14 休日の訪問
いつもよりも緊張するなぁ……。
約束の土曜日。ただいま午前10時30分。
麟くんがうちにやってきた。
今日もベッドの側面を背もたれにして、長い足をゆるりと組みながら寛いだ様子で座っている。
すっかり見慣れた姿のはずなのに……。
平日と休日ではなにかが違うものらしい。
妙な緊張感に包まれて、私は少しぎこちなくなっていた。正直に言うと、ちょっとだけドキドキしてしまっている。
「麟くん、早かったね」
「暇だったからな」
私にとって平日の彼との時間は、未だに放課後の教室にいるような感覚なのかも知れない。2人きりだけど、どこか遠くに誰かがいるような。居るのは私の部屋だけど、それはプライベートの空間などではないような。
落ち着かない心臓を鎮めるため、私は立ち上がりキッチンに向かうことにした。
「飲み物入れてくるね。なにがいい?」
「そうだな……コーヒー、貰おうかな」
困ったときの飲み物頼み。
コーヒーを淹れる間に、呼吸を少し整えよう。
「ホットが美味い季節になってきたな」
淹れたてのコーヒーを口にして、麟くんがしみじみと呟いた。
麟くんの飲んでいるコーヒーは、元々友達用に買っていたものだ。コーヒーが好きだというので瓶で用意したものの、頻繁に来る子じゃないので粉がたくさん残ってしまっていた。
麟くんはコーヒーが好きなようで、いつもありがたく消費させてもらっている。
コーヒーの飲めない私は隣で紅茶を飲んでいる。彼の言う通り、秋も半ばを過ぎ、吹く風が冷たく感じる季節となってきた。温かい飲み物を口に入れ、熱が身体を通り抜けていく感覚にほぅっと息が漏れていく。
おかげでさっきまでの緊張が、カップの中に溶けていく角砂糖のようにゆるゆると解れてきた。
「外はいい天気なんだけどね。それでも家の中だとひんやりするね」
「どこか出かけるか?」
「どこかって?」
「そうだな……俺もあまり出掛けないからよく分からんが……定番どころだと水族館や遊園地辺りになるのか?」
ぶっ!
それ、まるでデートじゃない。
飲みかけの紅茶を喉の奥に詰まらせる。
あー、吹き出さなくて良かった……。
「いい。学校の子に見つかったら大変なことになりそうだし」
麟くんは不満そうに眉を寄せた。
いい案とでも思ったのだろうか。冗談じゃない。そんなところで目撃されたら言い訳もできないし、そもそも私の心臓が持たない。
「それよりお昼ご飯、なに食べたい? せっかくだし、改めてノートの時のお礼をしようと思うの」
「あの時のお礼って焼きそばじゃなかったのか?」
「あれはお茶漬けよりマシってだけで、お礼には程遠いでしょ」
「好きだって言ったのに」
いくら好物でも、3玉100円をお礼にするのは申し訳ないのだ。
冷蔵庫を開けて中身を確認した。
うん。今日もからっぽ……
カップに残る紅茶をグイっと一気に飲み干して、財布の入ったカバンを手に取った。
「リクエスト受付します! ほら、なんでも言って?」
「だからなんでもとか言うなよ。北京ダックが食べたいなんて言われたらどうする気なんだ」
「うっ……」
そうだった。なんでもなんて言うなと警告されたばかりだったのに、すっかり忘れてた。
言葉に詰まる私を見て、麟くんがくすりと口の端を持ち上げた。
「今日も焼きそばでいいよ。その代わり、この前と違って豚肉とキャベツを入れてくれ」
「ううっ……」
そう、前回の焼きそばは、痛恨の具無しだった。
「分かった。豚肉とキャベツをたっぷり入れた、とっておきの焼きそばを焼くからね! 今からスーパーに行ってくるから、麟くんはテレビでも見て待ってて」
「買い物なら俺も行く」
玄関に向かうと、麟くんも後ろからついて来た。
「だから、見つかったら困るんだって!」
「平気だろ。ここ、大学から離れてるし……たぶんだけどこの辺に住んでるやつらって、どっちかっていうと別の大学の学生だと思うぞ」
「それは確かにそうだけど……」
「よくこんな場所に住もうと思ったな。もっと大学に近いアパート、幾らでもあっただろうに」
私の住むアパートは、古い建物だ。
セキュリティは甘いし大学もあまり近くない。歩くには少々時間がかかるので、通学には自転車を使用している。不便だけれど、その分家賃は安い。
そう、家賃が安い。
「さ、行くぞ!」
……そんな訳で、麟くんとスーパーに来てしまっている。
なぜか手を繋いで来ようとしたので、慌ててポケットの中に逃げ込んだ。危ない危ない。誰かに見られたらどうする気なの。
もしかして彼女役の件、まだ諦めていないのかな?
よく考えればダミーなんだから、付き合っていると周りに思わせればそれでいいのだ。こうして一緒に外に出て、手を繋いでいるだけで、周囲は勝手に誤解する。さては実力行使で、私を彼女もどきに仕立て上げるつもりだったのか……
隣を見上げると、ちっと舌打ちされていた。これは確信犯だ。もう2度と、一緒に外を出歩かないでおこう。今日も手早く買い物を済ませよう。
「あ、卵っ!」
このスーパーは、休日になると卵のタイムセールが行われている。値段は時期により多少のばらつきがあるものの、おおよそワンパック98円という安さで売られている。
ワゴンまで近寄ると、卵はラスト1パックにまで減っていた。今日は運がいい。みんな飛びつくのが早いので、手に入らない日も多いのだ。ウキウキしながら手を伸ばすと、背後から落胆の声が聞こえてきた。
「あ~あ。……間に合わなかったかぁ……」
――――あ。私こういうの、ダメ。
伸ばしかけた手を、キュッと引っ込める。くるりとカートを反転して、そそくさと逃げるように別の売り場に移動した。
「おい、苺!」
「なに、麟くん?」
「卵買うんじゃねーのか?」
「ううん、よく考えたらいらなかったなーと思って。それよりキャベツ見に行こうよ!」
「まあ、お前がいいならいいけどさぁ……嫌なのに譲るような真似するなよ」
どきりとする。
私の嘘を見透かすかのように。ぽん、と大きな掌が私の頭に乗せられた。
ぐりぐりっと撫でられて。その手が、馬鹿だなって私に言っている。
優しい彼は……でも勘違いをしている。
譲るのは嫌じゃないんだよ、麟くん。
私はただ……誰かのがっかりするところを見る方が、ずっとずっと嫌なだけ。
「は、それだけしか買わねーの?」
焼きそばに必要な具材をカゴに入れ、レジに向かおうとすると、麟くんがストップをかけてきた。
「冷蔵庫カラなんだろ。昼メシの材料だけじゃなくて、どうせならもっと色々と必要なもの買っておけよ」
「また後で来るからいいよ。早く帰ってお昼ご飯にしよ、麟くんお腹ペコペコでしょ?」
「人を飢えた子供のように言うな。いいから、出来るだけ重いものをカゴに入れろよ。……俺がいるんだから」
麟くんってほんと、イジワルなようでいて親切だよね……。
昔から変わらないな、と思って。
くすりと笑みが漏れた。
「麟くん、麟くん。じゃあせっかくなのでお願いがあります」
「ん?」
「この一番上の棚にある調味料、取って」
「調味料って、どれだ?」
「これこれ、この柚子塩胡椒ってやつ!」
ぴょんぴょんと跳ねて、目当ての商品を指さした。前々から気にはなっていたけど、お高いところにあるので諦めていたのよね。
私の背丈だと飛び跳ねてもギリ届かない。だけど麟くんなら軽~く手に取れるはず。
「分かった」
―――あれ、気のせいかな?
今、麟くんがにやっと不穏な笑みを浮かべたように見えた。と思えば、棚じゃなくて私のすぐ後ろににじり寄っている。
て、あ、あれ? 私の足が宙に浮いた……
「わわわ! どうして私を持ち上げてるのっ!?」
「柚子塩なんたらとか言われてもよく分かんねーから、自分で取ってもらおうと思ってさ。これなら余裕で手が届くだろ?」
信じられない。麟くんが背後から私の両脇に手を入れて、ひょいと持ち上げている。よく分かんねーって……それ絶対に嘘だぁ!
その証拠に、背後から忍び笑いが聞こえてくる……
「笑ってる! 麟くん今、笑ってるね! 絶対、私の欲しいものどれか分かっててやってるしっ!」
「酷い言い草だな。苺の願いを聞いてやったのに」
「幼児じゃあるまいし。私の願いは『高い高ーい』なんかじゃないよ!」
じろっと睨みながら振り向くと、いつもは見上げないと分からない彼の顔が、私のすぐ側にあった。
思わず息を飲むような、整った顔が至近距離にある。長い睫毛に縁取られた黒の瞳が私を真っ直ぐに捉えていて――……
かああ、と。
頬が、苺のように真っ赤に染まっていく。
慌てて顔を背けた。
せっかく今の今まで平常心でいられたのに、意識し始めるともうだめだ。この密着している状況に、心臓が早鐘を打ち始めてしまう。
ああだめ。麟くんの手が触れている箇所に、どうしても神経が向かっちゃう……
「どうした、苺?」
「どうも、しない、よ?」
「……もしかして俺のこと意識してる?」
―――いけない。
麟くんに気づかれてしまう。
浮ついた意識が急速に冷やされる。そうだ。彼には今、心臓に近い部分に触れられているのだ。ものすごくドキドキしていること、このままだと麟くんにバレてしまう……。
早く。早く離してもらわないと。
「ねえ、もういいから、下ろして?」
「さっさと取れよ。取ったら下ろしてやるからさ]
ああもう。
麟くんは、親切なようでいてやっぱりイジワルな人だ。
私がこんなに困っているのに……嬉しそうだなんて。
高さは余裕なのだけど、棚からの距離は結構ギリギリで。分かっている筈なのに、真後ろの彼はちっとも距離を詰めてくれなくて。
私は両手を必死に前に伸ばして、なんとか目的のものをゲットするのだった。