24 葉山くんといちごオレ
パタパタと、階段を駆け下りる足音が聞こえてきた。
「……っつ」
視界は真っ暗闇の中。ところどころ、打ち付けたのか手足が痛む。階段から転げ落ちたのだから当然か。
頭部に痛みを感じないのは、麟くんがとっさに守ってくれたからだろう。後頭部に彼の腕が絡まるような形で、私は麟くんに抱きすくめられていた。
彼は気を失っているのか、ピクリとも動かない。大きな身体が私の上にのしかかっていて、苦しい。ここから脱出しようにも、体格差と重みのせいで身動きが取れないでいる。完全に埋もれてしまっている。
「ちょっと待ってね。今、麟をどけるから!」
葉山くんの慌てた声がして、次第に肺にかかる圧迫感が薄れてきた。視界に光が差して、ふぅと息が漏れる。
「大丈夫? 重かったでしょ」
「ありがとう……」
麟くんの下から抜け出して、そろそろと起き上がる。身体中に痛みは感じるものの、手足を挫いた様子はない。ざっと見回してみたけれど、どうやら怪我もなさそうだ。よく見ればあざぐらいは出来ているかもしれないけれど、おおよそ無事と言っていい状態だと思う。
「頭は打ってない? 怪我は?」
「私は平気。それより麟くんは……」
地面に伏せたままの彼に、無言のまま2人で視線を向けた。麟くんはちっとも起き上がらない。
「麟、大丈夫? 麟っ」
葉山くんが麟くんの側にしゃがみ込んだ。鼻先や口元に指を当てて、息が当たるのを確認してほっとしている。それから肩を叩いて、耳元で声をかけていたけれど、特にこれといった反応は見られなかった。
伏せられた長い睫毛と白い肌。人形のように整った綺麗な顔を見つめていると、段々不安になってくる。なんだか、生きているように見えなくて……
不安になる。思わず、麟くんの肩に手を触れた。
「ねえ、起きてよ。ねえ!」
「あ、ゆすっちゃダメだよ!」
「ごっ、ごめんなさい」
パッと手を引っ込める。
「ん……っ」
麟くんが身じろぎと共に小さなうめき声を上げた。少し開いた唇から、はぁ、と熱い吐息が漏れる。
あぁよかった。生きてた。
でもなんだか苦しそう……
もしかして熱でもあるのかな?
そっと額に触れてみる。
「あつい……」
「熱があるんだよね。昨日も少し変だったし、こんなことなら無理にでも帰らせれば良かったな……」
「え、昨日も?」
「まあ、変といえば、ここんとこずっと様子が変なんだけど」
熱って、昨日からあったの?
それって。それってまさか……
「こんなところで寝かせるわけにもいかないし。とりあえず、僕の家まで運ぶか」
葉山くんが麟くんの腕を取り、背中に負った。2人分のカバンも両手に抱えて立ち上がり、よろよろと拙い足取りでロビーに向かおうとする。
重そうだなぁ。身長といい体型といい、標準的なサイズの葉山くんに、細身だけど背の高い麟くんを運ぶのは辛そうに見える。大丈夫かなぁ……
心配になって後ろを歩いた。階段を降りる時に、葉山くんの身体がぐらりと揺れかけたので、とっさに腕を伸ばして支える。
「危なかった……。ありがとう」
「ううん。葉山くんだけじゃ大変でしょ、私も手伝うよ」
「いいよいいよ、悪いし。僕の住むアパート、ちょっと遠いんだよね」
「うん、知ってる」
「え?」
葉山くんの手から2人分のカバンを受け取った。自分の分と合わせて3人分。重たいけれど、麟くんに比べるとまだまだ軽い。
葉山くんが私をじっと凝視して、眉を寄せた。
「……あれ? そういえば君、どこかで会ったことがあるような……?」
ええ。たまにお見かけしています。
主に、自転車置き場にて。
◆ ◇
意識の外にある人間というものは、意外と記憶にないようだ。
同じアパートの住人だと告げると、葉山くんは少し考え込むような顔をしてから、「そういえば」と言い出した。同じ中学の同級生でもあると追加で告げると、そこで初めてはっと目を開かれた。
葉山くんと和やかな会話を交わしながら、見慣れたアパートに帰ってきた。いつもは使わない階段を上っていく。葉山くんの部屋は2階の奥から2番目の部屋だった。
「カバンの表ポケットにキーケースが入ってるんだ」
「えっと、これ?」
ポケットを探っていると、何かが手にぶつかって、愛らしい鈴の音が聞こえてきた。
取り出すと、シックな色合いのキーケースが現れた。その端っこには、苺をモチーフとしたポップなデザインのキーホルダーがついている。ものすごく似合わない取り合わせだ。
このキーホルダーは見たことがある。実家の近くにあるショッピングモールにも出店している、若い女の子に人気の雑貨屋のものだ。
「可愛いキーホルダーだね。葉山くん、こういうのが好きなんだ」
「あっ……それは、彼女の趣味でその……」
葉山くんがパッと顔を赤らめた。
そういえば、麟くんの妹さんと付き合っているんだっけ。
仲、いいんだなぁ。
ケースから鍵を取り出して、扉を開けた。入口付近に3人分のカバンを置いてから、麟くんの靴を脱がせる。部屋の中に入り、ベッドの上に麟くんを横たわらせると、葉山くんがふうと息をついてカーペットの上に座り込んだ。
「ありがとう、助かったよ」
「お疲れさま。これ、良かったらどうぞ」
私は自分のカバンの中から、いちごオレのペットボトルを取り出した。2人と会う直前に仕入れていた品だ。
「え、いいの?」
「うん。昨日のお礼」
何のことか分からないという顔をして、私の差し出したペットボトルをじっと見つめている。
「昨日はありがとう。すっごく助かったよ。……その、お礼も言わないままでごめんなさい」
「いや、僕は全然大したことしてないから。それは、麟にあげて?」
「ううん、麟くんの分もあるの! これは葉山くんの分だよ」
カバンの中からもう一つ、いちごオレのペットボトルを取り出してテーブルの上に置いた。いちごオレ。わりかし好きなんだけど……よく考えたら、コーヒーとかの方が良かったかな……。
「ありがとう、貰っとくよ」
私の不安は杞憂だったようで、受け取ったいちごオレを見つめて、葉山くんがあからさまに表情を緩ませた。よっぽど好きなのかな。笑顔というよりは、ニヤついているように見える……
「いちごオレ、そんなに好きなの?」
「あっ」
若干引き気味に見ていると、葉山くんが私の視線に気づいてハッと表情を引き締めた。いちごオレをテーブルの上に置いて、恥ずかしそうに目を逸らす。
「彼女が、これ大好きなんだよね」
「そうなんだ。苺が好きな子なの?」
「うん。なんでも苺なんだよねえ、雛ちゃん」
うっわぁ……ラブラブだなぁ……
嬉しそうに微笑みながら、葉山くんがどこか遠くに目を遣っている。苺好きの彼女を思い浮かべているのかな。葉山くんの幸せそうな顔を見て、無性に羨ましくなってきた。
いいな。いいなぁ。
私もこんな風に麟くんと付き合えたらいいのにな……
「あっ、そうだ」
葉山くんが弾かれたように立ち上がった。
冷蔵庫の中を開け、中身を見回して渋い顔をした。
「あのさ、申し訳ないんだけど……しばらく麟の様子を見ていてくれないかな?」
「え? いいけど、どうしたの?」
「ちょっと買い出しに行ってくる。うち、今何もなくてさ……ほんとごめんね、僕が帰ってくるまででいいから、お願い!」
ベッドの上に目を遣った。大きな体が横たわっている。麟くんの白い頬がのぼせたように赤らんでいて、潤んだ唇からは悩まし気な吐息が漏れ続けていて……
私の心臓が、どくりと大きく跳ね返った。
◆ ◇
葉山くんが去ったあと。玄関の扉に何度か目を遣って、戻ってくる気配がないのを確認してから、私はゆっくりと彼の眠るベッドに近づいた。
「大丈夫……?」
返事の代わりに、聞こえてくるのは荒い吐息ばかりだ。辛そうな彼に何かしてあげたいけれど、他人の家を勝手に漁るのもためらわれてしまう。
それでも、少しでも楽になって欲しくて、私は自分のハンカチを濡らして絞り、汗ばむ額の上に置いてみた。
ひんやりして、気持ちいいと感じてくれたらいいな。
ベッドの端に腕をかける。そのまま、彼の寝顔をじっと見つめてみる。ベッドの上の麟くんは、熱のせいか壮絶な色気を放っている。気を付けないと、吸い込まれてしまいそうになる。
「ねえ。昨日も熱があったの……?」
問いかけに返事はない。高熱で意識が朦朧としていて、なにも聞こえていないのだろう。それでも私は、言葉を綴らずにはいられなかった。
「もしかして、あの日のせいなの?」
一昨日の夜、麟くんはアパートの外廊下で立っていた。とても寒い夜だったのに、ずっと私の部屋の前にいた。あの時の麟くんの手……氷のように冷たかったな……
「どうして、あんなところで立ってたの」
今日はダメって言ったのに。夕飯食べに行くって言ったのに。あんなところで何時までも立っているから、風邪を引いてしまったんだ。
あの時、無理やりにでもうちの中に引き込めば良かった。泊まりたいのなら、泊まっていけば良かったんだ。私は傷ついたかも知れない。けれど、麟くんにこんなに苦しい思いをさせるくらいなら、そっちの方がずっといい。
「まさか、ショックだったの? 麟くんじゃなくて、まもるくんを取ったから?」
まさか。それこそまさかだ。
ああ、だけど。
あの日駅に行く私を、彼は茫然と見送っていた。
あの時の彼は、何を思っていたのだろう。
「……ねえ。麟くんはどういうつもりなの。私のことを……」
相変わらず反応のない唇に、指先を伸ばして。あと少しというところで、手を止めた。
2人きりの部屋の中、カチコチと時計の鳴る音が響いてくる。それに負けないボリュームで、私の心臓もドキドキと鳴り響いている。
彼のまぶたは閉じられていて、長い睫毛が伏せられている。麟くんに意識はない。今なら、何を言っても夢のせいで赦されるような気がした。
「私は」
もう一度じっと彼の寝顔を見つめた。たくさんの女の子を虜にしてきた、桁外れに整った綺麗な顔。
ごめんね、私もみんなと同じなの。
ずっと。ずっとずっと……
「好きだよ。麟くん」
小さな声で呟いた。時計の音に隠されて、自分でも上手く聞き取れないようなか細い声だった。
吐き出したら、少しだけ胸がすっとした。伸ばしかけていた手を引っ込めようとして、身体を震わせる。
さっきまで伏せられていた麟くんの目が、ぱっちりと見開いている。彼は私をじっと見つめながら、逃げようとした手首を掴んだ。その力が思いのほか強くて、全身からさあっと血の気が引いていく。
嘘……起きてた!?
真っ青になって、ひゅっと息を飲む。泣きそうな顔をした私に、麟くんがびっくりするほど優しい目を向けた。
「……俺も好き」
――――――――え?
彼が柔らかく微笑んで、再び目を伏せた。