10 お姫様のなりそこない
…………いい匂いが、している。
今は秋なのに。春の陽だまりのような温かな匂いが私の鼻腔を切なくくすぐっている。
なにかに、包まれているみたい。
お気に入りの毛布を被っているような、心地のよさに頬をすり寄せる。私を包み込むこの温もりに、今はただ身を委ねていたくって……
ゆらゆらと、揺れている。
それは私を不安にさせるような揺らぎなどではなく、赤子をあやすような柔らかな優しさに満ちていて……
なんだか、……居心地のいいゆりかごの中にいるみたい。
◆ ◇
「ん…………」
目を覚ますと、王子様が私の顔を覗き込んでいた。
金髪でもなければ、青い目だってしていない。童話に出てくるような王子様からはかけ離れている彼だけど、昔語りに出てくるワンシーンのようだと、揺蕩う頭でぼんやりとそんなことを私は思っていた。
「やっと起きたか」
黒い瞳に黒髪の、呆れ顔をした彼は、私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に搔き乱す。よく見ると私の左頬は白いシャツと触れていて、反対側の肩には彼の手のひらが添えられていた。
どうやら私は彼に横抱きをされているらしい。大きな手の向こうに、本棚と床の境目が見えたので、恐らく彼自身はフロアに座り込んでいるのだろう。
私をお姫様のように抱えた彼は、ぼーっとしたままの私を見つめ続けている。端正なその姿は、私の目には王子様にしか映らないのに、残念ながら、彼の腕の中にいる私はお姫様とは違うのだ。
そう、彼は王子様だけど。私はお姫様じゃない。
ただのチビないちご。
「突然倒れたから驚いたぞ。気持ちよさそうに寝ていたけど、寝不足か?」
お姫様じゃない私は、王子様の腕の中から逃げ出そうとして抵抗を試みる。彼の腕を振り払おうとして身を捩ってみたけれど、彼はほんの少し眉を寄せただけで、私の現状は変わらないままだった。
「暴れるなよ。まだぼーっとしてるぞ。眠いならもう少し寝ておけって」
「ううん、もう大丈夫……起きるよ」
「じゃあ下ろしてやるから、じっとしてろ」
ぞんざいな言い方をしている割に、彼はゆっくりと丁寧に私を地面に下ろしてくれた。心なしか目つきも優しくて、くすぐったい気持ちになってしまう。
「ごめんね、重かったでしょ」
「チビの苺ごとき、抱えるのなんて余裕だよ。それよりも、今日は夜更かしせずにちゃんと寝ろよ」
時計を見ると、20分も経っていた。
余裕なんて言っているけど……絶対に重かったはずだ。ちらりと見上げると、心配そうに私を見つめる瞳と目が合って、どきりとして慌てて下を向く。
誤魔化すように口を開いた。
「今、友達が泊まりに来てるんだけど」
「うん」
「夜型の子でさ、夜中の2時3時まで起きてるんだ」
「うん?」
「明るくて楽しい子なんだけど、起きてる間中ずっと賑やかで、なかなか寝付けないの。だから今日も、夜更かし一直線かなあ?」
言葉が駆け足ぎみになる。私のぎこちなさを感じ取っているのか、麟くんが黙り込んでいる。
心を落ち着かせたくて。何かの言い訳のように、私は必死で言葉を繰り出していた。
「寝相も激しいから、ベッドから蹴り飛ばされることも多くって……。そろそろ、ちゃんと対策を取らないといけないよね」
こうやって、麟くんにも迷惑かけちゃったし、ね。
覗うように見上げると、麟くんが両手を腰に当てながら唇を引き結び、呆れた目をして私を見下ろしていた。
「対策って、おま、おせーよ。そいつが泊まりに来てから今まで何日経ってると思ってるんだ。さっさと対策とやらを取りやがれ」
「やっぱり? でも、布団をもう一セット買うとなると、結構な出費になるんだよね」
憮然とした彼の表情に、たまらなく安堵する自分がいる。普段の私たちに戻れたようで。
「は、布団を買う?」
「取り敢えず、アイパッドと耳栓だけでも買いに行こうかな」
「いや、友達さっさと追い出せよ」
追い出せって言われても……。
琴音ちゃんも早く家に帰りたがっている。彼氏が迎えに来ないから意地を張っているだけで……だから私が幾らなだめても、琴音ちゃんは出て行かないと思うんだ。
私じゃダメ。
なおくんじゃなきゃ、琴音ちゃんは動かない。
「だめだよ、まだ彼氏と喧嘩中なんだもん」
「じゃあさっさと仲直りさせろよ」
「さっきの食堂での騒ぎ、聞いてたでしょ? あの調子じゃすぐには無理だと思うなあ」
「あの煩い男と騒がしい女か……」
さっきの食堂での様子を見る限り、仲直りはまだまだ遠い未来のように思える……。
「なあ。破局した方が早いんじゃないのか? 俺が壊してきてやろうか?」
「だめっ! 喧嘩してるけど、どっちも意地張ってるだけで……あの2人、今でもまだお互いのことが好きなんだよ。琴音ちゃんは、彼氏くんが迎えに来たらすぐに帰ると思うんだ」
彼氏くん、合コンを開かせまいと必死だったもんね。
琴音ちゃんだって、毎晩のように夢の中で彼氏くんの名前を呼んでいるし。携帯ばかりじっと見つめて、鳴るのを心待ちにしているし。
チャイムが鳴ると嬉しそうな顔をして扉に駆け寄って、ドアの向こうにいるのが関係のない人だと知っては、分かりやすく肩を落としてる。
そう。どっちもまだまだ、相手のことが好きなのだ。
そして厄介なことに、どちらも相手が折れてくれるのを期待している。
「彼氏に未練が無いから合コンに行く気じゃないのか? 琴音ちゃんとやらは」
「逆だよ、逆!」
「……ああ、合コンは苺の為だったか」
麟くんの視線が急に鋭くなった。
そういえばさっきもそんなこと言われたような気がするけれど……誤解だし!
「嘘、嘘だよっ! 私、彼氏が欲しいなんて、ひとっことも言ってないし思ってもいないからね。あれは琴音ちゃんの、彼氏くんに対する当てつけなんだって」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。合コンなんて興味ないもん」
彼氏くんといい麟くんといい、琴音ちゃんの口から出まかせを信じないで欲しい。
目を見ながらきっぱりと言うと、麟くんの表情がゆるりとほぐれた。
「てことは、本当に合コンに行くわけじゃないのか」
「ううん、このままだと連れて行かれる事になると思う。琴音ちゃん意地になってるし、勢いで行動する子だから、彼氏くんが謝らない限りストップしないだろうなぁ」
「――――は?」
ひえっ!
ほぐれたはずの表情が、再び険悪になってるしー!
「おま、嫌なら断れよ。なんてついていくんだよ」
「気は進まないけど、ご飯を食べながらお喋りするだけだと思えばそこまで嫌でもないし……。それに琴音ちゃんが行くなら、酔ってヤケを起こさないように私がついててあげないと」
「はっ。苺なんて、なんの防波堤にもならねーよ」
「大丈夫、お酒は飲まないつもりだもん」
自信満々に胸を張ったのに、目の前のイケメンはふぅと短い息を吐いた。むぅ、信用されてないな。
「―――――なるほど、根っこの処置が必要ってことか」
氷点下の呟きを耳にして、背筋にぞくりと冷たいものが走った。
恐る恐る見上げると、麟くんの瞳が恐ろしい冷気を放ちながら虚空を睨んでいる。
「あの煩い男が、お前んちに居ついている騒がしい女を迎えに行けば、すべてが解決するんだな?」
「お、恐らくは……」
誤解だとか違うだとか、相手の子はなんでもないだとか。言い繕う言葉ばかりを彼氏くんは口にするけれど、琴音ちゃんの求めているものは、たぶんそういうことじゃない。
浮気を疑うのは……何を言っても信じようとしないのは……それは、彼女が不安に感じているからで。
琴音ちゃんは謝って欲しいわけでも、納得できる説明が欲しいわけでもない。
恐らくは。ただ、好かれているという実感が欲しいだけなのだ。
「分かった。謝らせてやる」
「へっ!?」
「あの男、見覚えがある。俺と同じ学部のヤツだ。確か、次の講義が一緒だったはず……。まあ待ってろ、俺が話をつけてきてやるよ」
麟くんは腕を組みながら、ニヤリと不穏な笑みを浮かべた。