12 帰り道
麟視点です。
唇に触れたくなる衝動をどうにか抑え込み、俺は苺のいるアパートを後にした。
秋の夜風に、熱くなった俺の頭が緩やかに冷やされていく。駅に着くと沢山の人がいて、そのうち幾人かが俺に目を留め振り返る。
いつものことに息を吐いた。知らない女達からの不躾な視線に、熱の残滓が消え失せる。
確かに俺は、見栄えのする外見をしている。だからといって、ジロジロと見られる毎日は本当にうんざりだ。学校でも、街中でも、電車の中でも容赦なく、常に誰かの視線が自分に向かっている。
幼い頃から、外見ばかりを褒められた。
それを素直に喜べていたのは、いくつの頃までだったろう。かっこいいと騒がれて。女達に囲まれて。何かがおかしいと感じるようになって。次第に俺は、群がってくる女どもを疎ましいと思うようになっていた。
女は、つるむと怖いもの知らずに変化する。
俺が声を掛けても、1人だと恥じらってうつむいている癖に、3人集まると逆に堂々と声を掛けてくる。俺の知らない間に、別の人間にすり替わったとしか思えないような声のボリュームとテンションに、頭が痛くなってくる。
人数が増えていく毎に、奴らは厚かましくなってくる。好きだ好きだと言いながら、好意を平等に振りまけと集団で俺に迫ってくる。
恐ろしいことに奴らは、俺が素っ気ない態度を取っても、冷たい視線をぶつけても、まるで怯むことがない。声を荒げても、机を叩いてみせても、何をやってもかっこいいと言われてしまうだけ。
そう。あいつらにとっては、俺の感情なんてどうだっていいのだ。だから俺の迷惑も顧みずに押し寄せて、理不尽な主張を突きつけてくる。あいつらは俺のことが好きな訳じゃない。綺麗な見た目のお人形を眺めているのが好きなだけ。
女達は、俺を特別扱いしまくった。例えば、俺がクラスの男とちょっとした言い合いをしていたとして、それがどっちもどっちだとしか思えないような下らないものだったとしても、決まって集団で俺の味方をし、相手の男を責め立てる。
一方的に責められて、不快に思わない奴なんていない。おかげで俺が男友達と呼べる存在は、隣の家に住むお人好しの幼馴染、ただ1人だけしかいなかった。
『恵まれた容姿のやつはいいよな』
男たちからやっかみ混じりに言われた言葉にため息が出る。
なんにも恵まれてはいない。むしろ呪われているんじゃないかとすら思う。俺は、自分の容姿に忌々しいものを感じて過ごしていた。
それなのに……
「ほんと。使えねー顔だな」
車両の窓に映る自分の顔を見て、笑いが込み上げてきそうになった。見た目だけで寄ってくる女が、俺は嫌いでたまらないはずなのに。苺に対しては、俺の最大の武器が効かないことにもどかしいものを感じているなんて。
――苺。野原苺。
中学の頃、1週間だけ付き合っていた俺の……元彼女。
◆ ◇
最初は、見ているだけで苛ついた。
バカが付くほど、お人好しの女の子。あいつはいつだって、誰かに何かを頼まれている。
誰かさんに、似ていると思った。
葉山侑。俺に唯一寄り添ってくれる、お人好しの幼馴染。へらへらと笑いながら担任に押し付けられた仕事をこなしている姿なんて、ほんと苺とそっくりだ。けれど侑に対しては、俺は呆れはしても別に苛つきはしなかった。
そう。侑は平気だが、苺は駄目なのだ。あいつが頼みごとを引き受けている姿を見る度に、俺はイライラしてしまう。
放課後に1人だけ居残って、文化祭の衣装を縫っている苺をうっかり目にした事がある。
あまりに腹が立ったので、半ば無理矢理手伝うと、呆れるくらい呑気な笑顔を向けられた。「ありがとう」だなんて、コイツは本当に馬鹿なヤツだ。その仕事は、他にも担当がいたはずなのに。
感謝なんてするなよ。そもそも俺はお前のクラスメイトなんだ。お礼を言われるような立場じゃねーよ。
イライラが止まらなくて。作業をしている間中、気付けば何度もあいつに馬鹿と言ってしまっていた。こんな俺なのに、あいつは邪気のない笑顔を向けやがる。
視界に入るから苛つくのだ。
苺なんて、見なければいい。
分かっているのに、気付けば目で追っている。
『頼むよ、苺ちゃ~ん』
廊下を歩いている最中、クラスの男達の下卑た声が聞こえてきて、扉の前で立ち止まる。また、ろくでもない事を頼まれそうになっている―――
カッとなった俺は、腕を引く女たちを強引に振り解き、教室の扉に手をかけた。
中を見回すと、黒板の周囲に苺と数人の男子生徒が集まっている。眉をひそめる俺の目の前で、『任せて!』と勇ましい声をあげながら苺が教卓の上に登り始めた。
よく見ると、黒板のレールの上に紙飛行機が乗っている。それを取るつもりらしい、苺が必死に手を伸ばしている。
おいおい、危ないだろ。何やってんだよ。
落ちたらどうするんだ。
断れよ苺。お前らも、こんなことチビの苺にさせるなよ…!
苛々しながら駆け寄って、それに気づいて俺の全身に冷たいものが走り抜ける。
教卓の上で、一生懸命背伸びをする苺。その周りで男たちがにやにやしながら身体を屈め、スカートの中を覗き込もうとしていた。
『お前ら、何やってんだよ』
自分でも、ぞっとするような低い声が出た。
串刺しにでもするような、鋭い視線を男どもに投げつける。どいつが主犯格なのか、品定めするように奴らを見回していると、さっきまで薄ら笑いを浮かべていた男たちが真っ青になって逃げ出していった。
『逃げんじゃねえよ!』
『わわ。ごめんなさいっ!』
追いかけようとして叶わなかった。俺の怒声に怯えた苺が、バランスを崩して上から降ってきたからだ。
俺が上手く抱きとめてやれたおかげで、幸い苺は無事だった。腕の中で呆けている苺に、このまま強く抱きしめてしまいたくなる衝動が沸き起こり……俺は慌てて、苺の柔らかい髪をぐしゃぐしゃと掻き回して、身体を起こした。
『あんなところに登るなんて危ないだろ、もう2度とするなよ』
『うん。ありがとう麟くん』
へらりとした笑顔を向けられて。掲げた苺の右手に握り締められているものは……折れ曲がった、紙飛行機。
『でもほら、取れたよ』
コイツは馬鹿だ。
あまりにも馬鹿でお人好しだから、この俺が守ってやらないと……
小さな身体に幼い顔立ち。ふわふわの癖っ毛をしている苺は、同じ年とは思えないような幼い容姿をしている。だからきっと妹のように感じて、俺はコイツが気になってしまうのだ。
誰もいない放課後の教室で、苺と過ごすことが増えていた。
お人好しの苺は、放課後も居残って何かをしていることが多い。俺は俺で、昼間は女達に囲まれてしまうので、皆のいなくなる放課後が一番ゆっくり苺の側で過ごせていた。
苺をからかうことが好きだった。いつでも呑気に笑っているコイツの、剥き出しの感情に触れることに俺は喜びを覚えていた。
むくれる苺。呆れる苺。はにかむ苺。それでも全然足りなくて。もっといろんな苺を見せてくれ。
『麟くんって、イジワルだけど優しいね』
俺に散々からかわれている癖に。ちょっと助けてやっただけで優しいとか、本当に人がいいにも程がある。俺は優しい男じゃない。俺はただ、お前に笑いかけて欲しいから。こっちを向いて欲しいから、手伝っているだけで―――……
その頃にはもう、俺のイライラは別のものに変わっていた。
◆ ◇
暗がりの中、1人で家まで歩いていく俺を、月が見守るように明るく照らしている。親には連絡済みなので、終電にさえ間に合えばそれでいいのだが、あまり長居をしては平気でいられる自信がなくて、食べ終えて速攻帰ることにした。
苺は俺に対して簡単に、何でもなんて言いやがる。何でもなんて言われたら、どんどん欲が出てしまう。唇にキス。やらかした暁には、さすがの苺でも部屋に入れて貰えなくなりそうだ。
いや俺だって分かっている。この前の頬ですら、冷静に考えたらアウトだって事くらい。
お人好しの苺だからこそ、『埋め合わせ』なんてありえない言い訳で誤魔化せているだけで、普通の相手なら、あんなの一発退場モノだろう。
あれは正直……魔が差した。
俺もあそこまでするつもりはなかった。
頬にキスとか、苺をからかって言ってみただけで……そりゃまあ、全く期待していなかったと言えば嘘になるけれど……だからといって本気で苺からキスが貰えるなんて流石に思っていなかった。
苺の過剰な反応が面白くて。
少なくとも意識はされている、それが実感できて嬉しくて。
調子に乗ってからかい続けていたら、苺がギリギリまで唇を寄せてくるから、焦れったくなって、つい……。
半分は苺のせいだ。
真っ赤な顔をしやがって。ぷるぷると震えながら、温かな息遣いを俺の頬に触れさせて。期待させるだけさせておきながら寸止めだとか、そんなの逃げられるなんて思うなよ。
あー、柔らかかったな、苺の頬っぺた。
唇にもしてやりたかった。まあ、したいなんて言えばどこまでもキリがないんだが。
あー、全く足りない。本当はもっと触れたいのに、俺は我慢に我慢を重ねている。寸止めのキスを繰り返されているようだ。部屋には入れてくれるのに。手作りの飯まで食わせてくれるのに。ギリギリまで俺は許されているのに、あと一歩が届かない。苺は全然、俺の彼女になろうとしない。
中学の頃は、俺の告白を受け入れてくれたのに。当時は、苺も俺の事が好きなのかと浮かれていたけれど―――……あいつにとっては俺のことなんて、『頼まれごと』の彼氏でしかなかったんだろうか……。
それとも……俺と付き合っていた一週間が、あいつにとっては酷いものだったから……もう2度と、頼まれてでも付き合いたくないと思われているのだろうか……。
はぁ……。天津飯、美味かったな。
「あれ、今日はかに玉? 珍しいね」
「ああ……たまにはいいだろ」
翌日。学食で食べたかに玉は、昨夜よりも数段落ちる味がした。