日の宣言通り、麟くんは放課後うちにやってきた。
今日も彼はかっこいい。気のせいか、微笑んでいるようにも見える。彼の周囲にキラキラしたものが飛んでいるように感じるのは、昼間の感動の余韻が抜けきらないせいだと思う。今の彼は、私の中では皆の意識を変えたヒーローなのだ。
「麟くん、ごめんなさい」
家の中に招き入れて。いつもの定位置に彼が腰を下ろした後、改めて私は謝罪の言葉を口にした。麟くんはまるで昼間の私のように、驚いて目を見開いている。
「は? なんだいきなり」
「この前、葉山くんと一緒にジュース運ぶの手伝ってくれたでしょ? それなのにお礼も言わずに逃げ出して……あの時は本当にごめんね」
「あ、ああ。なんだそんなことか……」
麟くんが、ほっとした様子で息を吐きだした。
その様子もまた昼間の私のようで、くすりと笑みが漏れる。
「あのね、あの時、はっきり言ってくれてありがとう。今日、みんなに謝られたんだ。ノートも出席も、今度から自分でやるってみんな言ってた」
「……そうか。良かったな」
麟くんが目を細めて私の頭をくしゃりと掻き回した。
「う、ん」
不意打ちの感触に、びっくりして言葉が途切れる。隣を向くと、思ったよりも至近距離に彼の顔があって。それがゆっくり近づいてきた気がして、私は慌てて立ち上がった。
「あ! コーヒー淹れてくる」
そういえば。
今朝の出来事ですっかり忘れていたけれど……私、麟くんとキス……したんだった……
どっ、どうしよう。どうしようってもう既にべらべらお喋りした後なんだけど。麟くんもいつも通りだったよね。悪かったーとか、気まずいなーとか、特にこれといってなんにもなかったよね。そう、まるで何事もなかったかのよう……
はっ、そうか。その、何事もなかったように振舞えばいいのか。そうだよね。麟くんが何も言わないのは、触れて欲しくないからだよね。なかったことにしたい、了解。それでいこう。
とりあえず自己完結してホッとしていたら、背後から声がした。
「お湯。もう沸いてるぞ」
わあああああっ!!!
キッチンで麟くんに背を向けてコーヒーを入れていたら、いつの間にか背後に彼が立っていた。あろうことか私の肩に顔を乗せ、後ろから作業の様子を覗き込んでいる。
えっと……なにやってんの麟くん……
「わ、分かってる……」
鍋の中はぐつぐつと音がして、大きなあぶくが幾つも浮かんでは消えている。コンロの火を止めて、取っ手に手をかけると、その上から大きな手が覆い被さってきた。
「手、震えてるぞ」
「……」
「ほんっと、お前って危なっかしいのな」
麟くんがくすりと笑って、緊張でカタカタと震える私の手ごと鍋の取っ手をひっ掴み、器用にお湯をカップに注いでいく。私はひたすら呆然としながらその様子を眺めていた。
2人分のカップにお湯を入れ、鍋を再びコンロの上に置いた後、ようやく彼の手が離れた。ホッとする間もなく、悪戯な手が今度は私の身体をぎゅうっと抱きしめる。
「気をつけろよ」
ねえ。これは何?
いったい何が起きてるの?
麟くんが、おかしい。
明らかにいつもと違う彼に、私は固まることしか出来なかった。