26 また揺れて
あれは麟くんだ。
間違いない。あんな見た目の人が他にいるもんか。
麟くんが私の知らない女の子と歩いている。顔が小さくて、手足が長くて、サラサラの長い髪をなびかせたその子は、女の私から見ても、ため息が出るような美少女だった。
麟くんよりも幾らか年下らしい彼女は、むくれた顔をしてそっぽを向いて拗ねている。そんな彼女に向ける彼の眼差しは、子供っぽい態度に呆れつつもどこか優しげで、彼女を理解して受け入れているように見えた。
―――あ。この子は、麟くんにとって特別な子なんだ。
一目見て脳が理解した。この子は私とは違う。私を相手にしている時よりも、ずっと自然体な彼の姿を見て、すぅっと心が冷えていく。
あぁ。あれはやっぱり夢だったんだ。
すとんと全てが腑に落ちた。おかしいと思ってたんだ。彼みたいな人が私を好きだなんて。それなのに私は、好きだと言われて、舞い上がって……。
思い上がりが恥ずかしい。
その好きは、友達としての好きだったのに。
麟くんたちは横断歩道の手前で信号が変わるのを待っている。私は立ち止まったまま、そんな彼たちの姿を呆然と視界に入れていた。
長すぎる信号のせいだろうか。
彼の瞳が気紛れにこちらを向いた。ふっと目が合って、その先の反応を知るのが怖くて、彼の表情に色がつく前に急いで視線を逸らして、私はその場から駆け出していた。
「おいっ、苺っ!」
――――え、なんで。
アパートとは真逆の位置に向かって走る私を、追いかけてくる足音がする。
なんで、麟くんが、ここに。
胸がざわざわと音を立てる。混乱する頭でちらりと振り返ると険しい顔をした彼が見えて、ひゅっと息を飲んでまた前を向いた。麟くんが怒っている。私を捕まえようとしている。やだ、なんで!?
さっきの彼女はいなかった。置いて行ったのだろうか。
だから、なんで。なんで……
疑問がどんどん沸き起こり、不安に変換されていく。彼と向き合うことが怖くて、足の速度を速めた。自分が今どこを向っているのか、正直良く分からない。一人暮らしを始めて8カ月ほど経つけれど、アパート付近と駅と大学、それ以外の場所はさほど詳しくないのだ。
迷路のように感じる道を先に進むと、そこは行き止まりだった。愕然として足が止まる。恐る恐る後ろを振り返ると、やっぱりそこには麟くんがいた。
硬い表情のまま、ゆっくりと私に近づいてくる。
無意識に一歩後ずさる。それ以上に彼が距離を詰めてくる。何度かそれを繰り返していると、背中に何かがコツリとぶつかった。……壁だ。
「どうして逃げるんだよ」
「だって麟くんが、追いかけてくるから」
「先に逃げたのは苺だろ。俺を見て、逃げただろ。お前はいつもいつも、そうやって俺から逃げようとする……」
そう言って麟くんが、私の左右の壁に手を置いた。すっかり囲い込まれてしまっている。ああ悔しい。いつもいつもこうやって、私は彼から逃げきれない。
「だからって追いかけなくても……。体調はもういいの? 無理したらまた倒れちゃうよ」
「熱は昨日から下がってる」
「あの子は、放っといてよかったの?」
「あの子?」
「麟くんと一緒に歩いていた、女の子」
彼が怪訝そうな顔をした。
「もしかしてお前……なんか勘違いしてないか?」
麟くんの言葉に、体がびくりと反応した。彼の疑うような視線が私をしっかりと捉えている。そんなにジッと見ないで欲しい。胸の内のすべてを見透かされていそうで、ドキドキする。
「してないよ……」
嘘。してた。
麟くんの特別は私なんだって、勘違いをしていた。さっきの光景を見るまでは、彼の一番近くにいる女の子は私なんだと思い込んでいた。
だって好きなんて言うから。期待しちゃったよ……。
「熱出して倒れた日にさ」
「うん」
「苺の声で好きって聞こえたけど、あれは?」
「あっ、あれはっ!」
やっぱり聞かれてたんだ!
「そ、それは、その……」
「苺が、俺を好きってこと?」
口ごもる私に、意地悪な彼がにやにやしながら追及する。頼むから顔を近づけないで欲しい。どんどん激しくなっていく動悸と動揺を堪えるように、手のひらをぎゅっと強く握りしめた。
目の端に、じんわりと熱いものが滲んでくる。
「りっ……麟くんこそ……好きって言ったよね……」
「あぁ。言った。好きって、俺も言ったな。で? 苺は?」
拍子抜けするくらいあっさりと、肯定の返事が返ってきた。
なんで。なんでそんなに平然としていられるの。こっちは目を回しながら反論しているというのに、なんで麟くんは、そんなに簡単に好きなんて言葉が言えちゃうの。なんで、……なんて。
そんなことくらい分かってる。
麟くんの好きは私の好きとは違うから。友達としての好きだから……だから余裕で言えちゃうんだ。
「私も、麟くんと同じだし」
ああ悔しい。
本当は同じなんかじゃない。
私のはただ誤魔化しているだけだ。
「本当か?」
指摘されてかっと頬が熱くなる。そんな私を、麟くんが真剣な顔をして覗き込んでくる。私の言葉が真実なのか、見極めようとするような彼の真っ直ぐな眼差しに、たまらなくなって目を逸らした。
「好き?」
「うん、同じ好き」
答えた瞬間、唇に柔らかな感触が降りてきた。
すぐ離れたそれに、何が起きたのかとっさに理解できなくて。目を開いたまま固まっていると、あの日の続きのように彼が柔らかく笑いながら私の顎を掬い上げ、熱い眼差しが向けられる。
「次はもう、逃げんなよ」
甘やかな彼の声が耳に響いてくらくらとする。
長い睫毛が近づいて。あ、と思う間もなくまた触れた。ぐっと押し当てられる彼の温度に、今度は嫌でも理解する。私は今、麟くんとキスをしている……
熱が離れた途端に、全身からどっと力が抜け落ちた。私は放心して、ずるずるとその場に腰を落とすのだった。
◆ ◇
悪い苺、今日はバカのお目付け役任されてるから、帰るわ。
そう言って、麟くんがこの場を去っていった。
悪いって、キスのことじゃないんだ。
麟くんの謝るポイントがよく分からない。
明日は?と聞かれたので、明日はバイトと答えておいた。
そうか、それじゃ月曜だな。
そう言った麟くんは、なぜか少し寂しそうに笑った。
バイトがなかったら、うちに来る気だったのか。
あんなに可愛い彼女がいるのに。麟くんの考えていることがよく分からない。
月曜、会うって本気なの?
あんなことをしておいて。どんな顔をして私と会う気でいるんだろ。
―――ねえ。どうして私にキスしたの?
好きの意味がはっきりして。スッキリする間もなく、私は新たな謎で心を揺らしていた。