11 なんでもなんて出来なくて
ピーンポーン
その日の夕方。ベッドの上で布団を被る琴音ちゃんからひとしきり愚痴を聞いた後、夕飯の準備をしていると、チャイムを鳴らす音がした。
ピーンポーン。ピンポンピンポンピンポーン。
音の主はよっぽど気が急いているらしい。
濡れた手をタオルで拭く時間すら待てないようで、チャイムの音が焦ったように鳴り響く。
「琴音っ!」
ドアを開けると、青い顔をしたなおくんが、私を突き飛ばさん勢いで部屋の中に駆け込んできた。ベッドの中で冬ごもり中だった琴音ちゃんがその声に反応し、これまた勢いよく毛布を跳ねのけ布団の中から現れた。
え、ほんとに彼氏くんが来た!
どうなってるの!?
昼間はあんなに険悪ムードだったのに……
呆然とする私の目の前で、2人が今まさに感動の再会を果たしている。
「なお!?」
琴音ちゃんが期待に満ちた顔をして、瞳をウルウルと輝かせている。頬をバラ色に染めながら、しかし、琴音ちゃんはやっぱり琴音ちゃんだった。
「なっ、なにしに来たのよ……」
ああっ。せっかく彼氏くんが来てくれたのに、どうしてそんなこと言っちゃうのっ!?
今にもなおくんに飛びつきそうなほど、喜んでいるくせに……!
ハラハラして事の成り行きを見守っていると、彼氏くんが突然琴音ちゃんを抱きしめた。
「すまん、俺が悪かった! 琴音がそんなに嫌がるなら、もうしぃちゃんと飲みに行ったりしない! だから……だから、戻ってきてくれ!」
今度こそ何が起きているのか、私には全く理解が出来ないでいる。なおくんが、昼間のなおくんとは別人のようになっている……
麟くん、なおくんに何したの?
中の人をすげ替えたんだろうか。
「な、なお?」
「好きだ! こんなことで琴音を失いたくないんだ! 反省するから、頼む、他のヤツのことを好きにならないで、俺のことだけを好きでいて……」
彼氏くんにぎゅぎゅっと強く抱きしめられて、琴音ちゃんはすっかり顔が蕩けてしまっている。状況がよく飲み込めないけれど……取り敢えず円満解決ってことでいいのかな?
「他の人を好きになんてならないよ。わたしだってなおが好きだもん。なおだけが好きだもん!」
「琴音っ!」
「なおっ!」
その先を見てはいけない気がして、私はそっとバスルームに逃げ込んだ。
◆ ◇
「ねえ、催眠術でも使ったの?」
あの後、琴音ちゃんは嵐のような勢いで荷物を片付けて、彼氏くんと視線を絡ませながら、2人仲良く我が家を去って行った。
半分安堵、もう半分はキツネにつままれたような心地で呆けていると、したり顔をした麟くんが現れた。
そんなわけで今、久し振りに彼が私の部屋にいる。
「なんだそれ。そんな怪しげなことする訳ねーだろ」
「じゃあ、そっくりさんでもみつけたの?」
「おま、俺をなんだと思ってるんだよ。俺は普通に説得しただけだぞ。『彼女を失いたくないなら、迎えに行ってやれよ』って、真っ当なアドバイスだろ?」
アドバイスとしては真っ当だけど、初対面に近い相手にそれを言うのは、真っ当と言っていいものかどうか……
「そんなの、聞き入れてくれなかったでしょ?」
「ああ。『お前に関係ないだろ』って言われたな」
なおくんの返事こそ至極真っ当だ。でもその状況でどうやって迎えに来させたの?
しかもあんなに熱烈に……
「やっぱり、催眠術でも使ったの?」
「だからそこから離れろよ」
「じゃあ、結局のところなんて言って説得したの?」
「それは――――」
麟くんの目がきらりと光った。
獰猛な笑みを浮かべながら私の肩に手をかけて、耳元でそのぞくりとする低音ボイスを吹きかける。
「……知りたい?」
この声、ほんと駄目。
どくりと心臓が大きく跳ねて、身体中に痺れが走り抜けていく。この震えそうな感覚を振り切ろうとして、こくこくと急いで首を縦に振った。
なおくんをどうやって変えたのか、気になるところではあるし。
にっと口角を持ち上げて、麟くんが私から身体を離した。
優雅に腕を組む。自信たっぷりの笑みを綺麗な顔に貼り付けながら、凄みの混じる低い声を吐き出した。
「いらねーなら掻っさらうけど、いい?」
―――――うわ。
「って言ったら、やめてくれーって叫びながら勢いよく走り出して……って、どうした?」
「……なっ、なんでもないっ!」
それは……それはこの上もなく強烈に、脅してるし……っ!
イケメンほんと怖い。今の、全然シャレになってない。凄みに負けて、ごめんなさい許して下さいと思わず言いそうになった。
私ですらこれだもん。そりゃなおくんも、本気で奪われると焦ったことだろう。
「なにドン引きしてんだよ。良かったじゃねーか、あいつら仲直りしたんだろ?」
「まあ、そうだね。結果オーライみたい」
彼氏くんの勢いに、琴音ちゃんは幸せそうだったし、ね。
「これで今日からゆっくり眠れるだろ。合コンも……行かないよな?」
「そうだね」
あのラブラブ全開状態となった琴音ちゃんが、合コンなんて開くわけがない。
マットレスも耳栓も、アイパッドも結局買わずに解決したし。
全部全部、麟くんが動いてくれたから。
「ありがとう、麟くんのおかげだね」
嬉しくなってにっこり微笑むと、麟くんがふいと顔を逸らして、私の頭をくしゃくしゃと乱暴に掻き回した。
「じゃ、今日はもう遅いし、俺はもう帰る。また今度な」
「あ、ちょっと待って。帰らないで!」
そう言って立ち上がろうとした麟くんの腕を、とっさに掴んでしまった。私の行動が意外だったのか、ピクリと彼の身体が揺れた。
振り返ってこちらを向く。勝手に触れて、むっとしているのかと思いきや、彼は目を見開いて表情を固まらせていた。
「夕食……琴音ちゃんの分が余ってて、よければ食べていって?」
「夕食……?」
「うん。天津飯なんだけど、あんをかけたら終わりってところまで作ってしまったの。1人では食べきれない量だし、食べてくれると助かるな。……あ、嫌だったら無理しなくていいよ」
「いや、食べる。食べていくよ」
「じゃあ、仕上げてくるね!」
時計の針は19時に近くなっていた。カーテンの隙間から、外の暗がりが顔を覗かせている。
麟くんは2人が帰った後、5分と経たないうちにここに現れた。それはつまり、家の外で彼はずっと待っていてくれたのだ。事の顛末がどうなったのか、最後まで見届けるために。
こんなに遅くなっちゃったね。
寒い中、待たせてしまったから。せめて……温かい夕飯でも、食べていって欲しいな。
今回のお礼代わりに……。
…………。
うん。残り物でお礼っていうのも、図々しい気がしてきた。
これとは別に、なにか埋め合わせも考えよう。そうしよう。
「皿どこ? 俺も何か手伝う」
「ううん、座ってて。あ、そうだ、暇ならお礼でも考えといて」
「え?」
「解決してくれたお礼だよ。なにがいい?」
「何って――……」
「なんでも言って!」
棚から鉢を取り出して、炊きあがっているご飯を器に盛りつけた。ご飯は大目に炊いたので、予定よりよそう量が増えても大丈夫。
にんまりしながら、具材の入ったフライパンに火をかける。計量カップの中に片栗粉と水を入れ、菜箸でクルクルと掻き回す。
「麟くん?」
彼にふっと意識が戻り、横を向く。すっかり静かになっていたので、携帯でも眺めているのかと思いきや、彼は私をじっと見つめていた。
私と目が合って。彼が苛立たし気に舌打ちをした。
あれ、私、なにか気に障るようなことでもした?
「なんでもなんて簡単に言うんじゃねーよ」
麟くんが……怒ってる。
「出来もしないことを言われたらどうする気なんだ。俺が付き合えと言ったらお前は頷くのか?」
「……それは……」
彼が自身の艶やかな唇を、指先でそっとなぞった。
「今度はここにキスをと言えば……してくれるのか?」
「…………っ!」
ばっと目を逸らした。
扉の向こうで。ほんの少しだけ彼と触れ合った、あの日のことを思い出して私の顔が真っ赤に染まる。
頬が熱い。
心臓が震えている。どくどくと私の身体を揺らすから、計量カップの中身をフライパンの中に入れようとして、上手く円を描けなかった。
「どうなんだよ、苺」
……付き合えないよ。
キスも出来るわけがない。
麟くんの言う通りだ。何でもなんて、いい気になって言っちゃって。私には出来ないことだらけだったのに。
「ごめん。何でもは無理」
「だよな」
彼の言葉からすっと熱が引いた。
「いいか、やりたくない事までやろうとするなよ。……嫌なことは嫌でいいんだ」
「うん」
「お礼なら、ソレで充分だよ」
そう言って、麟くんがフライパンの中身に目を遣った。
私の作った、天津飯。
火を止めて。完成させたそれをご飯の上に乗せ、テーブルに運ぶ。一口食べて、麟くんがふっと口元を緩めた。ほんと……反則な人だ。
「美味いな。苺、料理上手なんだな」
柔らかく笑いながら褒めたりなんてしないでよ。
こんなの……惹かれるなっていう方が無理なんだから。
イジワルなようでいて、優しくて。
ドキドキばかりさせられて、どんどん好きにならされる。
こんな想い、……消してしまいたいのに。
ぎゅっとスプーンを掴む。出来たてのご飯よりもずっと温かい彼の言動が、胸にじわじわと染み込んで……。
私は。掬ったものにふぅふぅと息を吹きかけながら。胸の内に疼く想いもこうして冷ませたらいいのにと、そんなことばかりを考えていた。