20 冷たい手のひら
適当に愛想笑いを浮かべながら、私はものすごいスピードで残りのデザートを平らげた。
一刻も早く帰りたい。まもるくんの笑顔がひたすら怖い。
帰り道、交際の返事を迫られたので、ゆっくり考えさせて欲しいと答えておいた。この場で断って、万が一怒らせてしまったら怖い。断るなら、カッとなっても何も出来ない場所がいい。
私の住むアパートまで着いてこようとするので、丁重にお断りをさせてもらった。家の場所を知られてしまうのは非常にマズイ気がする。誰かさんに馬鹿だと言われる私だけれど、このくらいの頭は回るのだ。
まもるくんは自宅通学生らしく、私が送らなくていいと言うと電車を降りずにそのまま揺られていった。駅のホームに1人で降り立った時には、正直心底ほっとした。
「あ~~~、疲れた……」
時計を見ると、時刻は20時を少し回っていた。さして遅くもない時間なのに、どっと疲れてしまっている。
あんな人だとは思わなかった……
いや、別に悪い人じゃないんだよね。特殊な趣味にさえ目をつぶれば、あとは素敵な人なんだよね。
彼氏、欲しかったし。私のような幼い見た目の子を気に入ってくれる人なんて、レアだし。そこさえ我慢すれば丸く収まるんだけど……
ごめんなさいまもるくん。やっぱり私、生理的に受け付けないよ……。
あ~あ、もっと普通の人なら良かったのに。
ううん、と首を振る。
分かってる。私がどうしても受け付けないのは、まもるくんの嗜好だけが原因ではないのだ。そんなの、所詮言い訳の一部にしか過ぎない。
彼に交際を申し込まれて。私はあの時、頷くことをためらっていた。ミカちゃんの事がなくても、もっと別の人だったとしても、私は無意識の内に付き合うことから逃げていたのだと思う。
麟くんが、好きだから。
イジワルなのに。チビで馬鹿だとからかわれてばかりいるのに。全然相手にされていないのに。それなのに……どこかで私は、他の誰かと付き合うなんて嫌だと思ってしまってる。心が受け付けないでいる。
彼氏を作って忘れようと思ったのに。
はぁ……
溜息をつきながら夜道をとぼとぼと歩き、気が付けば見慣れたアパートの前に辿り着いていた。街灯の明かりに古びた建物が照らされていて、そこに黒い影を捉えて、私はパチパチと何度も瞬きを繰り返す。
え、どうして。
彼の事ばかり考えているせいで……幻が見えるようになっちゃった……?
逸る気持ちで建物の中に入る。アパートの一階にある外廊下。私の部屋の真ん前で、手すりに寄りかかるようにして彼はそこに立っていた。
「なんで……麟くん」
オレンジ色の明かりに照らされて、彼は幻想的なほど美しかった。夢を見ているんじゃないだろうかと疑いながら、一歩、また一歩と私は彼に近づいて行く。
「昔を、思い出していた」
抑揚のない声で呟いて、彼がふっと切なそうに目を細めた。
いつも余裕たっぷりで。私を見下ろしてゆったりと構えている彼は、今はどこにも見あたらない。私よりも遥かに大きな背の彼が、なぜか私よりも儚い存在のように見えた。
作り物のように綺麗な顔。均整のとれた長身のフォルム。その両側で長い腕が、糸の切れた人形のように垂れ下がっている。
彼の手は、指先が力なく折り曲げられていて。それがやけに心細いもののように感じて、私はそっとそれに手を触れた。
「冷たくなってる……」
氷のように冷え切っている彼の手のひらを、溶かすように両手で挟み込んでみる。この人は、あれからずっとここに立っていたのだろうか。私がまもるくんと食事をしている間も、寒い夜風にこの手を晒していたのだろうか。
手のひらからじわりと伝わる冷気に胸を詰まらせていると、もう片方の彼の手が、ぎこちなく私の頬に触れてきた。冷ややかな感触に一瞬びくりと身を震わせて。でも、なんでもないようなフリをする。
「ここ、外の空気が素通りだし、寒かったでしょ。うちに入って、少しあったまっていく?」
麟くんが眉をしかめる。
「お前、ほんとに馬鹿だろ」
何故だろう。
その物言いに、たまらず口元が緩んでしまった。
まもるくんの「可愛い」よりも、麟くんの「馬鹿」の方が嬉しいだなんて。私は本格的に重症なのかも知れない。
「だって、麟くんが冷えきっているから」
「今部屋に入ったら、……帰りたくなくなるだろ」
彼の冷たい手のひらが、徐々に熱を帯びていく。私はもうはっきりと気が付いている。この人を友達だなんて思えない。他に好きな人なんて作れない。だってこんなに囚われてしまっている―――……
「苺」
ほら。
名前を呼ばれただけで、胸がぎゅっとなる。
「ごめん」
――その謝罪の意味はどこにあるのだろう。
ぼんやりとそんな事を考えていると、温かいものが頬から離れていった。
私の手檻からも彼がするりと抜け出して、失われた温もりに堪らなく寂しいものが込み上げてくる。
縋るように見上げると、熱を孕む彼の瞳と目が合った。
心臓が、一際どくりと跳ねあがる。
整った顔がゆっくりと近づいてきて。あの日ぎりぎりで避けた「練習」を思い出してしまった。あの時の私はまだ、想いは消せると信じていた。
この人と友達のままでいられると、疑っていなかった。
そんなの、無理だったのに。
触れ合うのかと期待した唇は空を切り、私の真横を通り過ぎていく。肩に重みを感じて、彼がここに着地したのだと知った。
剝き出しの首筋が、黒の髪に触れてくすぐったい。そこに熱を感じるよりも先に、彼の両手が私の身体を柔らかく包んでいった。
「あったかいな」
「麟くん……?」
「嫌か?」
嫌なんかじゃ、ないよ。
私はずっと、麟くんに触れられることを避けようとしていた。それは決して嫌いだからじゃ、なくて。むしろ好きだからで……。
麟くんが寒いのなら。こうしていても、いいよ。
言葉で表すと、余計な事まで口から溢れ出そうな気がして、私は無言で彼の身体に手を添える。くぐもった呻き声のようなものが耳元で聞こえてきて、彼の腕がさっきよりも力を強めた。
……もう。
こういう事するから……期待しちゃうんだよ?
今の私は、彼にとって友人ではなく、ただのカイロなのだ。でもそれでいい。少しでも、この人に温かくなって欲しい。明日にはもう、友達にもなれやしないから。
底冷えのするアパートの外廊下。照らされた明かりの向こうは深い黒。遠くで聞こえる雑音は、私に懐かしいあの日を思い起こさせる。
2人きりだと感じているのは私だけ。特別になりたいのも私だけ。誰もいない放課後の教室、それだけが私と彼の全てだったのに……
「ごめん苺。もう少しだけ……このままでいさせてくれ……」
彼の香りに満たされて、胸の奥が切なく疼く。
幸せだった、あの一週間を思い出す。
今日の私は。この時が永遠に続けばいいのにと、1人密かに願っていた。