25 夢と現実と
今、何が起きたの……?
私を掴んでいた腕は、力をなくしてくたりとベッドに倒れ込んでいる。苦しげだった呼吸はいつの間にか安らかな寝息に塗り替えられていて、ほんのりと持ち上げられた口角が、少し微笑んでいるように見えた。
今度こそ完全に眠っている。私は呆然としながら、綺麗な寝顔を穴のあくほど見つめていた。
――――今。俺も好きって、言った?
夢でも、見ていたんだろうか。麟くんに好きって言ってもらえるだなんて、ものすごく都合のいい、まさしく夢なんだけど……。
頬をつねってみたけれど、よく分からない。痛いけれど、普段ほどの痛みじゃないと言われたら、そうかもしれないとも思う。でも……
「はっきり聞こえた……」
夢じゃない……の?
やっぱりあれは、本当で。じゃあ。じゃあ麟くんも私のこと……
「お待たせ! 遅くなってごめんね、つい色々買いこんじゃって」
朗らかな声と共に玄関の扉が開く音がした。
葉山くんが帰ってきた。両手にいっぱいの買い物袋を抱えている。私を見て、彼が穏やかに微笑んだ。
「麟の側についててくれたんだ。ありがとう」
ハッとしてベッドの側から離れた。
しまった。気付くのが遅れた。麟くんを見つめていたところ、葉山くんに見られた……?
「あれ? どうしたの真っ赤な顔をして。まさか、麟の風邪がうつったんじゃ……」
「へっ?」
「大変だ! 早く帰って寝た方がいいよ。麟なら大丈夫、後は僕が面倒見ておくから」
「え、あの、その」
「巻き込んでほんっと、ごめん。そうだ、これ持って帰りなよ。あぁ気にしないで、たくさん買っておいたから麟の分はまだまだあるんだ」
葉山くんは大まじめな顔をして、私におでこを冷やすジェルシートを差し出した。明らかに勘違いをされている。
心配かけてごめんなさい、この赤い顔は違うんです。
でもほんとのことなんて言えない……。
「あ、どうも。タスカリマス」
ぎこちない笑みでカクカクと頷く。
こうして私は。土産片手に、半ば強引に家に帰らされるのだった。
◆ ◇
翌日の金曜日。
2限の講義を終えた後、私は別棟の食堂まで足を運んでいた。
麟くん、いなさそうだな……
あの独特の騒ぎ声が今日は全く聞こえてこない。どうやら今日はお休みのようだ。まぁ、昨日の今日だし。おそらくまだ熱が引かないのだろう。
がっかりしたけれど、それ以上にほっとしている自分がいる。
昨日の件で、思い切って話をしようと思ってここにきた。私の気持ちは聞かれてしまったのか。麟くんの答えは、私と同じだったのか。はっきりさせたくて、けれどやっぱり、どこか怖くもあったのだ。
……あれは、夢だったんじゃないかって。
ふ~と息を漏らしていると、背後から声をかけられた。
「あ、苺ちゃん!」
「ひゃっ!」
「1人? お昼まだなら一緒に食べようよ」
恐る恐る振り返る。まもるくんだ。今日もパッと見は優しい笑顔の好青年に見える。にこにこと実にご機嫌そうだ。
「私、お弁当なんで……食堂では食べないんで……」
「そうなんだ。じゃあ、おにぎりでも買っていこうかな。2人で空き教室に行こう」
ひえっ!
やだ怖い。2人きりで空き教室、怖いよ!
「ちょっと待ってて。買ってくるから」
「あ、まもるくん!」
「ん?」
……ううん、怖がっている場合じゃない。
ちゃんとお断りをしないと。その気もないのに、ずるずると返事を伸ばしていては駄目だ。日が過ぎれば過ぎるだけ、まもるくんに無駄な期待をさせてしまう……
「この前の、返事なんだけど」
「付き合ってくれる気になった?」
まもるくんがパッと表情を綻ばせた。
キラキラとした眼差しに、思わず一歩後ずさる。
うっ。その期待に満ちた瞳、やめて……!
「あの、私まだ例の彼が忘れられなくて……」
「だろうね。そんなに簡単に切り替えられないよね。分かってる。大丈夫、ゆっくりでいいよ。付き合っていくうちに、オレの事好きになってくれたらいいから」
ううっ。にっこり笑わないでよまもるくん。
断りにくくなるじゃない……!
でも。でもはっきり言わなきゃ。
拳をぐっと握り締めて、ごくりと喉を鳴らす。心を鬼にし、まもるくんの目をしっかりと見つめて、口を開けかけたその瞬間、聞き覚えのある声がした。
「お、まもるじゃん!」
「なお」
「これからメシ? 一緒に食う?」
「やめてくれよ。オレ苺ちゃんと2人で食べるから、邪魔すんなよな」
「ん?……邪魔?」
なおくんが視線をつつつと動かした。
私に気付いて、にやにやしながらまもるくんの肩をバシバシと叩く。
「なんだ、上手くやってんじゃん。良かったなー!」
「まあね」
あの、私、これからお断りするところ……
どっと冷たい汗が吹き出してきた。
「苺ちゃん可愛いし、気に入ったよ。サンキュ、なお。オレに話回してくれて、マジ感謝してる」
「いや~、俺もお前が幸せになってくれたようで嬉しいよ。これでも心配してたんだぜ」
「なお……」
2人が感極まった顔をして見つめあっている。
なにこの、感動のシーン風味……
え? え? 私、この雰囲気の中、お断りしなきゃいけないの!?
辛い。満面の笑みを浮かべる2人を見るのが、辛い。この明るい空気を、数分後に私が粉々に砕くのだと思うと、胸がチクチクと痛んでくる。
ここで私がごめんなさいって言ったら……2人ともがっかりするのかな……
「さすが俺だな。この子、まもるにピッタリだと思ったんだよな。どう? ミカちゃん忘れられそうか?」
「だから苺ちゃんの前でそういうこと言うなよ。大丈夫、お互い過去に出来るよ―――――ね?」
にっこりと笑って同意を求められて。私は、ぴしりと固まることしか出来なかった。
◆ ◇
私のバカ……
あの後、まもるくんと空き教室で味のしないお弁当を食べながら、私に言えたのは、もう少し待って欲しいという先延ばしの言葉だけだった。
「うっ……」
麟くんの評価は正しかった。私は正真正銘のバカだった。
まもるくんとなおくんの嬉しそうな顔を見て、それを壊す勇気が持てなかったのだ。
要は、逃げた。
「バカバカバカ……」
枕に顔を埋める。
昨日、うっかり告白しておいて良かった。麟くんからの好きがなかったら、先延ばしすら出来ずにOKしてしまった気がする。雰囲気に押し流されて……
危ないところだった。
「麟くん……」
私のこと好きって、本当なの……?
昨日からずっと心が揺れ動いている。彼の言葉を思い出して浮かれては、何かの間違いではないかと不安に襲われている。その繰り返し。
だって麟くん、ずっと女の子に興味無さそうだったのに。
私のこと、色気皆無の馬鹿なチビ子だなんて言ってたのに。
なぜ?とか。いつから?とか。
考えれば考えるほど、夢だったと言われた方がしっくりきてしまう。
それでもやっぱり期待する。
あの時の優しい目と、柔らかな笑みが焼き付いて離れない。彼の好きが頭の中でこだまする。あの時の彼を、信じたくてたまらない……
会いたい。
会って、はっきりと聞きたい。あの好きが、現実であってほしい。
今日は結局、彼の姿を見なかった。家で安静にしているのだろう。熱、下がったかな。月曜には会えるといいな。
じりじりとした夜を過ごして。不安を感じつつも、この時の私はすっかり期待に染め上げられていた。
◆ ◇
月曜までが遠い……
もどかしさを感じたまま朝を迎え、すっきりしないまま朝食のトーストを口に運んでいる。今日はまだ土曜日だ。この焦れた感情をあと2日も持て余すのかと思うと、辛い。
身体の方は全くの無事だった。打ち付けた痛みはすっかり消えてなくなっているし、熱もない。葉山くんにジェルシートを一箱頂いたけれど、活躍しないで済みそうだ。
「今日もバイトを入れるべきだった……」
食後の後片付けをして、洗濯を終えたところで早くもやることが無くなった。正確に言えば、無心で体を動かせることがなくなった、というべきか。
こういう時に限って、あんずもこももも来てくれないしなぁ。
携帯片手にベッドにダイブする。
双子相手にポチポチとメッセージを打ってみた。
あまり間を置かずに返信が返ってくる。それにまた、メッセージを返す。話の内容はどうでもいいようなことばかり。それでも普段と変わらない2人のメッセージを読んでいるうちに、幾分気持ちが落ち着いてきた。
『そうだ。苺ねえ、いいものあげる』
しばらくやり取りを続けていたら、唐突に、あんずからメッセージと共に一枚の写真が送られてきた。
こ、これは……麟くんの高校時代の写真……!
入学式にでも撮ったのだろうか。真新しい制服に身を包んだ、今よりも幼い顔の麟くんが写っている。この制服は麟くんの通っていた高校のものだ。
でも、どうしてこんなものをあんずが……
『麟にいに貰ったの。いいでしょ。制服姿かっこいいよね♪』
『貰ったの、って。え? ええ!?』
あんずったら。麟くんと本当にメッセージのやり取り、してたのかぁ!
いやその前に。麟にいって何……
『あたしからもプレゼントだよ♪』
困惑していると、今度はこももから写真が送られてきた。こちらも麟くんの写真だ。こっちは……中学の体育祭の時のやつ……
なんでこんなの貰ってんの!
2人とも、すっかり麟くんと仲良くなってるし。
『麟にいなら大丈夫、熱は昨日のうちに下がったって言ってたよ!』
え? こもも!?
『麟にいに会えなくて寂しかったんでしょ。苺ねえから用もないのにメッセとか珍しいよね』
は? あんず!?
『これ見て元気出してね、苺ちゃん♪』
2人とも、なんでそんなに詳しいの!
「はぁ……」
お気に入りのコートを羽織って外に出た。
さすが12月。天気はいいのに外の空気はやっぱり冷たくて、ポケットから露出しているとすぐに手がかじかんでくる。
双子とのメッセージは、からかわれモードに突入したため強制的に終わらせた。あの2人とやり取りしていると、時折どっちが姉なのか分からなくなってくる。
ああでも。2人とも、私の様子がおかしいと思って心配してくれたんだよね。
麟くんといい。双子といい。からかってくるのが玉に瑕だけど、基本的にはみんな私に優しいのだ。
しかし。
私が、少しでも元気になるようにって、考えたのがこれかぁ……
「かっこいいし……」
歩きながら携帯に写る写真をじっと眺めてみた。中学時代の写真は懐かしくてキュンとしてしまうし、高校時代の写真は制服姿が眩しい……
ああっ。しっかり元気になってる自分が恥ずかしい!
麟くん……早く会いたいな。
好きって言ってくれたよね。
私の思い上がりじゃないよね。
フリじゃなくて。今度は、本当の彼女になってもいいんだよ、ね……?
ドクン、と心臓が反応をする。
信号が赤から青になって、私は慌てて携帯を閉じてカバンの中に入れた。横断歩道を渡り、いつものスーパーへ足を運ぶ。ふわふわ、浮かれていた足取りは一瞬にして重たいものに変化した。
道路の向こう。
麟くんがスーパーの袋を抱えながら、可愛い女の子と並んで歩いている。
のぼせ上っていた私の頭が、冷水に打たれたように、一気に温度をなくしていった。