23 逃げ出したくて
2人を連れて、私はみんなの待つ教室まで戻ってきた。
「苺ちゃん、お帰りぃ!」
「待ってたよ~! ねえねえコーヒーパスして、パス!」
「遅かったじゃない、苺。さあ、さっきの話の続きを……って、え…………」
グループのメンバーたちが私に気付いて明るい声を上げ、それから、私の背後に立つ人物にゆっくりと視線を移して、時を止めた。
やっぱり驚いちゃうよねえ。
こうなるって分かっていたけど、気まずい……
「1人で抱えきれなくて困っていたら、こ……この人達が、手伝ってくれたんだ」
なんでもないフリを装いながら、机の上にドリンクを並べていく。相変わらず私のセリフはぎこちないけれど、半分も耳に届いていなさそうだ。みんな、ぼーっとした顔をして麟くんを見つめている。
葉山くんも私と同じように、手にしていた飲み物を机の上に置いていく。麟くんだけが、なぜかドリンクを抱えたまま、自分に向かう視線を冷ややかに見回していた。
「そ、そうなんだ……麟さまって優しいんだね……」
「良かったね苺ちゃん……」
みんなからジロジロ見られて、不快に感じているのだろうか。麟くんがやけに不機嫌そうな顔をして、じっとしている。
どうして動かないの?
早く飲み物下ろしてくれないかな。麟くんがこの場から去ってくれないと、この居たたまれなさから解放されないよ。
じれた私は麟くんの腕の中からドリンクを取ろうとして……伸ばしかけた手がピタリと止まった。
「良かったね、ってなんだよ」
地の底を這うような、低い声。
びっくりして隣を仰ぎ見る。
麟くんは鋭い目つきでみんなを睨みつけていた。
「他人事みたいに言うんじゃねえよ。お前のジュースもこの中に混ざってんだろ? なんでこいつ一人に買いに行かせてんだ。持ちきれなくて、落としまくっていたんだぞ」
急に、どうしたの……?
「あの、麟くん? 違うよそれ、私が1人で行くって言ったから……」
「違わない」
よく分からないけれど、麟くんがものすごく怒っている。私のことで……
教室の中が静まり返っている。友達はみんな、呆気に取られて言葉を失っている。麟くんはすっかり目を据わらせていて、その隣で葉山くんだけが、神妙な顔をしながらうんうんと頷いていた。
「一人で持てる量かどうかくらい、ちょっと考えりゃ分かるだろ。お前らみんな、こいつに甘えてんじゃねーよ。こいつがなんでも言う事聞くからって、なんでも押し付けていいと思うなよ。少しは迷惑くらい考えろ、苺を、都合よく使おうとするなよな!」
どうして。
どうして麟くんが、そんなに真剣な顔するの。
「お前もちゃんと断れよ。こんな、なんでもかんでもホイホイ引き受けんな」
彼が私に視線を向けた。真っ直ぐに私を見据える麟くんは、なぜか辛そうに見えて……
胸が、きゅっと苦しくなってくる。こんな彼の姿を、私はいつか見たことがある。
『なんでもかんでもホイホイ引き受けてんじゃねーよ、こんの馬鹿イチゴ。そんなだからお前ばかりが雑用押し付けられるんだ』
……ああ、あの頃も。あなたは私に、似たようなことを言ってたね。
誰もいない放課後の教室で。先生に頼まれた用事を、麟くんが見かねて手伝ってくれていた。あの時も彼は腹を立てていた。私のために怒ってくれていた。
麟くんは、ちっとも変わらないね。
いつもいつも私を助けてくれて……こうして心配までしてくれる……
だから私は。
こんなにも、苦しい。
「やめてよ! 私全然、迷惑じゃない!」
「あっ、おい!」
たまらず教室を飛び出した。次の講義はさっきの教室で始まるというのに、私は廊下を駆け抜けていた。あの場から逃げ出したくて。麟くんから、逃げ出したくて。
やめて。もうやめて。
そんな風に優しいから、好きになっちゃうんだ。期待しちゃうんだ。友達のままでいたかったのに、いられなくなってしまったんだ。
みんなよりも。麟くんの優しさの方がずっと、迷惑だよ。嫌だよ。やめて欲しいよ。麟くんのせいで、私はどんどん苦しくなっちゃうよ……!
後ろから私を呼ぶ声が聞こえてくる。腕の中に抱えていた飲み物を机の上におろす分だけ、タイムロスが生じていたのだろう。彼に追いつかれるよりも早く、私は自転車置き場にたどり着くことができた。
さよなら、麟くん。
私は泣きそうになりながら、ペダルを踏みしめていた。
「あっ、苺ちゃん行っちゃった」
「帰っちゃったのかな?」
「え~、次の3限、代返頼もうと思ってたのにぃ!」
「あたしも次、サボろうと思っていたのになぁ」
「苺ちゃんが出ないなら、今日の分のノート、あてに出来なくなっちゃったね」
「…………」
「わたしたち、ちょっと甘えすぎていたのかなぁ……」
―――初めて講義、サボっちゃった。
家に戻って。ベッドの上で毛布に包まりながらひたすら泣いているうちに、少し眠ってしまったようだ。布団からひょっこり顔を出すと、外はすっかり薄暗くなっていた。
もう夕方だ。時計を見れば17時を少し回っている。
麟くんが訪ねてきても、絶対に出るもんか。
そう思っていたのに……結局鳴らなかったな。チャイム。
つきりと胸が痛む。
さすがに、彼も呆れてしまったのだろう。麟くんは友達の為を思って言ってくれただけなのに……私は彼の好意を無下にして、逃げだしたのだ。
布団の上に、再びごろりと背を乗せた。すすけた天井が目に入る。
「はぁ」
飲み物、運んでくれたのに。お礼も言ってないや。
「はぁ……」
怒ってるだろうな、麟くん。
「…………」
……わかってる。悪いのは、私の方だ。
麟くんはなにも悪くない。私が勝手に好きになって、勝手に苦しんでいるだけなのに。
親切にしてくれた彼に、私は八つ当たりをした。
ベッドの上からむくりと起き上がる。
ぐしゃぐしゃの頭をすっきりさせたくて、シャワーを浴びた。温かいものに打たれているうちに、また少し気持ちが落ち着いてきた。
「…………明日、謝ろう」
手伝ってくれたお礼と、謝罪。
さよならの前に、せめてそれだけは告げておこう。
◆ ◇
翌日。私は教授が教室に入るのと同じタイミングで後ろの扉から中に入り、端の席にこそこそと移動した。
昨日の件が非常に気まずい。問い詰められたら取り繕える気がしない。とりあえず、言い訳と心の準備が出来るまで、グループのメンバーとは距離を置いておこう。
講義が終わると、そそくさと教室から抜け出す。
みんなと顔を合わせないで済むように、お昼ご飯は別棟の空き教室で食べることにした。
「っ!!」
お弁当を食べた後、別棟のロビーに設置されている自販機でペットボトルを2本購入していると、ざわつきと共に女の子たちの黄色い声が聞こえてきた。
麟くんだ。
さっと柱の陰に隠れる。昼食を終えたのだろう、葉山くんと一緒に、食堂からこちらに向かって歩いてくる。
……あれ、どうしたんだろ?
じっと彼を見つめて、首を傾げた。いつも桁外れにカッコいい彼だけど、今日の麟くんにはそれに加えて妙な色気が漂っている。白い頬がうっすらと上気して赤みを帯び……瞳が少し潤んでいるように見えた。
まさか……具合でも悪いのかな?
そろりと後を追いかける。昨日の事を謝りたい。けれど彼は目立つから、こんなに人の多いところでは話しかけにくい。このまま2人の後にくっついて行き、人気がなくなるタイミングを狙って声をかけることにしよう。
前方を歩く麟くんは、どことなく体がふらついているように見えた。隣にいる葉山くんが、時折「帰りなよ」と声をかけている。それを鼻であしらって、麟くんが階段の方へと向かっていく。
大丈夫かな……
2人の後に続いて私も階段を上っていく。2階から3階へ上っていく途中で、不意に麟くんが振り返った。視線がぶつかって、虚ろだった彼の瞳がぱっと見開かれていく。
わわ、近寄りすぎた!
心臓がバクバクと音を立てている。2人が教室に入った後で、話しかけに行こうと思っていたのに……。いつもと様子の違う彼に、心配になってじっと見つめているうちに、距離が詰まりすぎていたようだ。
こうなったら今、言わなきゃ。
心の準備は出来てないけど仕方ない。
昨日はありがとうって。ごめんなさいって、言わなきゃ……
「えっ」
麟くんが、何かを言いかけながら私に向かって手を伸ばした。階段を降りようとしたのだろうか。ごくりとのどを鳴らした次の瞬間、麟くんの足が空を切り……彼の身体がぐらりと揺れた。
「麟っ!」
階段の上から、葉山くんの叫び声が聞こえてくる。
え、なに?
どうしたの麟くん。
大きな身体が、どんどん視界いっぱいに広がってきて…………
「きゃああぁぁぁぁっ……!!」
180センチ超の黒い影が、私の上に降りかかってきた。