17 練習
岩田くんに彼女はいない。その事を伝えると、えみりちゃんはぱあっと顔を輝かせた。
グラマラスな美女の件は伏せておいた。
「苺ちゃん、色々ありがとう」
「ううん。よかったね、えみりちゃん」
喜んでもらえて良かった。全力で走り回った甲斐があったというものだ。
岩田くん、あの体格であんなに足が速いとは思わなかった。麟くんのフォローがなければ、あっさり掴まっていたと思う。
あの状況からどうやって情報を入手したのか、麟くんは岩田くんの生年月日と血液型まできちんと仕入れてきてくれた。えみりちゃんはワクワクした様子で携帯を取り出し、自分との相性を占って楽しんでいる。
「見て見て苺ちゃん! 星座占いと血液型占いの結果は相性バッチリなんだって」
「いいね。告白してみなよ、きっと上手くいくよ」
「それがダメなの苺ちゃん。名前の画数占いによると、彼は私じゃ物足りないんだって……」
ちらり、と彼女の儚げな胸元を見て。
慌てて首をぶんぶんと横に振る。
「で、でもさ、2対1で良い結果の方が多いんでしょ? 上手くいく確率の方が高いってことだよ」
「2対1ってことは、フラれる確率が33%もあるってことよね……。ああだめ、告白なんて無理よ無理」
「そんなことないよ。えみりちゃんは可愛いんだから、自信を持って!」
えみりちゃんはすっかり落ち込んで、がっくりと頭を垂れてしまっている。グラマラスな美女ではないけれど、えみりちゃんは普通に可愛い女の子なのに……。相手がフリーで胸にこだわりのないタイプなら、フラれる確率は33%もないと私は思う。
こだわり。
なければいいな……
ううん、弱気になってちゃいけない。兎にも角にも、えみりちゃんが彼に近づかないと何も始まらない。そもそも岩田くんは、今はまだえみりちゃんの存在すら知らないのだ。
フラれる確率ばかり気にしているけど、彼と付き合える確率はこの状態だと0%だよ?
「そんなことを言って、彼が他の子を好きになってしまったらどうするの? 今ならまだ大丈夫。たぶんまだまだ大丈夫。……大丈夫なはずだから頑張ろうよえみりちゃん、私も協力するよ!」
今のままだと、岩田くんは私を追いかけてしまう。
えみりちゃんにとっても私にとっても、困ったことになっちゃうよ!
「彼が、他の子を……」
「そうだよ。誰かに先を越される前に動かないと。こういうのは早い者勝ちなんだよっ!」
私の心が通じたのか、えみりちゃんが神妙な顔をし始めた。彼女はふぅ、と息を漏らしながら目を伏せ、数秒後、何かを決意したようにぐっと顔を持ち上げた。
「分かったわ、苺ちゃん。わたし、思い切って岩田さんに声を掛けてみる」
やった。
えみりちゃんがその気になってくれた……!
「部活お疲れさまです、って一度言ってみたかったの。わたし頑張るわ。イメージトレーニングと心の準備に取り掛かってみる……。卒業までに一歩踏み出せるといいな」
卒業までにとか遅すぎるんだよ、えみりちゃん……!
だめだこりゃ。
麟くん。早くも説得、挫けそうです。
◆ ◇
「お前。岩田に目、つけられたぞ」
岩田くんから逃げきって、自宅で荒くなった呼吸を落ち着かせていると、麟くんがうちにやってきた。
彼は彼で色々とあったのだろう。私を見下ろす彼の瞳には、心なしか疲労感が漂っている。
私も力ない声で答える。
「ねえ。どうしてこんなことになっちゃったの? 私、グラマラスでも美女でもないのに」
「ふん。絵に描いた餅より、実際に食えるものの方がいいってことだろ」
面白くなさそうな顔をして、麟くんがいつもの定位置にどっかりと座り込む。
『そういう勘違いから、うっかりその気になられたらどうするんだよ』
本当に麟くんの言う通りだった。
こんなことなら、えみりちゃんに直接聞いてもらえば良かった……
それにしても困ったことになっちゃったな。私はすっかり、岩田くんのことが好きな女の子として、岩田くんはおろか部長さんにまで認識されてしまっている。顔はバッチリ覚えられているし、校内で出くわすと、また追い回されてしまうかもしれない。
「どうしよう……」
縋りつくような思いで、隣に座る彼をちらりと見上げてみる。麟くんはそんな私にじろりと鋭い視線を向けた。
「どうもこうもねーよ。こうなったら、選択肢は2つだ」
「なに?」
「食えるものには食えるもので対抗すればいい。お前の友達に、岩田に告白させるんだ」
「上手くいくかな? そりゃえみりちゃんは可愛い子だけど、グラマラスな美女というより可憐な美少女タイプなの。岩田くんの好みとはズレてるんだよね」
「いけるだろ。そもそも、苺のどこがグラマラスな美女なんだよ。どう見たって色気皆無のちび子だろ。それでも一応釣れただろ?」
ぐさぐさぐさっ。
私は心臓を押さえながら、よろけそうな心を必死に落ち着かせた。麟くんが私の事をどう思っているか、チビで馬鹿の時点で大体理解していたけれど……そこに色気皆無まで加わってしまった……
いや分かってる。分かってるけど容赦ないね、麟くん。今、平然と言ってのけたよね。結構ダメージでかいんだけど……。麟くんの言葉が、胸にぐさぐさと突き刺さる。
ほんっと、麟くんにとって私は……
気軽に喋れる友達にしか過ぎないんだなぁ。
「ま、まあね。えみりちゃんに告白されたら、私みたいなチビ子のことなんてスッパリ忘れてくれるよね」
ほんと馬鹿みたい。
期待するなんてどうかしてたんだ。
もう、早く彼氏作っちゃおう。チビで色気皆無の馬鹿でもいいって言ってくれる、優しい人がいるならだけど。
うっ。自分で言ってて悲しくなってきた。
「でも、えみりちゃんって恥ずかしがり屋なんだよね。自分から声を掛ける勇気が出ないって言ってる子なのに、告白なんて更にハードルの高いこと出来るかな?」
「出来るかな? じゃなくて、やってもらわねーと困るんだよ。どうしても出来ないって言うなら、もう一つの案でいくぞ?」
もう一つの案?
ふっと沸いた疑問は、すぐさま嫌な予感に覆いつくされた。
麟くんがニヤリと口の端を持ち上げている。この笑い方は……たいてい、ろくでもないことを考えている時だっ!
危機的なものを感じて、さっと後ずさったら、麟くんの手がスカッと空を切った。
危ないところだった。
また肩に、手を置こうとしていたなぁ!
麟くんは空ぶった手を誤魔化すように髪を掻き上げた。ちっと舌打ちをして眉を寄せ、忌々しそうな顔を私に向けている。
「岩田は自分に気があると勘違いして苺を追いかけているんだろ。だから違うってことを証明してやればいい。つまり、俺と付き合っているフリをする」
っっっっっっっ!
そりゃ、麟くんと付き合っているフリをすれば、岩田くんは引いてくれると思うけど。……けど!
「そっちの方がいいかもな。今日みたいに追い回される苺を、毎度毎度かばってやるのも大変だし。四六時中ついててやるわけにもいかねーし、彼氏のフリする方が手っ取り早いよな」
学内一のアイドルであるお方が、腕を組んでうんうんと頷いている。確かに岩田くんから逃れるだけなら、それが一番手っ取り早いとは思う。けど、……けど!
どこをどう切り取っても、問題しかない。
「じゃ。彼氏って事にしておこうか」
ぐるぐると頭の中で目を回していると、私の肩に大きな手のひらが乗ってきた。はっとして横を向けば、いつの間にか隣に麟くんがにじり寄っている。ゆっ、油断も隙もない……!
今度こそ手のひらの着地が上手くいって、麟くんはにやにやと嬉しそうだ。まるでいたずらが成功して喜んでいる子供のよう。
ほんと……こういうところが、困るのに。
触れられている肩に、じんわりと熱がこもっていく。麟くんが近くて、心臓がドキドキと鳴り始めてしまう。
落ち着け私。真っ赤になっちゃいけない。あわあわすればするほど、麟くんが面白がるだけだ。落ち着いて反論するんだ……
私はできうる限り、素っ気なく返事をしてみせた。
「彼氏のフリなんて上手くいかないって。すぐに違うって見破られちゃうよ」
「見破られないようにすればいいんだよ。そうだな、岩田の前でキスでもするか?」
……は? キス?
彼の長い指が、私の顎を掬い上げるように持ち上げた。
驚いて、ぱっちりと目を見開くと、恐ろしく整った顔が至近距離にある。
「練習しようか」
……ねえ。
どこまでが冗談……?
彼の艶やかな唇が弧を描いて。ゆっくりとそれが私に近づいてくる。
息が止まる。心臓は痛いくらいにバクバクと音を立てている。こんなの、落ち着くなんて無理だよ。真っ赤にならないなんて、無理だ。焦らないなんて……無理!
彼の息がかかる。超えてはいけないラインを今、超えてしまいそうになっている。このままだと、麟くんの唇が触れてしまう……
駄目だよこんなの。
触れてしまえばもう引き返せない。友達になんか戻れない。好きが、止まらなくなっちゃう―――……
「フリはなし、なしでいくっ! 私頑張るから。頑張ってえみりちゃんに、告白させてみせるから……!」
私は両手を突き出して、彼の頬に手のひらを押し当てた。