2 麟くんと私
「みんな見て見て! 麟様が走ってる!」
教室の中で次の講義が始まるのを待っていると、友達の一人が窓の外に目を留めた。
きゃあ、と周囲からは黄色い悲鳴が上がっている。
「走る姿もかっこいいなぁ」
「麟さまってば、走ってるのに熱気感じるどころか涼し気に見えちゃうから不思議よね」
「わかる! 全然暑苦しく見えないよね。息が荒くなっていて、むしろ色気を感じちゃう!」
毎度おなじみの光景だ。
桁外れのイケメンである彼は、こうして日々、女子生徒たちに騒がれまくっている。もはやちょっとした芸能人みたいなものだと私は思っている。
作り物のように綺麗な彼は、女子生徒達から麟様と呼ばれている。まるでどこぞの教祖様みたいな扱いだ。
軽くため息をついて、私はカバンの中から筆箱やプリントを取り出した。一緒になって騒ごうとしない私に、みんなが不思議そうな顔をしている。
「苺ちゃん見ないの? 今日もすっごくカッコいいよ?」
「苺ちゃんは麟さまにあんまり興味ないよね」
「そもそも苺って、恋愛自体に興味ないように見える!」
「ん~…そういうわけじゃないけど……ほら、あの人ってちょっと怖くない? 雰囲気が冷たそうというか…………」
適当なことを言って誤魔化すのも、いつものことだったりする。
「えー、あのクールなところがいいのに~!」
「あの冷ややかな目で見られるとゾクゾクしちゃうよねえ」
「苺ちゃん、クール系苦手なのかぁ」
クールでカッコいい、と評判の彼だけど、クールというよりは冷ややかと言ったほうがピタリとくる外見だ。彼はあまり笑わない。愛想のいいタイプではなく、常にむっつりとした顔をしている。
でも、誰もそんなことは気にしない。
観賞するだけなら中身はどうだっていいようだ。
「あ、葉山くんも一緒に走ってる」
「ほんと仲いいよねぇ、あの2人」
葉山くん。
その言葉に指先がピクリと反応した。
「いつもべったりだよね。やっぱりあの噂は本当かぁ」
「ほんとだと思う。だって麟様が女の子と一緒にいるところ、見た事ないよね」
「あーショックだわ。あんなにカッコ良いのに、女の子に興味がないなんて……」
「なんであんたがショック受けるのよ。たとえ麟さまがノーマルだったとしても、わたしたちが彼女に選ばれる事なんてないんだから」
「だよねー。雲の上すぎるよねえ」
「そそ。こうして遠くからコッソリ眺めているのが、身の丈に合った楽しみ方というものよ」
ほんとうにすごい効果だな、葉山くん……。
ドキドキする心臓を抱えながら、私はみんなからそっと視線を逸らした。
◆ ◇
麟くんと私は、中学時代の同級生で元クラスメイトだ。
当時は結構親しくて、誰もいない放課後の教室でよく喋っていたのを思い出す。麟くんは、綺麗な顔に似合わず口が悪くって、思っていたよりもずっと親しみやすい人だった。
私は昔から、先生やクラスメイト達からものを頼まれることが多かった。麟くんはそんな私を見かねたのか、よく手伝ってくれていた。
『なんでもかんでもホイホイ引き受けてんじゃねーよ、こんの馬鹿イチゴ。そんなだからお前ばかりが雑用押し付けられるんだ』
『麟くん、手伝ってくれてありがとう。1人だったら運べてなかったよ』
『ふん。そもそも、こんな重いもの女子一人に頼む方が間違ってんだ。いいか苺、嫌ならちゃんと断れよ』
麟くんは昔から桁外れにカッコよく、女子にモテまくっていた。
大学生になった今でこそ、みんな遠巻きに騒ぐだけで済んでいるけれど……中学の頃はそれはもう凄い状態だったのだ。
カッコいい彼に近づきたい、でも1人で話しかける勇気はない。
そんな彼女たちは、たいていが友達数人がかりで彼に話しかけに行く。結果として、麟くんの周囲にはいつも沢山の女の子達が群がっていた。
1年の時のバレンタインには家に大勢の女子生徒が押し掛けて、うっかり外に出た麟くんはもみくちゃにされてしまったらしい。青い顔をしながら、当時の忌まわしい記憶を私に語ってくれた事がある。
バレンタイン事件がよほどトラウマだったのか、麟くんは女の子に騒がれる事を快く思っていない。
というか、群がってくる女の子達を極端に嫌っている。
相当うんざりしていたのだろう。自分に群がる女子がいなくなればいいのに、と彼はよく私に零していた。
『麟くん、麟くん。私、ものを頼まれるのは嫌じゃないんだよ。喜んでもらえたら嬉しいしね』
『ふぅん。……じゃあ、俺の頼みも聞いてくれる?』
『いいよ、なに? なんでも言って』
『あのさ苺。――――俺と、付き合ってくれ』
だから、彼女が出来たことにして、女の子達を遠ざけようとしたのだろう。
けれどこの偽物の関係は、1週間しか続かなかった。
麟くんの相手役として、私では役者不足だったのだ。私という『彼女』がいてもなお、女の子達は怯むことなく彼の側に寄り続け、結局、中学を卒業するまで何も変わらなかった。
それまでは気安い関係だったのに。その1週間をきっかけに、麟くんは私にピタリと喋りかけて来なくなった。
私も、なんとなく気まずくて話しかけなくなった。
平凡な私なんかじゃなくて、もっと綺麗な子を彼女にすればいいのに。
そうすれば、女の子達も静かになると思うのに。
そんな風に私は思っていたけれど、彼の出した結論はもっと極端なものだった。お互い高校生になってしばらく経った頃、ものすごい話を友達から聞いたのだ。
聞いて聞いて苺ちゃん!
麟くん、葉山くんと付き合ってるんだって!
その威力は絶大だった。
一週間で役目を下ろされた私とは違い、葉山くんは未だに有効な女子除けの効果を果たしている。
2人の関係はダミーにしか見えなかったけれど、周囲は本物だと錯覚しているようだった。美形の彼だから納得したのか、男同士に興味のあるお年頃なのか、群がっていた女の子達は、一転して遠くから眺めるスタンスにシフトしたらしい。麟くんの思惑通りの展開で、ちょっとだけ笑ってしまった。
今だって、そう。彼らと同じ高校出身の子がこの大学内にいるようで、麟くんと葉山くんは恋人同士だという噂が学内では飛び交っている。
だから女子生徒たちは、騒ぐけれど麟くんに近寄ろうとはしない。あくまでも遠くから見守っているだけだ。私の友達だってそう。それは手が届かないと思い込んでいるからで……
だから。
私と彼の過去も。
葉山くんとは偽物の関係なのだということも。
……全部、全部内緒にしておこう。
大丈夫。学部だって違うんだ。私と違って、彼は私が同じ大学に通っていることなんて知らないはず。そもそも、私のことを覚えているのかどうかも怪しいよね。
大丈夫。このままなんでもないフリをし続ければ、友達にも気付かれず、彼とも関わることなく4年間を終えられるはず――――……
「よお、ちびイチゴ」
――――だから。
それは私にとって、完全なる不意打ちの再会だったのだ。