21 腕の中の温もり
麟視点です
人生初の告白は、青くて拙いものだった。
それでもなんとかOKを貰えたのに、俺の幸せは一週間しか続かなかった。
告白の翌日は、ただひたすら浮かれていたと思う。
朝は苺の家まで迎えに行き、一緒に登校というベタなことをしてニヤついていた。これからは放課後だけの関係じゃない。手助けという大義名分がなくても、堂々と側に居られるのだ。嬉しくて嬉しくて、たった10分の休み時間ですら一緒に過ごしたくて、授業が終わると同時に苺の席へ向かっていた。
当時の俺は、2人の関係を隠そうなんて思いもしなかった。むしろ積極的に見せつけて、俺に寄ってくる女や、逆に苺に寄ってくる男がいなくなればいいとすら考えていた。
俺の認識が甘かったことに……気付いた時にはもう、どうしようもなくなっていた。
それは付き合いだして、3日目の朝のこと。
いつものように苺と他愛もない話をしながら登校し、下駄箱に辿り着くと、そこで苺の動きがピタリと止まった。
「あれ、上靴がない」
その言葉に、ざわりと胸騒ぎがした。
「誰かが間違えて、履いて行っちゃったのかな……?」
「かもな。まあ、そこで待ってろ。職員室に行って、スリッパ借りてきてやるから」
「うん、ありがとう」
上靴がないなんてありえない。
名前だって書かれているものなのだ。ましてや、苺の上靴は皆と比べてもサイズが極端に小さい。誰かが間違って履いていく訳がない。
誰だ。誰がこんな事をした。
職員室に向かう前に、近くにあったゴミ箱の中をこっそり覗き込んでみると、野原苺と書かれた小ぶりの上靴が、紙くずに紛れて乱雑に捨てられていた。
「向こうの棚ン中に入ってたぞ。昨日の帰り、入れ間違えたんだろ」
「えぇ? そうだったかなぁ……」
「ぼーっとしてたんだろ。まあ、もう行こうぜ」
苺には事実を隠して、なんでもないフリをして差し出した。
その日は一日中、俺は事件について考えていた。犯人に心当たりは、あると言えばあるのだが、個人の特定までは出来ないという微妙な状況だった。この事件で少し冷静になった俺は、改めて周囲を見回して、苺を取り巻く状況に気が付いたのだ。
クラスの女たちが、苺を睨みつけている。
間違いない。犯人はこの中の誰かだ。いや、もしかしたら余所のクラスのやつかも知れない。確実に言えるのは、俺に近づきたがっている女の仕業という事だ。
どうしたら苺を守ってやれるのか、考えた末に、俺は今まで以上に女に冷たくし、逆に苺には甘く接する事にした。
2人の仲を徹底的に見せつけて、どうやっても割り込めない関係なのだと奴らに理解させるのだ。騒がしい女どもに、冷たい態度を取っているうちに、奴らの矛先はそのうち俺に向くだろう。
みんなの前で手を繋ぐ。さり気なく苺の肩を引き寄せる。周囲には氷点下の眼差しを向けつつ、苺にだけは優しく笑いかけて……そうして俺は、ひたすら苺の側にいた。
けれど。俺の思惑通りに事は運ばなかった。
あいつらは、それでも苺に仕掛けてきやがったのだ。
ずっと側にいて、苺を守ってやるつもりでいた。けれどどうしても、側にいてやれない時間が発生してしまう。体育の着替えやトイレに行く時、掃除などの班別行動時など、俺と離れる僅かの隙を狙って、あいつらが苺に醜いセリフを吐いている。
「お前ら、苺になに言った」
何度かは気付いて、割って入った。
けれどあいつらは、集団になると態度がでかくて気が強くなる。俺がいくら睨んでも、鋭い言葉をぶつけても、まるで気にも留めやしない。吐き気がするような媚びた笑みを俺に向けながら、見え透いた嘘を平気で吐いてくる。
「やっだぁ、麟くんったら。なに怒ってるの?」
「私たちお喋りしていただけよねえ……ねえ、苺ちゃん?」
嘘つけ!
さっき苺に、いい気になるなとか言ってたじゃねーか。
しっかり聞こえていたからな。
これが男子なら、容赦なく蹴り上げているところなのだが……さすがに、女子に手をあげるのは躊躇うものがある。苺も事を荒立てたくないのか、『なんでもない』と必死で誤魔化そうとする。そう言われると、俺もそれ以上何も言えなくなってしまう。
首謀者が1人なら、まだ対処の仕様もあった。けれど相手はその時々によって違っていた。苺を妬む女の数は、普段俺がウンザリしている数と同じだけ学内にいたということだ。
不特定多数の女達から、苺が攻撃を受けている……
「苺?」
「傘がね、見あたらないの。誰かが勝手に、私の傘借りていったのかな?」
今日は朝からひどい雨だった。
持ってきてないやつなんて、いるもんか……
「じゃあ俺の傘に一緒に入るか」
「う、うん」
「もっとこっちこいよ。濡れるだろ」
くっそ……
「あれ?」
今度はなんだ。
「どうした、苺」
「数学の教科書がないの。おっかしいなぁ、持ってきたはずなのに。どこにいったんだろ……」
くそ……キリがねえ……
「やっぱいいわ苺。悪かった。―――もう別れよう」
俺は諦めた。
たったの1週間だった。
側にいて守ってやりたいのに。
俺は結局のところ、離れることでしか苺を守ってやれなかった。
◆ ◇
ぎこちなく手を振って、俺から去っていく苺を引き止めることも追いかけることも出来ずに、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
古いアパートの外廊下。開かない扉を視界に入れる。苺が俺以外の男と会おうとしている。その事実を、ゆっくりと脳が噛みしめる。
どうして、上手くいかないんだ。
再会直後と比べると、2人の距離は確実に近付いていると思っていた。好意の種類はさておき、俺はそれなりに苺に好かれているはずだ。そうでなければ、俺を部屋に入れたりしないだろう。
あいつには今、恋人もいなければ好きな奴がいる様子もない。それなのに、何度誘いかけても苺は俺を選ぼうとしない。それどころか、紹介って……
彼氏が欲しいなら俺がいるのに。なんで、他の男と……
なんで、じゃねーよな。
「そりゃ、あんなの2度と御免だよな……」
苺は、まだ怖がっている。
俺が側にいる事を。それを皆に知られることを……恐れている。
俺だって2度とあんな目に遭わせたくはない。
いざとなれば守るつもりでいるのだが、そもそもあの時のような状況にはならないと俺は踏んでいる。
今思えば、あいつらが苺を虐めていたのは、俺のことが好きだからじゃなかった。みんなのものだった俺が、苺1人のものになることが許せなかっただけなのだ。
大学生になってまで、そんな子供染みた理由で虐めをする奴がいるとも思えない。
そう、俺たちはもう大学生なのだ。いつまでも未熟な中学生のままじゃない。嫉妬から良からぬ感情を抱くことがあったとしても、行動にまで移す奴はそういないだろう。仮に誰かが何かを行ったとしても、あの頃のように周囲がそれに追随しないだろう。
それに大学は、中学や高校のような閉鎖的な空間ではない。毎日のように決められた場所で、決められたメンツと、逃げられない関係を送るしかなかった中学時代とはワケが違う。
今なら苺とやり直せるんじゃないか。そう思ったからこそ再び近づいたのに……
「俺と一緒にいる所を、友達にすら知られたくないって……そういうことだよな……」
久し振りに会う苺は、ちっとも変わっていなかった。相変わらず馬鹿みたいにお人好しで、友達にすらいいように使われているように見える。
俺と付き合い始めると、手のひらを変えるような友達なのだろうか。その程度で簡単に壊れるような友人関係なのだろうか。そんなやつらは友達でもなんでもないのに。もしも何かされたら、今度こそ俺がしっかり守ってやるのに……。
ため息が白く濁る。ひたすら苺の事を考えていたら、いつの間にか目の前に苺が現れていた。
なんだ。
俺はついに幻覚が見えるようになったのか。
幻でできた苺は、苺の声で俺の名を呼びながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。苺に似た幻影が俺の手を取って、それがやけに温かくて、もう片方の手で彼女の頬に触れてみた。やっぱり……温かい。
本物の苺だ。
苺が俺の側にいる。俺の手に触れている……。
手のひらから伝わる温もりに煽られて、欲が深くなっていく。もっと温かいものを手に入れたくて、柔らかそうな首筋に頬を当ててみた。両腕でそっと苺を抱きしめて、そこでようやく俺は自分の身体が冷えきっていた事に気が付いた。
苺は嫌がらなかった。
普段は俺が触れようとすると、すぐに逃げだしてしまうのに。今の苺は振り払うどころか、小さな手を健気に俺の身体に添えてくる。
分かってんのか、苺?
こういうことされると―――期待するからな?
腕の中の温もりに、身体がどんどん熱くなる。決めた。俺はもう遠慮なんてしてやらない。これからは大学でも堂々と苺の前に現れてやる。そうでもしないとお前はいつまで経っても俺のところに来やしない。
それどころか今日のように、他の男のところに行こうとしてしまう。
そんなこと、させるかよ……。
抱きしめる腕の力を強くする。抵抗されないのをいいことに、俺は暫く、幸せを腕の中に閉じ込めたつもりでいた。