1 イジワルな王子様
それは記憶にあるよりも、ずっとずっと低い声。
「よお、ちびイチゴ」
けれど、私を小馬鹿にしたような呼び方だとか。
素っ気ないようでいて、どこか親しみのこもる温度を纏っているそれに、私はすぐに気がついて。
泣きたくなるほど懐かしいあの人を感じ取り、震えそうになって振り返る。
私のすぐそばに――――
ほんの少し手を伸ばせば触れられそうな距離に、彼が立っていた。
「久し振りだな。お前、背、縮んだ?」
一筋の風が吹いて、手触りの良さそうな黒の髪が流れるように宙を舞う。私と目が合って、彼の口元がうっすらと綻んだ。
「麟くんの背が、伸びたんだよ」
とっさに苗字が出てこなくって。
思わず名前で呼んでしまうのも、まるで、初めて言葉を交わしたあの日とそっくりで。
こみ上げる感情に胸を詰まらせる。
その時。ぱっと頭に浮かんできたものは、『逃亡』の4文字で……
――――あ、逃げなきゃ。
私は、反射的に踵を返していた。
◆ ◇
「なにも逃げることないだろ……」
くっ!
あっさり捕まってしまった……。
そりゃそうだ。私はアパートの部屋に入ろうとしていたところで声を掛けられたのだ。そして麟くんは、外に抜ける唯一の通り道である、階段側の通路に立ち塞がっていた。
外には出られず、反対側は行き止まり。いわゆる袋のネズミという状態。結局、1人馬鹿みたいにアパートの通路をうろうろとした挙句、部屋の中に逃げ込もうとして、「なにやってんだ?」と冷笑されながら麟くんに簡単に捕獲されてしまった。
「へぇ、苺もこのアパートに住んでたのか。奇遇だな」
そんなわけでなぜか今、麟くんが私の家の中にいる。
居座るつもりなのだろうか。涼しげな顔をして、ワンルームの真ん中にどっかりと座り込んでいる。
……いや逃げようとした私も大概だけどさ。
だからって、なんで部屋に上がりこんでるの?
確かに麟くんとは、中学の頃ちょっとだけ仲良くしていたけどさ。でも途中から疎遠になってたし、高校だって別々で、もうすっかり関わりなんてなかったのに……
逃げられてカチンときたのかな?
そっとため息を漏らす。返す返すも私は余計なことをしたようだ。
私、野原苺。大学1年生。
低すぎる身長を除けば、至って普通の女子大生。自宅から通うには、片道2時間弱と微妙に遠いため、現在アパートを借りて1人暮らしを満喫中。
平凡で平穏な日々を送っている私、学内一の有名人が部屋にいることに、ただいま絶賛困惑中……。
麟くん、どうしてこんなところにいたんだろ。
まさか麟くんもこのアパートに住んでるの?
まっさかぁ。
私の住むアパートは2階建ての小さな物件で、1つの階には4軒分しか部屋がない。ここに住んでもう半年以上経つのだ。麟くんが住んでいるのなら、とっくに気付いているはずだ。
いやでも。
苺「も」って聞こえた。
「もしかして……麟くんもこのアパートに住んでるの?」
「いや、俺は自宅から通ってる。友達がこのアパートの2階にいて、さっきまで寄ってたとこ」
「あ、そうなんだ」
やっぱり違っていたようで、ホッとする。
そうだよね。麟くんが同じアパートにいたなら、気が付かないわけがない。
だって麟くん、目立つんだもん。
ちらりと目の前の彼を見る。
透き通るような白い肌に、さらさらと流れるような黒い髪。すっと通った鼻筋に、艶やかで品のある口元。切れ長の大きな目にはばっさばさの睫毛が纏わりついていて、甘さを感じさせつつも全体的にクールな印象を受ける。
……相変わらず、桁外れのイケメンだな。
麟くんは昔から綺麗な顔をしていた。けれど中学時代は、まだまだあどけない可愛さのようなものが残っていたのに……久し振りに間近で見る彼は、綺麗ながらも男らしい顔つきに変わっていた。
「なにジロジロ見てんだよ。見とれてんの?」
「え? ちっ、違うしっ! いや久し振りだなあと思って……麟くん、大きくなったねぇ」
「なんだよそれ、お前は親戚のおばさんか」
そう言って、麟くんがほのかに笑みを浮かべた。
さっきまで冷ややかだった表情が、温かいものに変わっていく。
なに、急に。さっきまでむっつりしてたのに。
不意打ちの笑顔とか反則……
落ち着かない心臓を押さえて、私はガタリと立ち上がった。こういう時は飲み物を用意するに限る。
「えっと、とりあえずお茶でも入れるね。あ、コーヒーがいい? 紅茶もあるよ。ルイボスティーやハーブティーがいいなら、ちょっと買ってくる!」
「まてまて。買ってくるってなんだ。別になんでもいいし……というか、お前コーヒー飲めたっけ?」
「飲めないけど、友達にコーヒー派の人がいるから常備してるの」
「…………おま、あいっかわらず馬鹿だな。飲み物なんて家にあるやつ適当に出しときゃいいんだよ」
むか。馬鹿ってなによ馬鹿って。
なんか色々思い出してきた。そういや麟くんてこういう人だったな。中学の頃の彼は、クールでカッコいい王子様だと女の子達にもてはやされていたけれど、実態は私を小馬鹿にするのがだーいすきなイジワル王子なんだった。
「麟くんこそ、その口の悪いところ全然変わらないね」
「ちっこいとこも変わんねーな」
「ぐっ! 麟くんこそ……麟くんこそ……」
「俺は、大きくなったんだろ?」
ニヤリと口の端を持ち上げて、麟くんが立ち上がった。光が遮られて視界が一気に暗くなる。くぅ、目の位置が私と全然違う!
麟くん。中学の頃でさえ高い方だったのに、あれから更に成長するなんて……。
うう、羨ましい。絶対180超えてるよ。私なんて、145センチで止まってしまったというのに……!
見上げなきゃいけないから、首がだるくなってきた。言葉を詰まらせる私に、麟くんが目を細めて勝ち誇った顔をする。この人、私を馬鹿にするためにここにいるんだろうか。
なんでもいいと言われたので、冷蔵庫に常備してある麦茶をグラスに入れた。
よし、これ飲んだら帰ってもらおう。
「苺」
不意に名前を呼ばれて、どきりとする。
甘やかな低音ボイス。
声までかっこいいなんて、ほんと卑怯だな……
呼びかけに応じるように振り向いた。麦茶で潤されたのか、彼の口元が妙に艶めかしい。
反して視線は鋭くて。ドギマギしてしまい、私はパッと視線を逸らした。
「なっ、なに?」
「コーヒーの好きな友達って……もしかして彼氏?」
「ううん、友達だよ。というか男の子部屋に上げるの、麟くんが初めてだし」
「ふーん。じゃあ彼氏いない?」
「うん、いないいない」
「いないのか、ちょうど良いな。じゃあ俺と付きあおーぜ」
「ああうん、分かっ―――んぐっ!? げほごほごほっ!」
「……なに麦茶でむせてんだよ」
麟くんが整った眉をキュッと寄せながら、テーブルの上に置いてあったティッシュの箱を突き出してきた。
ありがとう。
……じゃなくて!
麟くん。今、なんて言った?
つ……付き合おう、って聞こえてきたんだけど……!
「きっ、急にどうしたのっ!? 麟くん、もしかして何か変わったことでもあった?」
「何かって……んー…、最近、友達が妹と付き合いだしたんだよな……」
―――友達って、葉山くんが?
麟くんがテーブルに肘をかけて手の甲に顎をのせ、気だるげな視線を私に向けている。美形恐るべし。なんでもない仕草なのにとてつもなく様になっている。
彼の顔がほんの少しだけ斜めに傾いた。前髪がさらりと横に流れて。隙間から覗く彼の瞳が甘く、揺れた。
「それよりさぁ。苺もフリーなんだし、なぁ、……いいだろ?」
思わずひゅっと息を飲む。
ワンテンポ遅れて、どくっと心臓が跳ねた。
そ……そんなもので誤魔化されないんだから。
彼に気付かれないよう軽く息を吸い、そっと吐きだした。少しだけ熱が逃げてくれる。冷静になると麟くんの思惑がなんとなく読めてきた。
付き合おうって。
それって。それって要するに。
葉山くんの代わりとなるような……ダミーが欲しいってことだよね!?
そんなの無理無理、無理すぎる。
こればかりは、引き受けるわけにはいかない……
「その頼みごとはお受けできません」
「なんだよ。断んの?」
「断るの!」
「ちっ。なんでも頷いてばかりのお人好しの癖に、こーいうのだけはキッチリしてんのな」
「なんでもホイホイ引き受けんなって言ったのは、麟くんでしょ?」
「あぁ、そんなことも言ったな。……覚えてたのか」
麟くんの瞳がふっと憂いを帯びた。少しだけ遠い目をして、それから急に現実に引き戻されたような顔をして、私と視線を絡ませた。
「じゃあこれも覚えとけよ、ちびイチゴ。俺は諦めるつもりはないからな」