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陛下!国の平和を願うなら、わたしのために美味しいごはんを作ってくださいっ!

作者: emanon

 むかしむかし、ある異世界に、周辺の国に比べ自然災害の多い〝チゴーネル〟という国がありました。

 季節外れの大雨や異様な竜巻などが原因で国力は衰退の一途をたどり、食糧援助をちらつかせては南の群島の領有権を渡すよう主張する国も現れ、事態は混迷を極めていました。

 険しい山の多い地形に誘発されるのだろうとは地政学者の弁でしたが、広大な山脈を切り崩すわけにもいかず、なすすべもありません。

 そこで国王陛下は、腕のいい占い師を探し未来視をさせるよう命じました。災害が起こる時期や場所をあらかじめ特定することができれば、事態を好転させることができると考えたのです。

 ところが、集まった者といえば小銭が欲しい手品師や魔女見習い、宮廷魔術師の座を狙うごろつきめいた魔術師ばかり。玉座で途方に暮れる国王陛下の前に現れたのが、サヨコでした。


 サヨコは他の者とちょっとばかし変わっていました。腰まである黒髪も、くりくりした鳶色の瞳も、チゴーネルのものではありません。その見慣れぬ服装からすわ流れ者か、と思いきや、笑顔は後ろ暗いことも不幸もないとばかりに底抜けに明るいものでしたし、くだけた態度や馴れ馴れしい口調も、却ってそれがあっけらかんとした性格を表しているようで、聞いているうちにいつの間にかあるがままを受け入れてしまっているのです。

 もしかしたら、ある種の魔力を帯びているのやもしれません。何しろ、控えている騎士たちも不遜な態度をいさめることを忘れてしまうほどなのです。


 国王陛下――お名前をセージュ様とおっしゃるのです――は当然国で一番偉い人ですから、無礼者は有無を言わさず首をはねられてしまいます。その上セージュ陛下は透き通るような金糸の髪と碧色の瞳を持つ美青年でありながら、先の戦争では自ら陣頭指揮を執り、第一線で勇敢に戦った武人でもありました。現在は王国軍の総帥でもあります。

 そのことを知らぬはずはないのに、サヨコは少しも臆することなく、はいはーいわたしけっこう先のことわかります、週休二日月給制賞与有給休暇等各種福利厚生完備住み込みで雇ってください! と言い放ったのでした。


「天候からギャンブルの勝敗、試験のヤマから恋愛成就までご希望のものは何でも視ますよぉ!」

「……ユーキュー……?」

「一見さんにはお試しでクッキー一枚につき五分コースをおススメしてます。他には、わたしが泊まってる宿の食堂の日替わりランチ一回につき半日コースとか、騎士団詰所の前にあるレストランのディナー一回につき三日コースってとこですかね。

 ちなみに、未来視の連続最高記録は五年で、別の国で株の流れを予知した経験があります。老舗の高級ホテルでだいたい五か月くらいかな、三食きっちり食べさせてもらったことがあるんですけどね? いやーさすがは五つ星ですね。食事一回につき一週間は余裕で視えましたよ! それ以上は奢ってくれる人がいたことがないので分かりかねます」

「待て。ということはつまり……」

「はい! わたしは美味しいものを食べれば食べるほど、はるか遠くの未来を視ることができるのです! ですから、予言させたければわたしに美味しいごはんをたっぷり食べさせてくださいね! ちなみに量は三人分がマストです!」


 なんだそれ。

 一瞬気が遠くなりかけたセージュ陛下でしたが、臣下に無様なところを見せるわけにはいきません。ごほん、と一つ咳払いをして、そういえば喉が渇いたな、と、傍らに用意された葡萄酒を口に含みました。

 鼻まで抜ける芳醇な熟成香と、まろやかな舌触り、上品な苦みが素晴らしい一杯です。名門醸造所でじっくり熟成された高級古酒なだけはあります。


「……そなた、酒は飲めるのか」

「飲ませてくれるんですか!? わー嬉しー! お酒とかすごい久しぶり! それワインですよね! チーズないんですか? ジャーキーとかでもいいですよ! ……ないの……あっそう……」


 最初のテンションはどこへやら、つまみがないと知るやいなやあからさまにしょんぼりした様子のサヨコでしたが、差し出されたグラスを見た途端、ぱあっと花の咲くような笑みを浮かべ、しきりに香りを嗅いではありがたがっています。

 セージュ陛下はその様子を見て、まるでかたまり肉を拾った野良犬みたいだな、と思いましたが、おくびにも出しませんでした。陛下はポーカーフェイスを崩さないよう幼少のみぎりから訓練されているのです。


 さて、長い時間をかけ葡萄酒を大切に味わって飲んだサヨコはといえば、瞳を潤ませほぅ、とため息をつき、うっとりとした表情で一言、川があふれますね、と言いました。


「国境近くに水力発電所っぽい……えーと()()()だといわゆる魔力精製所、でいいのかな? みたいな施設がありますよね。二週間後に大雨で堤防が決壊しますから、周辺住民を避難させるなり修繕するなり対策を取られたほうがいいですよ」


 瞬間、陛下の纏うオーラが静から動へと大きく変化しました。緊張と怒気、戸惑いの匂いがします。

 国境近くに施設があることは研究者と一部の貴族、護衛の兵士しか知りません。河川から魔力を作るという、この国では前人未到のプロジェクトのはずが、サヨコははっきりと〝精製所〟という言葉を口にしました。見回りの若い兵士から、石垣の一部が老朽化し崩れているという報告を受け取った記録もあります。

 サヨコがなぜそれを知り得たのか、という疑問に対する答えはありません。しかし、無視するにはあまりに符号が多すぎました。

 平静を取り戻した陛下は、臣下に目だけで命ずると共に、サヨコに対ししばらくの間王宮にとどまるよう仰せになったのでした。


 *


 二週間後の顛末はといえば、はたして予言の通りとなりました。チゴーネルには大雨が降り、修繕したはずの石垣は残念ながら跡形もなく流されてしまいましたが、多くの人命を救うことができました。


 ところで、怪しげな占いに頼るまでに災害に胸を痛め、迅速な対応を取ることができる柔軟な姿勢を持つ国王陛下が、なぜこれまで国内の様子に一切耳を傾けなかったのだろうと疑問に思う方もいらっしゃることでしょう。実は、チゴーネルは歴史こそ古いものの、長きにわたる宗主国支配から抜け出したばかりで、その立役者となったのが他ならぬセージュ陛下だったのです。


 セージュ陛下には四男三女の兄妹があり、とりわけ長男のサヴァーニラ王子は政治学に秀で国王としての将来を嘱望されていましたが、兄王子たちは宗主国や宗主国の同盟国に留学という名目で人質として軟禁され、内政に関わることは決して許されませんでした。

 幼すぎることを理由に王太后の手元に残された四男のセージュ王子は、表向きは従属国の国王として振舞う父王やその側近に秘密裏に教育を施されたのち、反乱軍を王国軍と統合し、統治領で蜂起しました。クーデターを装い、宗主国に反旗を翻したのです。

 父王が崩御された時、チゴーネルを治めるは身を投げ打ち王家の名誉を取り戻したセージュ王子がふさわしいとして、兄妹全員が彼の後ろ盾となることを選びました。

 その後は主要研究所の所長や外務大臣、政党総裁を務めたり、結婚して小国の王位継承権を得るなど、それぞれが国家を担う礎として自らの役割を全うしているというわけです。


 さて、これまで国の独立運動に邁進するあまりおろそかになっていた内政に力を入れようと、セージュ陛下は国内外から珍しいお菓子や希少な果物を取り寄せたり、著名な料理人を召致しては素晴らしい料理を作らせました。美味しいものをせっせとサヨコに食べさせることで、予言を得ようとしたのです。

 サヨコはといえば、視える時間にムラはあるものの、出された食事に一切の文句を言いませんでした。彼女の作法は一風変わっていて、まずはすっと背筋を伸ばし手を合わせます。次に軽く頭を下げてから、小声でいただきます、と呟くのです。


 この国では祈りを捧げず食事を摂ることは不作法とされています。

 そなたには信仰する神が存在しないのか、と陛下が皮肉めいた口調でおたずねになりますと、サヨコは気を悪くした様子もなく、これは森羅万象に感謝する挨拶なんです、と答えました。言葉が短いだけで意味は同じだというのです。近隣諸国に同じ風習は見られません。サヨコは一体どこから来たのか、謎は深まるばかりです。


 ところで、サヨコは実に様々な未来を予言し多くの人を救いましたが、その内容は凶事だけにとどまることを知らず、例えば、はるか遠くの国に正妃として嫁いだ二番目の姉君とは手紙だけのやり取りであったので、文面からは結婚生活が上手くいっているかどうか読み取ることが難しく、セージュ陛下は密かに心配していたのですが、濃厚な味わいと塩味のきいたトロトロチーズ、トマトソースとバジルの香りがかぐわしいクリスピーピッツアと引き換えに、王様との仲睦まじいご様子やご懐妊を知ることができましたし、蟹のまるごとスパイス炒め――魚介の旨味が凝縮したピリ辛ソースを甘いふわふわの白パンに浸して食べるとこれが絶品なのです――が振舞われた時などは、とっくの昔に枯渇したはずの魔法鉱石の鉱脈を探し当て盗掘する者が現れる、と予言したものですから、降って湧いた好景気に国中が大騒ぎ。急遽祝祭が開かれることとなりました。



 一夜だけ特別に一般開放された王宮庭園は美しくライトアップされ、楽団の奏でる流行りの音楽と、歌い踊る人々の笑いさんざめく声が響いています。

 セージュ陛下はサヨコを皆に紹介し、ある褒美を取らせました。王宮近くにある、湖畔と緑の美しい小さな領地です。そこはセージュ陛下の母君、すなわち今は亡き王太后が愛した特別な場所でもありました。


 サヨコの未来視はまぎれもない本物でした。使いようによっては世界を掌握することもできるでしょう。平和な世を築くため、敵味方問わず多くの血が流れました。犠牲になった魂のためにも、心無い者に身柄が渡らぬよう、サヨコをチゴーネルに留め置かなくてはなりません。この褒美は、サヨコに対する一種の鼻薬であるとともに、彼女が陛下直々に招聘(しょうへい)した要人である、と公に知らしめ、暗殺や中傷から守る狙いもあったのです。


 さらに陛下は、サヨコに特別な衣を纏わせました。太古の昔に存在したとされる聖女の法衣です。


 陛下はこれまでサヨコに対し褒賞として、社交用の背中の開いた美しいドレスや宝石など、女性の気を引きそうな贈り物を一通り用意しましたが、一度も袖を通すことなく侍女に下げ渡されていました。

 チゴーネルの女性には、ドレスや平服の下に身体の線を整えるためのコルセットを身に着ける習慣があるのですが、長年自由に暮らしてきたサヨコは、今さら身体を締め上げる気がしない、といって拒否したのです。さりとていつも着ている服は何度も繕ったせいかひどくくたびれていて、みすぼらしいことこの上ありません。

 さんざん悩んだ末陛下が思いついたのが、聖女の法衣を着せることだったのです。これなら対外的にもサヨコが何者なのかを一目で示すことができますし、サヨコの服とデザインもそっくりでしたから、きっと抵抗なく着られるだろうと考えてのことでした。


 バルコニーで陛下とともに手を振るサヨコの姿は、まるで神話の絵本から抜け出てきたかのような、文字通りの聖女そのものでした。月明りに照らされた清らかな絹衣は、歩みを進めるたびにサラサラと波打ち、風に揺れる長い黒髪は夜空に溶け、鳶色の瞳には煌めく天灯が映りこみ、柔らかな光が宿っています。

 真っ白な詰襟の正装を纏い、凛とした面持ちの陛下と並ぶと雰囲気がぴったりで、群衆からは感嘆の声が上がりました。


 一通り挨拶も終わり自室に下がろうか、というところで、サヨコが法衣の袖口をちまっとつまみ、袖下をまるで蝶の羽ばたきのようにパタパタ扇ぎながら陛下に駆け寄ってきました。


「陛下! 色々ありがとうございます! この服お腹周りが楽ですごく好きです! これからもいっぱい食べていっぱい予言頑張りますね! それにしてもこの服、昔着てたやつによく似てるなあ……」

「昔? いつも着ている服とは違うのか」

「あの上に着る〝裳〟っていうのがあるんですよ。裾がすーごく長くて引きずっちゃうから、よく踏んで転んでたなって、久しぶりに懐かしくなっちゃいました」


 陛下はサヨコについて身元調査をさせたことはあれど、王宮に来る以前の暮らしぶりを本人に直接おたずねになったことはありませんでした。予言さえしてくれればそれでよかったからです。そして、サヨコは求められた務めを立派に果たしました。これ以上何も必要ないはずなのに、なぜでしょう。いつもは見せない切なげなその横顔を、憂いを含んだ長い睫毛を見た瞬間、知りたい、という謎の衝動が陛下の胸に突如沸き起こったのです。


 動揺を抑えながら口を開きます。喉が少し震えていることに内心うろたえたものの、決して表には出しません。陛下はポーカーフェイスがお上手なのです。


「そなたは、どこから来たのだ」

「うんと遠くから」


 ほっそりとした手が指し示したのは、天に瞬く星でした。わたしは一度死んでからここに来たんです、とサヨコは囁きました。縁起でもない話題のわりに、表情には一切の翳りが見られません。


「信じてもらえないと思うし信じなくていいです。今日はなんか、しゃべりたい気分なんでテキトーに聞いてもらえたらそれでいいんで。ていうか、全部忘れてくれたほうがこっちも都合がいいかもみたいな」

「……聖女の伝承に似たような小話がある。徳を積んだ魂が、ここではない世界から我が国に現れ、豊穣をもたらすという」

「徳は積んでたかどうかわかんないですけど、悪いことはひとつもしてませんからそこは安心していいですよ。逆に運が悪すぎて神様が同情してくれたのかもなぁ……」


 サヨコが変わらぬ笑顔でさらっと口にした過去は、実に禍々しいものでした。


 甘いものを食べると、ちょっとだけ先のことが分かる以外はごく普通の子どもだったそうです。あまり裕福ではなかったため外食の経験はなかったといいます。優しい姉と仲の良い両親と暮らした小さな家は、初等教育への進学を間近に控えたある夜に、家族ごと焼かれてしまいました。

 〝教祖様〟を名乗るでっぷりとした男に連れ去られたサヨコは、巫女装束を着せられ暗い檻の中で山盛りのご馳走を無理やり食べさせられた挙句、指示された人間の未来を視るよう強制されたのでした。


「わたしのいた世界にも、この国と同じように義務教育があったんですけど、通わせてはもらえませんでした。本はいっぱいあったみたいで、読んだ端から交換してもらったから退屈はしませんでしたけど、ずっと地下に閉じ込められてたから時間の感覚が全然なくて。

 多分十六歳くらいの時かな、警察の、あっこちらでいう騎士団のことです。強制捜査が入る未来が視えて、これでやっと外に出られるって一瞬喜んだんですけど、すぐに〝教祖様〟に首を掻っ切られるって分かっちゃって。多分あの時一生分泣いちゃったんだろうなあ。それ以来どんな残酷な未来を視ても、全然涙が出ないんです」


 生き延びようと必死に抵抗したものの、結局未来視どおりに死んだサヨコが再び目を覚ました時には、すでにどこかの国の奴隷商人の馬車に乗せられた後でした。今過ごしているこの時間は、神様が与えてくださったいわばおまけの人生なのだ、とサヨコは言います。


「力を使わずに、普通に、自由に生きていける未来を夢見てました。でも現実は、会いたい人も、一緒にいたい人も、話したいこともない。知り合いもいない土地でどうやって生きて行ったらいいのか分からないし、これといって特技があるわけでもないし、言葉は通じても学がない。住む家どころか、今日食べるパンにも困る始末でした。だから春を売るよりはいいだろうって、そんな消極的な気持ちでまた未来視を始めたんです」


 陛下がずっと不思議に思っていたことが一つありました。それは、これほどまでに強大な力を持つサヨコを、どうして今まで誰も見つけることができなかったのか、ということです。答えは簡単でした。サヨコは雨風と目先の飢えをしのげればそれでよかったのです。

 ごろつきに見つからない程度の小銭を路上で稼ぎ、〝占い〟が当たると評判になりそうな気配を感じたら次の街へ。時には国を越え、足跡(そくせき)を残さぬよう様々な場所を渡り歩いてきたのでした。

 老舗ホテルの件は、奴隷商人から自由を買う、すなわち解放されるための唯一の大仕事だったのです。


「金も名誉も要らぬと言うなら、そなたはなぜ余のところへ来た。余がそなたに課している仕事は、かつて〝教祖〟がそなたに強いたことそのものではないか」

「わたし、この国に来て一番に、名物だっていう屋台の炒め麺を食べたんです。モチモチした麺と魚醤の深み、独特の甘みに、ちょっぴり酸っぱい風味と香草がアクセントになってて、次から次へと夢中で食べちゃいました。ぷりっぷりのエビもたっぷり入っててほんとに美味しくて、お腹も空いてたからついおかわりもしちゃって。

 食べ終わってお腹いっぱいになったちょうどその時、陛下がわたしの予言で大勢の人の命を救う未来が視えたんです。


 すごく感動しました!

 〝教祖様〟は自分の私腹を肥やすためにわたしの家族を殺しました。力の持ち主であるわたしでさえ、自分のお腹を満たすことしか考えていないのに、名もなき人々を救うためにわたしの力を欲しがってるひとがいるなんて。世界は捨てたもんじゃない! このひとのところに今すぐ行ってお役に立たなきゃ! って思ったんです!」


 尊敬の念に満ち溢れた鳶色の瞳を見た瞬間、奇妙な感覚が陛下を襲いました。サヨコは決して幸せに育ったとは言い難い。それなのに心は未だ無垢なままなのです。このまっすぐな心根に恥じることのない君主にならねば。なりたい。この者の宿す憧れを失いたくない。そう思わせるだけの熱量が、サヨコの向ける視線には確かにありました。


「――改めてそなたに誓おう。人民の幸いのために死力を尽くすと。サヨコ、どうかこれからも余に力を貸し……」


 陛下はサヨコの崇高な魂にふさわしい言葉を送らんと、手袋を嵌めた手を胸に当て、おのが心の命ずるまま首を垂れたのです。が。


「あっそのことなんですけどぉ、ちょおっと相談いいですかね? 最近調子おかしいっていうかぁ今のままだと難しいかもなんですよぉ。なんかぁ頭下げてもらったのにすみません」

「……。……。……」

「おおー! 陛下いっつもむすっとしてるのに、ハニワ顔とかするんですね! かーわーいーいー!」

「はに……、……っかわ!? ……か……、………………かわ……」


 破顔するサヨコの前に、陛下の鉄壁なポーカーフェイスが崩れたのは、今にして思えばこの夜が最初だったのかもしれません。

 余談ですが、魔法鉱石の盗掘()()者に対しては鉱脈を探し当てた功績を称え対価を支払った上で、陛下の三番目の兄、カイネ様が所長を務める王立研究所で雇用することが決まりました。苦労して博士号を取り就職した鉱山会社で上司にパワハラを受け退職。体を壊し金に困った末盗掘に手を染める、はずだった彼の人生は一変し、その後は職務に邁進し多大な功績を残すとともに、温かな家庭を築き老衰で亡くなるのですが、このお話には関係ありませんので割愛させていただきます。


 *


 戦乱と災害に翻弄され、誇りを失い疲弊し、長きにわたり暗闇をさまよっていたチゴーネルは、予言の聖女と解放の賢王というよりどころを得たことでみるみるうちにかつての活気を取り戻していきました。

 奴隷制度は廃止され、道路は整備され、教育制度は拡充されました。とりわけサヴァーニラ宰相と共同で行った官僚制、議会制の導入は国内外においても高く評価され、のちに割譲された領土を取り戻すきっかけとなりました。ご興味がおありの方は、教科用図書としても採用されております〝新編・チゴーネル近代史〟第三章(チゴーネル文教出版)に詳しい経緯がございますので、そちらをご参照いただければと思います。


 さて、つい先日「最近調子おかしいの」などとのたまっていたサヨコですが、医師の診察を受けたところ半年続いたご馳走責めによる食用油の過剰摂取が原因であることが分かりました。当人曰く「美味しいは美味しいんだけどすぐお腹が痛くなるようになった」「御不浄に近づけば近づくほど予言が遠のいていく」「ていうかぶっちゃけコース料理ばっかで飽きました」。


「では、そなたの好物の単品料理で都度食べたいものを命じるがよい。今まで呼んだ料理人の中でこれぞと思う者を何人か選出し……」

「それじゃ今までと大して変わんないじゃないですか。なんかもっとこう、普通かつ目新しい料理が食べたいんですよねー、物珍しさもありつつあんまり創作創作してないっていうか、庶民の家庭料理的な雰囲気が……あっ! 陛下は料理しないんですか?」

「……、……、……うん?」

「や、わたし今ほら家庭教師つけてもらってるじゃないですかぁ。歴史の授業で習ったんですよ。陛下は戦場で野営したご経験がおありになるって。ということはですよ、もしかしなくても陛下はこの国一贅沢な舌を持ちつつ粗食にもそれなりに親しみのある希少な存在なのでは? と……」

「――――そなた、余に厨房に立てと申しておるのか!?」


「学校に行ってみたかった」というサヨコの一言が引っかかっていたセージュ陛下は、年齢層の幅広い高等教育機関に通わせることを思いつきました。金品に興味を持たぬサヨコには、学友と過ごす時間こそが何にも勝る報酬になるだろうと考えたのです。ところが、どう調整しても警護上の問題を解決することが難しく――襲撃の瞬間を未来視で視ればいい、と思われるでしょうが、剥き出しの宝石というものは、ただそこに存在するだけで周囲の悪心を掻きたて、本来起こるはずのなかったトラブルをいたずらに招いてしまうものなのです――計画はあえなく頓挫してしまいました。代わりに、幼少時代の陛下を育て上げた教育係をあてがうことで、学ぶ機会だけは用意したというわけです。

 教育係の報告によれば、サヨコはまるで乾いた土が水を吸うようにそれはもう熱心に授業を受けているとのことで、平素は眉一つ動かさぬ陛下もこれには思わず目尻を下げたものでしたが、それがよもやまさかこのような事態を招くとは。


 いつもの冷静さはどこへやら、驚愕の表情を隠しきれない陛下を置き去りに、拳を振り上げたサヨコは頬を紅潮させ熱弁し続けています。


「剣とペンと権力しか握ったことのない国王陛下の手料理ですよ! 想像しただけですごくないですか!? これまでに誰一人として食べたことのない幻のメニュー! 世界中どこを探したって、どれだけお金を積んだって買えないですよ! なんて貴重なんだろう! おまけに大変な思いをするのは陛下お一人だけ! 国庫から予言用の予算を割く必要もない! コスパがいい!」

「よ、予算の話をよりにもよってここで持ち出すとは……、ひ、卑怯者め……」


 そうなのです。美食のお取り寄せや新進気鋭の料理人の召致にはとんでもない大金がかかるのです。セージュ陛下はお優しい王様です。まわりまわって国民のためになるとはいえ、贅沢品や嗜好品を国民の血税で賄うことに罪悪感がないわけではありません。

 あからさまにうろたえる陛下に対し、サヨコがダメ押しとばかりに手を合わせ、可愛らしく首を傾けておねだりを始めました。


「陛下! 国の平和を願うなら、わたしのために美味しいごはんを作ってくださいっ!」


 きっと予言が捗ると思うんだよなぁー、そういえばぁ農務大臣が今後五年間の農耕地の天気が知りたいとか言ってたなぁー、などとチラッチラしながら追い込んでくるサヨコに逆らえるはずもなく、哀れな国王陛下は一度もやったこともなければ一生やる予定もなかった料理に挑戦させられるハメになったのです。


 料理番に助力を乞い、陛下が用意したのはサラダとゆで卵、フルーツでした。野菜は洗ってちぎって盛っただけ、卵はゆでて塩を振っただけ、フルーツは切っただけ。このようなものを料理とは呼べぬ、とひたすら恥じ入る陛下をよそに、サヨコは大喜びで褒めちぎると全て綺麗に平らげてしまいました。


「わたしのいた世界には、ゆで卵が宮廷料理の国があるんです。正確にはポーチドエッグだったかな? ヨーグルトソースがかかってるらしいんですけどね? いやぁーそれと知らずにいきなり初回で宮廷料理を作ってしまうなんて、さすがは一国の王様ですね! デザートもまるごとメロンに白薔薇、すいかに赤い薔薇が咲いてすっごい華やか! フルーツの彫刻なんて生まれて初めて見ました! ありえないムチャぶりしたのにこんなに一生懸命、丁寧に作ってくださって……、ほんとにありがとうございます!」


 肝心の予言はというと、今後三ヶ月分の農耕地の天気と、二か月半後に隣国から侵入した野盗が山岳近くの村を襲うという内容でした。狼藉者が下見を始めている可能性があるので、陛下は村から一番近い騎士団の分所に様子を見に行かせることにしました。

 陛下の料理スキルレベルは惨憺たるありさまでした。刃物の扱いには自信があるものの、ブイヨンの取り方はおろか〝ひとつまみ〟と〝少々〟〝ひとつかみ〟の違いすら分かりません。〝適宜〟〝適量〟に至っては耳にしたことすらありませんでした。せめて食材を無駄にしないよう熟考した上で選んだメニューだったのですが、五年とまではいかずともまずまずの予言を得られた上、思ってもみない高評価に陛下の胸はじんわりと温かくなり、頬は勝手に緩んでしまいます。


 だだもれる喜びを咳払いでごまかしながら、次はもっとすごいものを作ってしんぜよう、楽しみにしているがよい、と、いささか得意げに胸を張った陛下でした。


 *


 君主たるもの、国民の模範となるべく清く正しく研鑽に努めるべし、とはチゴーネルの王家の訓戒でありました。

 最初のうちこそ黒焦げのハンバーグや、煮えてはいるものの異様に味の薄いポトフなどを作っては肩を落としたセージュ陛下でしたが、何を出しても嫌な顔一つせず、喜んで食べて褒めてくれるサヨコに申し訳ないと奮起し、手すきの時間に料理本を読んだり、以前サヨコのために呼び寄せた料理人から彼女の好みの味付けを習ったりとたゆまぬ努力を続けた結果、十人中八人はお世辞抜きで美味しいと感じる家庭料理を作ることができるようになりました。


 人並みに料理が作れるようになると、次に気になるのは食べた人の反応です。

 サヨコはいつも王宮内にあてがわれた自室でひとり、黙々と料理を食べては侍女に予言を持たせるのですが、いつの頃からか食事時になると陛下がふらりと現れるようになりました。上機嫌で食べるサヨコの前に黙って座り持参した書類に目を通し、お皿を下げるタイミングでさっと去るのです。

 日を重ねるごとに料理の盛り付けはより美しく工夫され、出来立てが一番美味しい食べ物はアルコールランプとストーブスタンドを使い熱々のまま配膳されるよう改善されていきました。


 サヨコもすっかり心得たもので、ラディッシュの飾り切りが綺麗だとか、プリンのなめらかな舌触りが素晴らしいだとか、良いところをたくさん見つけては褒めたたえ、次はあれが食べたい、こういう料理が気になる、と陛下に話しかけるようになり、二人で同じ食卓を囲むようになるまでさほど時間はかかりませんでした。


 陛下自らが作成過程に携わっている上、数人の料理番が味見や材料の吟味を担当しているため特別に毒見役を置く必要もなく、温かい料理を自分の好きなタイミングで食べることができる。サヨコとの食事は陛下にとっては良いことづくめでした。

 最初の頃こそ料理の感想や工夫した点などを真面目に語り合っていた二人でしたが、次第に打ち解け時には私的な話もするようになりました。

「授業のここが分からない」から始まり、いたずらをして教育係に叱られたこと、父王にプレゼントとして贈られた虎の話、幼馴染のアンヌも交え、家族の皆で避暑を楽しんだ美しい領地の思い出、――兄王子たちに会えず心細かった時、慰めになってくれた学友のこと。


「そなたに友人を作る機会を用意してやれず、すまないと思っている。見知らぬ土地で心を許せる者のいないことがどれほど辛いか、余も決して知らぬわけではないのだが……」

「別に平気です。檻の中でもこっちに来てからもずうっと一人でしたから。それに、今は陛下が一緒にいてくれるじゃないですか。予言を得るのが目的とはいえわたしのためにわざわざご飯を作ってくれて、一緒に食べてくれて、お話までしてくださって! わたし毎日とっても楽しいです!」

「……」


 サヨコの予言のおかげで、陛下は余暇時間を作ることができるようになりました。

 数年寝起きだけに使っていた部屋では、手つかずの楽しみが陛下のお声がけを待っています。買ったはいいが読めていない大量の本、新しく発売されたボードゲーム、社会福祉団体からのチャリティーの招待状、学友からの同窓会の誘い。どれもこれも魅力的でしたが、結局陛下が手に取ったのは釣り道具とフィッシンググローブでした。


 サヨコのために生クリームをたっぷりのせたカップケーキを作った陛下は、天気のいい余暇の日を予言させ、例の湖畔の領地へ彼女を連れ出しました。旬の淡水魚を食べさせてやるためです。

 風がそよぎ、きらきらと輝く湖面に、ぽちゃりと投げられたルアーが波紋を描きますが、反応はありません。ボートの上で日傘を片手にニヤニヤした表情のサヨコが、むすっとしたまま背中を丸め釣り糸を垂らす陛下をからかいます。


「ぜーんぜんアタリ来ないですねぇ。海に行ったほうが良かったんじゃないですか? 海釣りはそこそこお上手なんでしょ? ここは釣り堀みたいなもんだから魚も慣れちゃってなかなか引っかからないんだってワウドストラ先生に聞きましたけど」

「おかしなことを言う。そなたには未来が視えるのだから、今日の獲れ高などとっくに見当がついているのであろう? 別に余に付き合わずともあちらで待っていればよいではないか」

「知らないです。知りたくないから」

「……?」


 未来を知りたくないなんてことがあるのだろうか。いやそんなことよりも。

 距離が近い気安さ故か、陛下は思ったそのままを口にしました。


「サヨコ。余はこれまで未来視はそなたの自由にはならぬものだという認識でいたのだが、それはつまり何をどこまで知りたいか、ある程度は自分で制御できるということなのか?」

「カップケーキすごく美味しかったです。チョコチップがたっぷり入っててみっしりしっとりしてて、甘くて優しい匂いがして、ほんのりあったかくて。一口食べた瞬間、陛下が釣りに誘ってくれるって分かって嬉しかった。食べ終わるのが寂しいって、生まれて初めて思いました。


 望めば先を知ることはできました。でも、陛下と何をお話しして、何が起こるか、お魚はどんな味なのか、どうしても知りたくなかった。未来を、中身の見えないサプライズプレゼントみたいに感じて、そんな自分にもびっくりして。ワクワクして。

 だから、当日の天気だけ視て、そのあとは市井の様子を視て終わりにしました。


 陛下のご質問に対するお答えですが、正確には、未来は確かにそこに存在しているけれど、それ以上視たくない場合は他の方向に目を逸らせば視界から外すことができる、っていう感じです。目に入れさえしなければ、視なくて済みますからね。とはいえ、わたしの意志とは関係なく視たくないものがどっと流れ込んでくる時もあるので、詳しいことは結局よく分からないんですけど」


 湖の対岸に、天幕の下で談笑する護衛騎士たちの姿が見えます。ボートは二人乗りなので、万一溺れた際救助できるよう控えつつ、火の番をしているのです。

 青空に長い黒髪が舞い、木立からさわさわと葉音がします。サヨコの柔らかな腕が布越しに陛下の肩に触れました。黄玉の瞳に自らの姿を認めた時、唐突に今この瞬間ここにはサヨコと自分のふたりきりなのだ、と感じ、なぜか胸がぎゅっとしました。

 穏やかな息遣いがします。ほんの少し顔を傾ければ唇に触れてしまう、と気づいた陛下は耳まで真っ赤になりましたが、知ってか知らずかサヨコは淡々としたものでした。


「最初は、陛下が何を作ってくれるのか視てました。何が出てきても動じないよう、心の準備をするためです。作ってくれって無理を言ったのはわたしだから、たとえどんな料理が出てきても全部食べ切ってちゃんと良いところを伝えようって決めてたんです。

 でもどんどん上手になって、そのうちわたしが何が好きで、何が苦手か、何も言ってないのに明らかに知ってるような料理が出るようになって……、だんだん、食事の時間が心から楽しみになってきて」

「……今までは楽しくなかったのか」

「楽しいのと美味しいのって、感じる回路がちょっとだけ違うっていうか、うーん、なんて言えばいいのかな。わたしのいた世界には、鳥の口に漏斗を入れて胃がはちきれるくらい餌をたっぷり流し込んで、太らせた肝臓を食べるっていう、お金持ちのための高級料理があるんです」


 その先は言わずとも分かりました。会ったこともない、これから会うこともない、見知らぬ男の幻声が、陛下の頭の中に響いたような気がしました。


 たくさん食べろ。予言を産め。

 誰かに渡すくらいなら、お前をこの手で殺してやる。


「今は何も知りたくないんです。あっ仕事はちゃんとしますよ! そうじゃなくて、なんていうか……、今までは、自分の身に何が起こるのかどうでもよかったんです。だって檻の中は食べて未来を視て寝るだけで毎日同じだったし、こっちに来てからも面白いことなんか何にもなくて、ちょっとでもおかしな感じがしたらさっさと逃げてたから。でも今は……、

 ――――あっ引いてる! 陛下! 魚食いついてます! 逃げちゃうからすぐ上げて!」

「サヨコ! 網! 網を寄越せ! すくって針を外すから!」

「ちょっあっ釣り糸切れたっ逃げる逃げる! 待ってお願いああっヌルヌルして掴めないっ活きが良すぎるぅ! ウロコが飛び散るぅ! ちょっと陛下あっ! 笑ってないで手伝ってくださいよ! 人が困ってるのになんで笑顔全開なんですかぁ! いっつも表情筋死んでるくせにぃ! 前言撤回! やっぱ視とけばよかったぁあぁあ!」



 釣った魚は丁寧に下処理され、たき火で炙られ塩焼きになりました。パリパリに焼かれた皮の香ばしい匂い、脂がほどよく乗りふっくらとした身は大変に美味しく、さほど手間のかかっていない原始的な料理にもかかわらず、海外の大規模な自然災害や人道的危険に関するいくつかの予言を得ることができました。陛下とサヨコ、お互いの身体からは生臭いにおいがしていましたが、茜色に染まる笑顔はどちらも晴れ晴れとした爽やかなものでした。


「ここ、すごく綺麗で静かでいいところですね。今日、連れてきてもらえて嬉しかったです」

「余も久しぶりに来られて楽しかった。活きのいい魚が食べたければいつでも言うがいい。また釣って焼いてやる」

「焼き魚もいいですけど、次はフリッターなんてどうでしょう! 外はパリッと中はジューシーなやつ! レモンをかけて、ケチャップでしょ、オーロラソースにタルタルソースでいただくんです! きっとお酒にも合いますよぉ!」


 *


 サヨコとセージュ陛下が出会ってから、実に三年の月日が流れようとしていました。


 予言で得た気象情報を元に、備蓄計画や地区計画が大幅に見直されました。鉄道が敷かれ、魔力で走る列車が導入され、古い街並みはその趣を残しながらも近代的な雰囲気へと変化し、景観こそずいぶんと様変わりしましたが、チゴーネルは聖女の予言と勤王家の政治家たちに支えられながら、陛下の夢見た治世安楽へと一歩一歩近づいています。

 出生率も上がり、景気は緩やかですが上昇しています。食うに困らなくなった人々の関心は、三十三年もの間浮いた噂一つなくストイックに独身を貫いているセージュ陛下のお世継ぎ問題に移り始めました。


 近隣諸国からは婚姻により同盟を結ばんとひっきりなしに縁談が持ち込まれていましたが、そのすべてをサヴァーニラ宰相がはねつけていたことも手伝って、これまでの慣例通り王家の遠縁にあたる何人かのご令嬢から王妃が選ばれるに違いないともっぱらの噂です。本命と目されているのは陛下の幼馴染かつ王太后の甥の次女であり、現在は海外にご遊学中のアンヌ公爵令嬢ですが、大穴で聖女様の可能性もあるのでは、祝祭の時なんだかいい雰囲気だったし、などと賭けをする者まで現れる始末。


 がしかし、セージュ陛下はというと自身の噂など眼中にないどころか、様子のおかしいサヨコの心配ばかりしています。予言は相変わらずよく当たるし本人も至って健康なのですが、ここのところ表情に精彩を欠いているような気がするのです。

 ある夜、頭の中のグルグル思考が限界に達した陛下はサヨコの部屋を秘密裏に訪れ、寝入っていたサヨコを叩き起こすと開口一番にこうたずねました。


「サヨコそなた、最近元気がないようだが、食事に不満があるのか……?」

「もーうるさいなあ今何時だと思ってるんですかぁ。そんなん明日にしてくださいよぉ」

「――――明日の朝では朝食に間に合わないではないか! 何が食べたい!? 申してみよ! 今なら何でも作ってやれるぞ! 天然酵母のふわふわロールパンか!? ブルーベリーのクリームをたっぷりはさんだベーグルか!? フルーツのデニッシュか!? オーロラソースと厚焼き玉子をはさんだハードパンか!」

「別になんもないですよ。明日はミルクトーストがいいです。じゃ、おやすみなさい」

「そなたまさか……」


 瞼を開けもせず再び布団にもぐりこもうとするサヨコを引っ張り出し、一転声を潜めます。


「太ったことを気にしているのか?」

「は?」

「いや見た感じ全く太ってはおらんから安心してよいぞ。だがあれだけの贅を極めし料理を長期間にわたり大量に摂取しているにもかかわらず肉体に一切の影響がないとは考えにくいしな。そうだ! 明日から早朝一緒に運動して汗を流すというのはどうだ!」

「太ってないし気にもしてないですっ! 未来視はすごく疲れるんですよ! 食べた端から全部エネルギーに変換されて丸ごと持ってかれる感じなんですっ! 運動なんかしたら倒れちゃいますよ!」

「そ、そうか。すまぬ。あいわかった。……そんな目で余を睨むでない! となると、……何か悩み事でもあるのか。いやそなた、最近ずっと沈んでいるような感じがするのでな、気になってな」


 妙な時間に叩き起こされた上太った疑惑をかけられ怒髪天を衝く形相だったサヨコでしたが、ベッドに座り直して猫背になった陛下に目を丸くしました。高い鼻梁が特徴的な美貌は俯き、長い指を組んだり離したりしながらぽつぽつと力なく話しています。


「休みが欲しいならくれてやる。息抜きに旅行がしたいなら護衛をつけてやる。が、……どうもいかんな。色々考えてはみたのだが、そなたが余とこの国にもたらした莫大な利益や安寧に比べ、余がそなたにしてやれることはあまりに少なすぎる。どう来たのか分からない以上、元の世界に帰してやることもできぬ。死んだ家族に会わせてやることもできぬ。ふがいない余を許せ……」

「そんなことないですよ、充分良くしていただいてます。この間なんかお誕生日ケーキ作ってもらって、お祝いまでしてもらって」


 サヨコが言っているのは先月開かれたサヨコのお誕生日会のことでした。といっても、国を挙げて大々的に執り行ったわけではありません。陛下はもとより共通の教育係であるワウドストラ先生、侍女のミーナや護衛騎士などごく親しい人物だけでささやかなパーティを開いたのです。

 陛下がサヨコのために作ったのはフルーツをたっぷり飾った生クリームケーキでした。大きさこそ小ぶりではありますが三段重ねで、一番大きな三段目はサヨコの大好きなチョコスポンジという念の入れようです。一体どこから聞きつけたのか、サヴァーニラ宰相が花束片手にひょっこりいらっしゃった一幕もあり、皆おおいに盛り上がったものでした。


「あれから再度調べさせてはみたのだが、やはりこちらの暦とそなたのいた世界の暦を照合することは難しいそうだ。もう少し何か情報があれば……」

「そのことはもういいんです。わたしの本当のお誕生日は、家族でお祝いした六歳が最後だったから、陛下が〝余と初めて会った日を誕生日にすればいい〟っておっしゃってくださった時、なんだか、その、……ちょっと……」

「何だ」

「……陛下の家族に入れていただいたみたいな、そんな気がして……、あっちゃんと分かってます! わたしは陛下に雇っていただいてるだけだし、不遜だし不敬だって分かってるんです! でもあの、へ……、っ皆さんすごく親切にしてくださるから、……忘れちゃうのかもしれないです。立場とか、……生まれた世界が、生きてきた世界が、違うとか。

 陛下は覚えていらっしゃいますか? 以前、食用油の摂りすぎで具合が悪くなった時のこと」


 サヨコがガウンの帯を解きました。華奢なストラップと繊細なレースが美しいキャミソールドレスと、まっすぐに伸びた鎖骨が露わになりました。

 冷静に考えれば、皆寝静まった夜更けの部屋に、独り身の男性と年頃の女性がふたりきり。これでは夜這いしに来たと誤解されても文句は言えません。陛下はあたふたしながら立ち上がり、あれこれ言い訳しながらサヨコの部屋を辞去しようとしましたが、広く開いた背中を見て絶句しました。


「えっあっちっ違う! 余はそんなつもりは全くなかったんだ! 明日の朝出直してく……――――っ!」

「――――やっぱりご存じなかったんですね。そんな気がしてました。お医者様もミーナさんも、診察の時わたしの身体を見ましたから、その気になれば陛下のお耳に入れられたはずなんですけど……」


 陛下の頭をよぎったのは過去視察に向かった農村での出来事でした。牧場主がかんかんに熱した鉄で家畜の皮膚に所有者名を焼いていたのです。牛の皮は厚いので痛みを感じないといいますが、長いスペルはそれだけ苦痛が長引きます。暴れ嫌がる姿が忘れられなかった陛下は、耳に穴を開けて標識をぶら下げるよう御触れを出したのでした。


 サヨコの背中には、きっと異世界の文字なのでしょう、読むことはできませんが、祈りを捧げるような、いなびかりのような奇妙な図案の焼き印がありました。男性の手のひら一つ分はあろうかという大きな火傷の痕です。茶色く変色した部分とピンク色に再生した部分とが混在した皮膚は、ところどころ引き攣れ痛々しい様相を呈しています。


 サヨコはいつだって笑みを絶やすことなく、恐れを知らぬ堂々とした態度を貫いていました。

 他者にかしずかれることが当たり前の陛下にとって、サヨコは数少ない対等な立ち位置にあり、時に友人がそうするように気さくに接し、助言をくれる頼もしい存在でもあります。

 しかし、いつもは黒髪や服に隠れている白いうなじも二の腕も、ちょっと力を加えればすぐに折れてしまいそうなほどほっそりとしていて、本来の彼女は小さく、か弱いひとりの女性であることを物語っていました。

 贈ったドレスを着ることを拒んでいた本当の理由に思い当たった瞬間、今まで自分はサヨコの一体何を見ていたのだろうと、陛下の瞳に涙が滲みました。


「――――なんとむごいことを……!」

「きっとあの二人も今の陛下と同じことを感じて、胸にしまっておこうと思ったんでしょうね。自分の知らない間に身体のことを噂されたら、わたしが傷つくから」


 ガウンを直しながら、サヨコが今にも消え入りそうな声で、耳を塞ぎたくなるような言葉をいくつも落とします。

 檻に入れられる時、暴れて抵抗したこと。家に帰せ、家族を返せと泣き叫んだこと。人殺し、殺してやると腕に噛みついたこと。腹を蹴り飛ばされひんむかれ、真っ赤に灼けた焼きごてを押しつけられて絶叫したこと。口の中いっぱいに広がる鉄の味。膿んだ傷のじくじくする痛み。食べないとぶん殴られたこと。吐き戻しても口をこじ開けられて無理矢理食わされたこと。

 お世話係はいたけれど、全員目の焦点が合っていなくて怖かったこと。どんなに訴えても皆薄ら笑いを浮かべて〝教祖様〟の素晴らしさを説くばかりで、助けてはくれなかったこと。憎悪を剥き出しにすれば棒で滅多打ちにされるので、笑顔を張り付けるようになったこと。


 どんなに頑張っても、逃げのびて幸せに暮らす未来が視えなかったこと。


「一年後に縁談を持ってくる人がいます。その人は、わたしと自分の次男を結婚させて、下院議員から外務大臣政務官になるつもりです。ご子息は心根の優しい方のようなので、わたしの結婚が陛下の利益になるならおっしゃる通りにいたします。

 〝教祖様〟はわたしが力を失うことを恐れていましたから、身体はずっと清いままです。でも、この背中のことを黙ったまま嫁ぐのも、よく知らない人に事情を打ち明けるのも、気が進まなくて」

「せんでいい。そなたは余のものだ」


 不快感をあらわにした陛下が低い声でうなりました。怒りの気配を敏感に感じ取りびくり、と緊張したサヨコの手に自分のてのひらを重ね、顔を覗き込みながら一転、優しく微笑みます。


「……言い方が悪かったな。そなたは余の庇護下にあると言いたかったのだ。たとえ予言ができなくなったとしても、そなたが国に貢献してくれた事実に変わりはない。ここで暮らしたければずっといてくれていいし、どこか別の場所に移りたいなら、金子も護衛も用意しよう。そなたが望まぬことをする必要などない。

 ……外務大臣政務官か。ヤスカー侯爵だな。明日の朝一番に呼びつけて処理しておく」

「いや、あくまで予言ですからまだ何も言われてないですし、政略結婚を企ててすらない段階だと思」

「したいのか?」

「えっ」

「ヤスカーの息子と結婚したいのかと聞いている」

「べ、別に……」

「ふん。何が余の利益だ。僭越だぞ。以後慎め」

「ごめんなさふぐ、ふぐぐ」


 再びむすっとした陛下は、ぶっきらぼうに言い捨てるとサヨコの鼻をつまみましたが、重ねた手はそのままに少しの沈黙のあと、決心したように口を開きました。


「そなたとは比べ物にならぬが、()の体にもたくさんの傷がある。目立つところだと目尻の下や頬にあったのだが、今は光の当たり具合によっては見える程度に薄くなった。あとは右側頭部か。重騎兵の大剣に兜を跳ね飛ばされ抉られてな。普段は髪で隠しているから分からないがほら、ここを探ってみろ」

「あっほんとだハゲてる」

「その言い方はよせ」


 ほかに右耳を上半分失ったそうですが、医師の腕が良かったのでしょう、愛らしいサイズになっただけで済んだとのことでした。


「先の戦争で負った傷ですね。わたしには過去が視えないからワウドストラ先生にお話を伺っただけですけど、兵力差に加え早い段階で食糧補給を断たれてしまい凄惨を極めたとか」

「辛勝であったな。……運動はからきしだがボードゲームが異様に強くて、どうしても勝てない友人が一人いてな。気のいい奴で、軍師見習いとして共に出征したのだが、亡くしてしまった」

「……」

「そなた以前、自分の今の人生は神様からもらったおまけだと言っておったな。あの時は口にせなんだが、何かの折に指がこの傷に触れると、そういう気持ちになることがある」


 父王には、全てをやり遂げたら自由にしていいと言われていたそうですが、戦局からしてもあまり期待していなかったそうです。王位継承権の順位が低い自分は番狂わせのための使い捨てだと考えていたため、生き残るとも、よもや王座が回ってくるなどとは露ほども思わず、陛下にとって即位は全くの不本意だったといいます。


「昔から、別段やりたいこともなかったのでな。全部終わったらこの国を出て、とりあえずどこかの島で一日中釣り糸垂らしてぼんやりしようかと思っていたのだが、当てが外れた」


 王とは城壁のようなものだ、と陛下はおっしゃいました。四方に睨みをきかせながらも静かに佇み、時には砦となって戦い、時には広く門戸を開き、新しい風を入れる。たとえ陥落しようとも、最後までそこに在ることが大事だというのです。

 国王としての器は、民を守るためになんとしても生き続けなければなりません。ではひとりの人間としての陛下はどうかと問えば、犠牲となった騎士や兵たちと共に、心を遠い地へ置いてきたような気がする、とお答えになりました。


「あの日は別に、そなたと釣りに行かずともよかった。自分の休日なのだから、好きに使えばいい。人に会っても良かったんだ。でも、何を話せばいいのか分からなかった。誰も終わった戦の話なんて聞きたくないんだ。国の未来の話なんてしたくないんだ。みんな、自分の家族の話がしたいんだ。これから子どもをどこの学校へ通わせて、家族みんなでどこへ旅するか話したいんだ。私にはそんなものないから、行っても場を白けさせるだけだ」

「……」

「そなたと一緒に過ごしてよかった。そなたと他愛もない話をするたびに、懐かしい思い出と今の時間が混じり合い、空っぽの頭の中に流れ込んできて、時が経つのを忘れた。

 今人に会ったら、私はそなたの話をすると思う。この私に料理なんてさせて、馴れ馴れしい口をきいて、生意気だが力だけは本物だ。勉強熱心で……あ、そういえばそなた、この間寄せ植えのコンテストで銀賞をもらったのだったな。初めてにしては上出来だ」

「そうなんです! 正直自信なかったんですけど、記念だと思って一回出品してみたらどうかってワウドストラ先生に勧められて……。ダンスも礼儀作法も及第点をいただきました! 基礎教育修了証も取りましたよ! 次は学位に挑戦してみようかと思ってるんです」

「欲しいものはないのか? 祝いに褒美をくれてやるぞ」


 長い指が、サヨコの頬に少しだけ触れて、かかる髪をそっとはらいました。

 ちらりと見えた手のひらにも、深い切り傷が刻まれています。美貌の国王もまた、たくさんの傷を秘めながら、大輪の花のごとき笑みを浮かべているのでした。

 不意打ちで頭を撫でられ、思わず赤面するサヨコですが、高まる鼓動を悟られぬよう胸をぎゅっと押さえます。


「これからも、美味しいごはんを作ってほしいです。……わたしの、ために」

「承知した」


 名残惜しそうに手の甲をひと撫ですると、立ち上がった陛下はドアノブに手をかけましたが、開けるでもなく振り返るでもなくその場にとどまり、息を吐きました。


「そなたを傷つけた男に、殺した男に罰を与えてやりたいと憤るくらいには、そなたを大事に思っている。叶わぬ願いではあるがな。

 ……私は、兄弟姉妹のみならず親戚が多くてな。兄上は二男二女の子宝に恵まれているし、祖父には側室が五人いたからそちらの血筋の遠縁も入れると軽い村みたいなものだ。そなた一人加わったとて何が変わるわけでもない。

 ――夜更けに叩き起こしてすまなかった」

「いえ、あー……、年齢からすると、わたしは陛下の妹みたいな扱いなんでしょうか? ほら陛下とわたしは十歳違いじゃないですか。つって陛下にお兄ちゃんみを感じるかっていうとそんなでもないんですけど」

「妹はもうよい。山ほどいるからお腹いっぱいだ」

「じゃあわたしは一体どのポジションに入れば……」

「知らん。私はもう寝る。くだらんことを言ってないでそなたもさっさと寝るがよい」

「自分から言い出したくせに……」


 不服そうなサヨコが口の中でぶつぶつ言っている間に、陛下は明かりを落とし部屋を出て行ってしまいました。一人きりになった寝台に転がり、もふっと布団にくるまります。


「家族かぁ……」


 哀しみに潤んだ深い碧玉。痛みを含んだ切なげな表情。優しく響く低い声を、頭をなでる甘い感触を、手の甲に重なる体温を反芻しました。


 そなたと一緒に過ごしてよかった。

 ずっといてくれていい。そなたを大事に思っている。


 そなたは余のものだ。



 くすぐったいような、温かい気持ちで胸がいっぱいになったサヨコは、実に幸せそうな表情で眠りに落ちたのでした。


 *


 セージュ陛下に総合資源会社の社外取締役を務めるよう命じられたヤスカー侯爵は当初渋りましたが、提示された報酬額を見て即座に下院議員を辞任しました。一方、サヨコには陛下の祖父の側室の生家である公爵家から名字が与えられました。万が一予言の力がなくなったり、陛下が志半ばで崩御された際、サヨコの生活を保証するためです。

 これでもう何の憂いもなく平穏な日々が過ごせると思っていた陛下ですが、ここで問題が発生しました。非武装中立国の教皇即位式に国賓として招かれたのです。

 これまで外交については国内の情勢が不安定なことを理由に、二番目の兄であるマルァーカズィ枢密院議長が名代として臨席していたのですが、即位後初めての公式訪問としてはこれ以上ない国際親善であるとして、陛下自ら参列する運びとなりました。併せて近隣諸国への立ち寄りも決まったため、ご訪問の日程は最終的に二週間に延びてしまいました。


 ここで普段なら公務中に迫る危険を予言させるべく、サヨコの好物であるクリームパフやダコワーズ、鴨肉のコンフィや仔羊の煮込みなどをたっぷりと食べさせるところなのですが、陛下が用意したランチはサクサクのミートパイとホットビスケットという簡素なメニューでした。

 実は、先週の予言を最後にサヨコは休暇が欲しいと言って部屋にこもったきり、一向に出てこないのです。こんなに長く顔を合わせないのも、予言が得られないのも初めてのことでした。

 差し入れている食事も、一人分食べるのがやっとの様子です。いつぞやのように胃が弱っているか確かめるべくドア越しに声をかけますが、沈黙が返ってくるばかり。陛下にできることといえば、なるべく消化にいい好物を作り、手紙を忍ばせることくらいでした。


 オーブンを料理番に任せ執務室に戻った陛下は、真っ白な便箋を取り出しました。ペンを取って書こうとして、しばらくくるくると空に円を描いてからため息をつきます。ペンを置き飲み物を少し口に含むと、肘をついて顎を乗せ何度か貧乏ゆすりをして、それから机に突っ伏しました。艶やかな金髪が黒檀にこぼれます。


 力が消えてしまったか、視たくない未来が視えてしまったか――――


 これまで、チゴーネルはサヨコの未来視に助けられてきました。民の幸いのためにも、できればこれからも働いてほしいと思っています。ですが、陛下個人に関して述べるならば、必ずしも予言がなくてはならないわけではありません。自分の身は自分で守れるからです。最悪死ぬかもしれませんが、そんなことは生きていれば誰にでも起こりうることです。危険をある程度回避できるというだけで、死から永遠に逃れられるわけではありません。死は誰の上にも平等なのです。


 しかし、陛下が伝えたいのはそんなことではありませんでした。サヨコは今や名実ともに陛下の家族です。家族とは、損得抜きで共に過ごし、誰かが困っていれば当たり前に助け、幸せに笑っていて欲しいと願うものです。

 陛下には、サヨコにしてやりたいことが山のようにありました。


 サヨコが何かの折に話していた異世界の不思議なお菓子を完成させて、いつか食べさせてやりたい。海釣りに連れて行ってやりたい。着るかどうかは任せるけれど、背中の見えない清楚なドレスを贈り直してやりたい。

 実は今年から国王陛下誕生日の祝賀行事が再開されることになったので、式典で一緒に踊れたらと、こっそりサヨコのためにドレスを仕立てさせていたのです。出来上がったドレスを見せれば元気になるだろうか。否、ドレスのことを知っていてなお元気がないのかもしれない。考えれば考えるほど、何をどこからどう伝えたらいいのか分かりません。


 結局便箋には、しばらく食事を作ってやれずすまない、いい機会なので胃に休暇を与えてやるといい、と記すだけにとどめ、陛下は厨房に戻りました。たっぷりの砂糖とレモン汁を混ぜた苺からは水分が出ています。すべて鍋にあけて火にかけました。


 サヨコ。今日は会ってくれるだろうか。一目でいいから顔が見たい。できれば、いつものように嬉しそうに食べるところが見たい。食べたいものを教えてほしい。


「美味しい」と笑ってほしい。



 願いを込めるかのように静かに苺を煮詰める陛下の背後に、そおっと忍び寄る者がいました。


「に・い・さ・ま! お久しぶり!」

「――アンヌ! なぜお前がここにいる!」

「父から手紙をもらったので急遽戻ってきたのよ。兄さまにはわたくしが必要なんじゃないかしらと思って」

「何の話だ」

「とぼけちゃって。これから友好親善に力を入れるなら妻がいなくちゃお話にならないでしょ? 兄さまは鉄面皮の朴念仁なんだから、側室はともかく王妃は気心のしれた人間を選んだ方が……何それジャム? なんなのこのよだれを誘う甘い香りは! クリームもあんなにたっぷり……分かったわ! あのビスケットに鬼のように盛って食べるつもりね! どうしてくれるのよ! わたくし今ダイエット中なのにお腹空いてきちゃったじゃない!」

「……かわいいって言われたことくらいある」


 きつめに巻いた豪奢な銀髪が麗しい公爵令嬢は、さんざん陛下をこき下ろしたことなどすっかり忘れたかのように頬を紅潮させはしゃぎ始めました。


「あのオーブンで焼いてるお料理は何? パイ生地と肉の焼けるいい匂いがするわぁ! ねえ兄さま、わたくしにも分けてくださらない? ちょっとだけでいいの」

「ダメだ。サヨコと余の分しか作っておらん」

「――こんないい匂いさせて一口もくれないなんて、兄さまのケチ! ね、先ほどのお話だけど、わたくし今後の兄さまの公務について聖女様に直接お話したいことがあるのよ。今からお食事ならちょうどいいじゃない? 昼食の席でわたくしのことをぜひ紹介して頂きたいわ」


 予言の聖女と話したい、となるとおのずと内容は限られてきます。国の行く末か、自身の進退か。

 アンヌ公爵令嬢は幼き頃から特命全権大使になると公言していただけあって語学に秀でており、非常に聡明かつ利発な性分です。サヨコを傷つけるようなことはまず口にしないでしょうし、双方気が合えば良いお友達になれる可能性もあります。サヨコが部屋に閉じこもっている理由は分かりませんが、彼女と会えば多少は気が紛れるかもしれません。

 仕事だと言えば部屋から出てくるだろうか、と陛下は一瞬考えましたが、結局いつも通りに昼食を運ぶことにしました。ティーカートを押す陛下の後ろに、アンヌがぴったりとくっついてきます。


「聖女様にお食事を作ってさし上げてる、とは聞いてたけど、まさか配膳もご自分でなさってるとはね」

「時間が合えばなるべく一緒に食事を摂るようにしているからな。食材の切り方から舌ざわりに至るまで細かな好みを聞いて反映させれば、より良い予言を得ることができる。大事な職務の一つだ。

 会談の希望があることは伝えるが、実際に会えるかどうかは分からんぞ。サヨコはここ数日体調を崩しているようでな、余もしばらく顔を見ておらんのだ」

「あら、おかしなことをおっしゃるのね。わたくしの記憶が確かなら、兄さまってこの国の王様じゃなかったかしら? そんなもの、玉座に呼びつければ済む話でしょう?」


 言葉の持つ傲慢さとは裏腹に、アンヌの表情は穏やかなものでした。真剣な面持ちの陛下を見つめる様子は、まるで姉が弟を見るような慈愛に満ちています。


「それは正直考えないこともなかったのだが、ひとたび命じれば、今まで時間をかけて築き上げてきた信頼関係を失ってしまうような気がしてな……」

「この国から出て行っちゃうかもしれない、ってこと? まぁ確かに、チゴーネルが保有する未来視の情報は、今や外国に対して大きなアドバンテージになっているから、領土問題が未だ宙に浮いている状態で聖女様を失うのは得策ではないでしょうね。予言能力については半信半疑ながらも、身柄を狙っている国は多いと聞くわよ」

「複数の護衛騎士や兵士から、酒場で内通者になるよう持ちかけられたが断ったとの報告を受けている。数名は捕縛して該当国に強制送還したが、勅許会社の仕業だと言い張って話にならん。だがサヨコが望む限り、身の安全についてはわが国で責任を……、なんだ、何がおかしい」

「いえ別に。皆がわたくしを呼び戻したくなった気持ちがしみじみと理解できただけよ。宰相様の苦労がしのばれるわね……」


 ひとしきり肩を震わせてから、アンヌが陛下を射抜くような視線で見据えました。


「兄さま。この国はもうとっくに立ち直ってる。国際社会での立ち位置も、以前に比べれば大きく進歩したわ。これからは太平の世を作るんじゃなくて、守っていかなきゃいけないの。兄さまにも聖女様にも、お覚悟を決めていただく時が来たのよ」


 サヨコの部屋には、誰もいませんでした。机上には空っぽのバスケットと手紙が置かれていて、あの領地で皆と待っていますから、アンヌ様とご一緒にいらしてください、とありました。


 *


 踏みしめる足元から緑と土の香りが立ち上ってきます。見慣れた湖畔には見慣れたテント、見慣れた侍女に見慣れた護衛騎士たちの顔、ワウドストラ先生に毒見役、そして、見覚えのある複数の料理人の姿がありました。

 小さな楽団は軽やかな音楽を奏で、生花で作られているのでしょうか、色鮮やかなボールブーケが丸いランタンと共に青空を飾り、白いテーブルクロスはためく長テーブルでは、素晴らしい料理の数々が芳しい香りを漂わせ、お客様を歓迎しています。


「わー豪華ねえ! 今日は何かのお祝いなの? 何あのお料理! 見たことないわ! 食べてもいいのかしら! 食べちゃおうかしら!」

「そんな話は聞いていないが。そしてダイエットはどうなった」


 楽しい思い出あふれる馴染みの場所に目新しい料理とあってアンヌは大喜びですが、陛下の胸中はまるで不安の蔓が絡みつくかのようにざわついていました。

 陛下は今日起こることをなにひとつとして知らされていませんでしたが、あのバスケットを見た瞬間、サヨコが昼食のメニューはおろかアンヌの訪問まで予知していたにもかかわらず、意図的に伏せていたことに思い至り、少なからずショックを受けていたのです。


 お互いの傷のことを明かした夜以来、少しだけ、心の深い部分が通じたような気がしていたのに――――


 サヨコはなぜ何も言わなかったのでしょう。陛下に打ち明けられないような何かを、視てしまったのでしょうか。


 食材を揃え、料理人を雇い、花を飾るには大金がかかります。もしかして、陛下が今までに渡した給与をすべてこのもてなしのためにつぎ込んでしまったのでしょうか。サヨコはお金がなければないなりに生きていける人間です。むしろ身軽に生きるには、大金は足かせになるでしょう。考えれば考えるほど、嫌な予感がします。


 テントから出た人影がこちらに近づいてきます。陛下が今一番会いたかった顔です。いつぞやのようにぱたぱたと走り寄ってくるかと待ち構えましたが、違っていました。

 聖女の衣を纏ったサヨコは、大きな花束を抱えた侍女を従え悠々たる足取りで歩み寄り、二人の前に立つと膝を軽く曲げ淑女の礼を行いました。教育係に厳しく訓練されたことがうかがえる、完璧かつ優雅なお辞儀でした。


「陛下、ご足労いただきありがとうございます。アンヌ様、お初にお目にかかります。サヨコと申します。お会いできて大変に光栄でございます。本日はささやかながら酒席をご用意させていただきましたので、ごゆるりとおくつろぎくださいませ」

「聖女様、こちらこそお会いできるのを楽しみにしておりました。突然来たにもかかわらずおもてなしどころかお花まで……」

「本日おいでになることは存じておりました。お話がおありになるとか。わたしがお役に立てることでしたら何なりとお申し付けくださいませ」

「あらそう? じゃあ二、三おたずねしたことがあるのだけれど、その前に! とりあえずいい加減何か食べたいわね! わたくし匂いばかりかがされてもう限界なの!」

「あちらにアンヌ様の好物を取り揃えておりますから、ご存分に……」


 首を傾げ、口元に真っ白な扇を当てて微笑むサヨコは、どこからどう見ても気品あふれる立派なご令嬢でした。

 艶のあるマザーオブパールに細やかな花模様の透かし彫りを施した骨組みと、繊細なレースをあしらったリーフが美しい扇は、陛下がサヨコの服に似合うようにと自らデザインを考えて工房に特注し、例のお誕生日会で贈ったものです。陛下は、サヨコがプレゼントを侍女に下げ渡さず、自分で使っているところを初めて見ました。使ってもらえて嬉しいはずなのに、なぜでしょう。気分はちっとも高揚しません。むしろ、しばらく顔を見ない間に中身だけ知らないひとにすり替わってしまったかのような薄気味悪さを感じます。


 今すぐあの扇をひったくって、バスケットの中のミートパイを口いっぱいに突っ込んでやりたい。


 妙な苛立ちと謎の寂しさを持て余し、むすっとした面持ちの陛下から、アンヌがさっとバスケットを奪、おうとしてサヨコに阻止されました。相変わらず品のいい笑みを浮かべてはいますが、静かなる怒気を感じます。


「これは陛下がわたしのためだけに作ってくださったものですので、わたしが全部いただきます。アンヌ様はあちらのテーブルでお食事をどうぞ」

「聖女様。今まではそうだったかもしれないですけど、これからはそうも言ってられなくなりますよ。これを機会に、兄さまの料理を第三者に分け与えることに慣れてはいかが?」

「アンヌ、何を言ってる? 余はサヨコ以外の者に料理を作るつもりはないぞ?」


 眉を寄せたアンヌは肩を落としはああーっと深いため息をついた後、悪を糾弾するがごとく凄まじい眼光で二人を見据えると、有無を言わさぬ口調で言い放ちました。


「……もういいわ。わたくしが説明するより実際視てもらったほうが理解が早そうね。聖女様、そのつやつやしたきつね色の焼き上がりの見るからに美味しそうなミートパイで、今後の兄さまの未来を視てくださいな。あなたのお立場ってものを分からせてさしあげてよ」

「……立場はわきまえているつもりですが、アンヌ様のお望みとあらば」


 硬い表情のサヨコがバスケットを開け、ミートパイを取り出しました。皿とフォークを用意しようとした侍女を目で制し、軽く頭を下げいただきます、と口にしてから、馴染みのあるにんまりとした笑顔で思い切りよくかぶりつきます。


「うーんサクサクですね! 噛むたびにいい音がします! ああ……口の中いっぱいに肉汁とトマトの風味が広がって……。ちょっと甘めのパイ生地とフィリングの塩加減がたまらないですね! 大きいのを切り分けて食べるのもいいんですけど、ちっちゃいサイズは一個でパイの世界が完結してますから、まるで宇宙を食べているかのような、言うなればそう! 今まさにわたしの口の中でビックバンが……」

「パイの感想はいいからさっさと未来をご覧なさいな!」

「いや、いつも最初に料理の感想を聞いて反省会をするので方法としてはこれが正し」

「兄さまは黙ってて!」

「では改めまして……」


 一個目を普通に平らげたサヨコが、二個目を手に取りました。ミートパイを、まるで見えない誰かに捧げるかのように空に掲げてから、そっと口に運びます。

 さくり、さくり。噛み締めるごとに味は五臓六腑に染みわたり、やがて膨大なエネルギーとなってサヨコの体内を巡ります。吹き荒れる嵐のごとき熱量の向こうに蜃気楼が見えました。正装姿の陛下と、その傍らに寄り添う純白の花嫁衣裳を纏った女性です。


「ちょ、ちょっと待て! 余には結婚する予定など全くないぞ! 縁談は来ても兄上がいつの間にか断っているし、王妃の心当たりなど一つもないっ!」

「だっから! それを今回わたくしが……」

「――お相手のお顔が見えませんので、今一度確認致します」


 揉める二人を意に介すことなく、サヨコが半分に割ったホットビスケットにクリームと苺ジャムをたっぷり塗って、むしゃっと食べました。


「ビスケット、外はカリカリだけど中はフワフワで、ほんのり感じる甘みが上品です! クリームは見た目ミルキーで重そうなのに、口に入れるととろっと溶けちゃいますね。思ったよりあっさりしてるけどコクがあって……ああ、甘いジャムと相性が良すぎる……」


 口いっぱいに広がる春の息吹の先には、顔をほころばせ視線を下へやる陛下がいます。ゆっくりと腰をかがめ、再び立ち上がった時には、可愛らしい女の子を腕に抱き上げていました。


「余の結婚は決定事項なのか……?」

「そのために帰ってきたってわたくし先ほど申しましたわよね?」

「男の子が四人、女の子が二人いらっしゃるようですね。皆さん陛下にお顔がそっくりで……」

「いやちょ、ちょっと待てサヨコ! 兄上のところより子どもが多いじゃないか! 余はいったい誰とそのような破廉恥な真似を」

「お相手のお顔が見えませんので、今一度確認致します」


 呆然としたり慌てたり顔を赤らめたり、すっかり平常心を失っている陛下を置き去りに、サヨコがむしゃむしゃと残りのホットビスケットを平らげます。美しく着飾り、陛下の隣に堂々たる態度で立つアンヌの姿が見えました。二人とも結婚指輪をはめています。

 蜃気楼の向こうには、仲睦まじく語り合う二人がいます。開いた視界の先にもやはり、楽しそうに語り合う二人がいました。


『いつまでも、陛下が自分のためだけに料理を作ってくれるなどと思わないことね』


「不思議ねえ。子どもの数は分かるのに、どうして相手の顔が視えないのかしら」


 陛下はお相手を知りたがっています。なんとしても突き止めなくてはなりません。しかしバスケットの中は空っぽです。

 瓶詰めのクリームをすくって食べます。サヨコの心中に去来したのは未来ではなく、過去の思い出でした。


 玉座に厳然と坐る冷えた虹彩。ランタンに照らされた白磁の肌。さらりとこぼれる金色の麦の穂。緑のにおい。水面のきらめき。顔をくしゃくしゃにして笑うひと。楽しかったと呟く声。


『これから友好親善に力を入れるなら、妻がいなくちゃお話にならないでしょ?』


 空っぽになった瓶を置き、イチゴジャムをすくって食べました。

 夜更けに現れた心配そうな顔。他人の傷を自分のことのように嘆き、涙ぐむひと。秘めた孤独を明かす声。逞しい喉仏。幅広の爪。無骨な指。厚みのある手のひら。優しく降る、柔らかな体温。


『そなたは余のものだ』


『側室はともかく、王妃は気心のしれた人間を選ばないと』


「以前似たような質問をしたが、未来は常に存在していて、どこを視るかある程度は好きに選べるという話であったぞ。言うなれば、天体望遠鏡のレンズが違う方向を向いている状態なのだろう。もしくは単純に食べる量が足りないのやもしれん。いつもは三人分食して未来を視るのでな」

「――ああ、そういう……」


 嫣然と笑む公爵令嬢が、なまめかしい動きで聖女の衣を撫で上げ、赤い唇で囁きます。


「ダメよ聖女様、目を逸らさないで? ご自分でしかと、お確かめになっていただきたいの……」


『あなたのお立場ってものを、分からせてさしあげてよ』


 震える手で最後のひとすくいを口にした瞬間、サヨコの胸に叶わなかった願いがどっとあふれました。生きたかった。死にたくなかった。家族みんなで家に帰りたかった。


 この世界にわたしの居場所なんかひとつもなかった。陛下に出会うまでは。


 イヤだ。出ていきたくない。ずっとここにいたい。いてもいいとおっしゃっていた。これからもわたしのために美味しいごはんを作ってくれるって約束してくださった。わたしが出ていく必要なんかないんだ。

 嘘だ。本当は分かっている。ここにとどまれば何を見ることになるのか。

 仲睦まじい陛下と王妃。愛し合う陛下と王妃。陛下はわたしのためなんかじゃなく、純粋に仕事として料理を作るようになるのだ。本物の家族を持ち、本物の家族とあの湖畔へ出かけるのだ。わたしのことなど忘れて。

 あの夜、確かに感じたのに。陛下のおそばに自分の居場所があると、それが自然なことであるかのように、心から信じることができたのに。


 アンヌの真珠のごときデコルテから漂う、麗しい花の香りがサヨコを静かに絶望させました。


 わたしはここにいてはいけないんだ。


 生まれた世界が、生きてきた世界が違うって、本当は分かっていたけど、見ないフリをしていただけなんだ。ぬるま湯に揺蕩うような、ひだまりでまどろむような、居心地のいい時間を、初めて手に入れた温かな日々を手放したくない一心で――


『兄さまにも聖女様にも、お覚悟を決めていただく時が来たのよ』


 アンヌは終止符を打ちに来たのです。都合のいい世界に甘え続けるサヨコの目を覚ましに来たのです。時は常に流れています。季節も世界も移り変わってゆくのです。変わらぬものなどありません。

 諦観の念がサヨコに絡みついてきます。これは仕方のないことなんだ。〝教祖様〟に首を掻っ切られた時もそうだった。誰かを救うことはできるけど、わたしはわたしを救えない。わたしにできることは今この場で笑顔を作り、陛下とアンヌ様の幸せを願うことだけなんだ――――


 頭の中で文章を整えます。ご結婚おめでとうございます。本日の食事会は陛下と未来の王妃様であらせられるアンヌ様、お二人のためにご用意したものでございます。家名を与えてくださった陛下のお心遣いに感謝し、これからもチゴーネルのために予言の聖女として尽力する所存でございます……


 きっとこれが、わたしのためを思って作られる最後の料理になる。大事に味わわなければ。

 口の中にからみつく苺の風味をゆっくりと楽しみ、飲み込みます。お祝いの言葉を述べようとサヨコが口を開いたその時、唐突に視界に流れ込んできたのは、女性と同衾していると思しき陛下の裸体でした。左胸部を切り裂いたのだろう戦いの傷痕が、身じろぎするたび上下します。

 王妃を慈しみ、優しく愛しながらもどこか雄々しい陛下のお姿は、考えた文章も、叩き込まれた礼儀作法も作り笑顔も、そのすべてを瞬時に跡形もなく吹き飛ばすほどの衝撃でした。燃え盛る炎と呼ぶにふさわしい苛烈な熱がサヨコを襲います。頭の中は真っ白に灼けつき、全身ががくがくと震えています。

 結婚するということがどういうことか。子どもを持つということがどういうことか。サヨコはその真の意味をこの時初めて理解したのです。


「……ご結婚、お……」


 その先を言いたくとも、膨れ上がった熱が喉を焼き、ひゅうひゅうと息が漏れるばかりです。


 陛下がご結婚されるということは、ご自身の秘めたるきずあとを、わたしにしか打ち明けなかったはずの胸のうちを、わたし以外の誰かに預けるということなのだ。わたしは、陛下以外の誰かに自分の背中を見せたりしない。見せたくない。でも陛下は。アンヌ様に。ご自分のすべてを。お与えに。


「っ……、っ……」

「どうしたサヨコ、大丈夫か? 苦しいのか? 誰か水を……」


 陛下が駆け寄り、様子のおかしいサヨコの肩を抱きました。どうやら椅子に座らせようとしてくださっているようです。頬に降り注ぐ黄金色の枝垂れ。水底で眠る翡翠にも似た穏やかなまなざし。


 アンヌ様は。このぬくもりを。このうつくしい瞳をご自分だけのものに。


「……ご、結婚」


 うらやましい。ねたましい。悲しい。さびしい。ああ。もっといっしょに、いたかった――――






 こぼれる雫が、サヨコの頬を濡らしました。

 青空には雲一つありません。かつて、どんな残酷な未来を視ても全然涙が出ない、と自嘲するように笑った唇は震えわななき、いささか丸みを帯びた鼻尖も、人懐っこい瞳も、痛々しいほど真っ赤に染まっていました。


「サヨコ……」

「――――しないで……、っ結婚、しないで!」


 なんてあさましいのでしょう。こんなもの、予言でも何でもありません。でも我慢できませんでした。堰を切ったように涙があふれて止まりません。衝動のままに泣きじゃくりました。サヨコは決して王妃になりたかったわけではありません。なれるとも思ってはいません。ただただ、陛下に誰かおひとりだけのものにならないで欲しかったのです。


『わたしは陛下の妹みたいな扱いなんでしょうか』


 思えばあの時から。いいえきっと、もっと以前から。ずっと。自ら問うておきながら、兄だなどとは思いもせずに。

 だってサヨコはこれまで人に恋したことなど、ただの一度もなかったのですから。

 しゃくりあげる背中に視線を感じます。顔を上げれば、皆が手を止めこちらの様子をうかがっていました。


「あ……」


 侍女に施された美しい化粧も、ここ三年で蓄えた私財を投げ打ち準備した祝席も、すっかり台無しになってしまいました。職務に私情を挟んだ上陛下に対し声を荒げるなどと、聖女としても淑女としても失格です。


 あのまま祝福の言葉を伝えられていれば、サヨコはきっとこれからもこの国で働けたでしょう。いつか失恋の痛みが癒えた時、心からお二人の幸せを願うことができたでしょう。愛の結晶たる子どもたちの成長を、陰ながら見守ることができたでしょう。

 生まれて初めて感じた恋情が、言い表すことのできないほどの激情が、皮肉にもサヨコのまだ()()未来を叩き壊してしまいました。豪胆に見えるアンヌ様とて、自分の夫に懸想する女が側にいることを快く思わないでしょう。こうなった以上、もはやここにはいられませんでした。


「っごめんなさい、――――ごめんなさい!」

「サヨコ!」


 こけつまろびつ逃げ出す背中がどんどん遠ざかってゆきます。サヨコ付きの護衛騎士が連れ戻しますか、と陛下にたずねましたが、手で制されました。


「普段より少ない食事量で未来を視たのだ。そう遠くへは行けぬ。アンヌを頼んだぞ」

「追いかけてどうなさるおつもり? これからもそばに置いて仕事を強いるのかしら? ああ、なんて哀れな聖女様……」

「君主に従属する分際で余の真意を糺すか。無礼者め。お前の好奇心を満たす言葉など持ち合わせてはおらん」

「聖女様を満たすお言葉は持ち合わせていらっしゃるわけ?」


 その問いに対する陛下の答えは冷ややかな一瞥のみでした。これ以上の問答は不要と言わんばかりに踵を返し、消えた後ろ姿を辿ります。演奏を再開した楽団のおかげか、会場には華やいだ雰囲気が戻ってきました。

 威圧的な眼光に臆することなくふん、と鼻を鳴らしたアンヌでしたが、やがて気を取り直したのか料理人たちにカラッとした笑顔を作ると、おすすめの料理を皿に盛るよう要求し始めました。きっぷのいい公爵令嬢は気分の切り替えも早いのです。


 *


 遠ざかる喧噪と湖畔の静けさが混じり合います。自分の足で逃げたのでしょう、ボートは湖岸に固定されたままでした。

 凪いだ水面に映るボートの影に、在りし日の二人を思いました。声を上げて笑ったのはいったい何年ぶりであったのか、陛下は記憶を呼び覚まそうとしましたがうまくいきません。思い出すのはひとりきりの食卓や、およそ王の子息に課すレベルではない過酷な軍事訓練や、小さな手足でひとり眠る冷たい寝床のことばかりでした。心を丸ごと持っていかれそうな大空を見上げ、高く飛ぶ鳥に思いを馳せます。


 陛下はサヨコを国に留め置かなければならないと思いながらも、そばにいろと命じることをずっと自らに禁じていました。どこからともなく現れたのだから、どこへともなく去っていくのが正しい在り方であろうと思っていたのです。


 自分の隣がさほど魅力的だとも思っていませんでした。


 揺るがず構えるということは、どこにも行けないということです。陛下は、いつか自由になりたいと思ってしました。戦争に勝てば。国が復興すれば。望みを持つたび打ち砕かれて、いつしか自分の望みは深い心の底に沈めてしまいました。どこへ歩いて行くべきか、何をなすべきか理解していても、それが本当に歩きたい道とは限りません。それでも誰かのよりよい未来のためには、足を止めることも、道を外れることも許されないのです。


 サヨコに対しては、おまけの人生を楽しんでほしい気持ちがありました。難しいことなどなにひとつ考えず、笑いたい時は笑い怒りたい時は怒り、美味しいものをたらふく食べて、見たいものを見て、好きなことをしていてほしいと願っていました。

 仕事と称して甘やかし、なんでもたっぷり与えてやって、たまに少しだけお互いの心に触れて、分かり合えたかのような幻想を楽しむ日々は、陛下にとってはおまけの人生の唯一の楽しみでした。


 このまま独身を貫けば、いつか兄君の子どもに玉座を譲る日がきます。でも、それまで待っていてほしい、とはとても言えませんでした。約束もなく花の時期を捧げさせることはできません。


 陛下がひそかに夢見ていた未来があります。

 気の向くまま、自由に旅するサヨコが、たまに何かのついでにチゴーネルに立ち寄ってくれて、陛下が見たこともない素敵な景色の話をして、拾った小石みたいなつまらないお土産をくれるのです。もっといいものをよこせ、となじれば、陛下は何でも買えるんだから欲しいものは自分で買ってください、なんて言われたりして。サヨコが結婚指輪をしていないことにひそかに安堵して、また笑顔で送り出す。そんな未来です。


 しかしそれは、陛下が諦めた人生を代わりに歩んでほしい、という身勝手な夢想でもありました。

 仮にそうなったとして、サヨコの隣に殿方がいないというのはあまりに都合が良すぎる展開です。旅した先で誰かと所帯を持つことは当然あり得る話です。今のサヨコには教養も優美さも、陛下が与えた家名もあります。それでいて態度は驕ったところがひとつもないのですから、誰もが好きにならずにはいられないでしょう。


 背中の秘密を自ら打ち明けてくれた時に感じたあの喜び。陛下の利益になるなら結婚してもいい、と言われた時のあの苛立ち。とぼけた表情がむしょうに憎たらしく感じて、愛らしい鼻をつまんでしまったこと。


 妹かと問われて、そうだと答えられなかったこと。



 本当は分かっていたのです。でも、気づかないフリをしていれば、ずうっと一緒にいられますから。





 サヨコは、顔の分からぬ王妃をアンヌだと思い込んでいるようですが、陛下にはそれが誰なのか察しがついていました。いいえ、正確には誰を娶るか心に決めた、と言ったほうが正しいでしょう。


『兄さまにも聖女様にも、お覚悟を決めていただく時が来たのよ』


 雑木林の茂みから、鼻をすする音が聞こえました。そっと近づき、嗚咽する背中のそばに腰を下ろします。


「……涙は出ないのではなかったか」

「うっさい。あっちいってください」


 かぶっていたご立派な令嬢の皮はどこかへポイ捨てしてしまったようです。こらえきれずぶふ、と吹き出した陛下に、サヨコがぐわっと怒りをぶつけてきました。


「――――人が泣いてんのに何笑ってんですか!? 釣りの時もゲラゲラ笑ってましたよねなんなんですかほんと!?」

「すまん、わざとではないんだが何かこう、そなたを見ていると勝手に口元がゆるんでしまってな。

 一応確認しておきたいのだが、私が結婚したら災害や戦争が起こるのか? もしそうならそなたの助言に従い、生涯独身を通すが」

「それは大丈夫です。わたしの発言でいらぬご心配をおかけして、申し訳ありません。アンヌ様にもご不快な思いをさせてしまいました。婚礼の儀までには出ていきますから、少しお時間をいただけませんか。できる限りこの国の未来を視て、役に立つ予言を残しておきたいんです」


 泣き腫らした顔を手でぬぐい、その場に深く平伏してから額を地に擦りつけ始めたので、陛下は慌ててサヨコの腕を掴み頭を上げさせました。


「謝る必要などない。なんだ。出ていきたいのか?」

「出て行かなくてすむように、ちゃんと用意したつもりだったんです。アンヌ様の王妃としての地位を脅かすような存在ではないと分かってもらうつもりで……、でも、っあんな……あんなもの、視せられたら、頭の中ぜんぶ、ぐちゃぐちゃになっちゃった……」

「何を視た」

「言えません……、無理です……、あんな……」

「サヨコ、聞け。何を視たのか私に分かるように説明してくれればちゃんと」

「言えません! あんなのもう二度と視たくない……!」


 必死に頭を振りかぶり悲痛に泣き叫ぶので、なだめるのもままなりません。逃げないよう両手首を取り押さえるのがやっとです。サヨコが視たものが一体何なのか知ることはできませんが、思い違いをしていることだけは確かです。何か食べさせれば違う未来が視えて誤解が解けるかもしれませんが、あいにく手ぶらで来てしまいました。魚を食べさせようにも釣り道具はないし、そもそも釣れるまでサヨコが待ってくれるとは思えません。ここにあるのは透き通るような青い空、揺れる木立、風の奏でる葉音、そして――――


 陛下はサヨコに食べさせられるものをたったひとつだけ、ご自身がお持ちでいらっしゃることに思い至りました。この世にふたつとない、これまで誰にも与えたことのない、何よりも特別な唯一無二のものです。誤解を解くのにこれ以上のものはないように思われました。

 白くなるほど握りしめた小さな拳を自らの胸に引き寄せた陛下は、ためらうことなく自らの唇をサヨコのそれに重ねました。


「っ!」


 鳶色の瞳が大きく見開かれると同時に、美しいかんばせが離れてゆきます。呆然として言葉の出ないサヨコを、陛下が満足げに見つめています。愛おしげに鼻を触れ合わせ、甘く囁きました。


「何か視えたか? 否、視えずとも分かるであろう。これがどういう意味か」

「だって、陛下は、アンヌ様と」

「まだそんな世迷言を申しておるのか。まあよい。時間はある。そなたが納得するまでくれてやるからたっぷり味わうがよい」

「まっ、待って、くださ、っんむ、んん――――……」


 今度は少し口を開け、軽くついばむように口づけます。ああ。なんて甘やかな触れ合いなのでしょう。このままずっとサヨコが納得しなければいい。ほっそりとした腰を抱き、離れがたいぬくもりに身を焦がしながら、何度も熱い息を吐いては愛を優しく重ねます。


 違うかたちをしているふたりが、まるであつらえたかのようにぴったりと寄り添い、触れ合うたびに溶け合って、ひとつになるのです。陛下の唇はあったかくて、やわらかくて、切ない恋とありあまるほどの愛の香りと、得も言われぬ喜びの味がしました。

 目に見えぬ情熱が、サヨコの肌を包んで体内に流れ込み、静かなる炎を灯します。美しきともしびは瞬く間に臓腑を覆い手足を巡り、巣くう悪感すべてを灼き払っていきました。陛下の脈動を、息遣いを唇でなぞるたび、新しい息吹の予感が沸き起こります。

 つないだ手をぶんぶん振って、こちらを見上げる愛らしいお姫様。こちらを見つけるやいなや破顔して走り出し、飛びついてくる小さな王子。軽く手を上げ微笑む陛下。乳をふくんで眠る赤ちゃん。


 涙に潤んだ鳶色の瞳にきらめく翠玉を映しては、閉じ込めるかのように睫毛を伏せます。想う相手に深いくちづけを求められては断れるはずもなく、ただ身をゆだねました。

 花びら舞い散る王宮の庭園。祝福する人々の輝かんばかりの笑顔。純白の花嫁衣裳。繊細な刺繍が施されたロングベール。安定したホールド。くつろいだ表情でリードする陛下。視界がくるりと回ります。緑玉の虹彩の奥で、幸せそうに踊っているのは――――






 陛下が抱き込んだ黒髪に顔をうずめ、可憐な耳に唇を押し当てました。震える手は惑い、大きな背中をさまよっています。


「王妃教育は厳しいと聞く。苦難の多いそなたにこれ以上何かを強いるのは本意ではないが、どうか耐えてはくれぬだろうか。身勝手な言い分と分かっている。それでも、どうしてもそなたにそばにいて欲しいのだ。側室は持たぬ。愛するは一生に一度、そなたひとりだけだと誓うから、私の、……妻に」

「み、身分が違います」

「何年かかっても皆を説得する。そなたでないなら妃は持たぬ。要らぬ!」


 激高に突き動かされ大粒の涙をこぼしたサヨコは、声にならぬ声であえぎ、陛下をぎゅうっと抱きました。


「サヨコ、私と一緒にもう一度頑張って、おまけの人生を本物にしよう。ひとりの玉座はつまらんが、そなたとふたりなら悪くない」

「純潔を失って予言ができなくなっても、ごはん、作ってくれますか?」

「ああ。約束する。これからも、そなたのために美味しいごはんを作ってしんぜよう」

「よかった! 実は、陛下の作った牛すね肉のワイン煮込みがもう一回食べたかったんです! あとチーズたっぷりのカットレットにシフォンケーキと、こってりしたチョコレートケーキでしょ、それから……」

「ほう。()()はもう要らぬと申すか?」

「あ……」


 羞恥に頬を染め視線を逸らすサヨコの顎を優しく包み込み、陛下がまるで水蜜桃にするように、それはそれは大切そうに唇を寄せました。

 年をとってお料理が作れなくなっても、くちづけだけはお互いに与えあうことができます。この世でたったひとつだけの味わいは、一緒にいられればそれだけできっと、死がふたりを分かつその瞬間まで、失われることはないのです。


 *


 精悍な顔つきの陛下と、泣き腫らしてはいますがお化粧を綺麗に直したサヨコが戻ってきました。しっかりと手をつなぎ、決意を瞳に宿しています。深々と頭を下げ無礼を詫びるサヨコに、アンヌが優しく語りかけました。


「兄さまとお話は済んで?」

「はい。これからも陛下のおそばでチゴーネルのためにお仕えする所存でございます」

「そう。本日のわたくしの用向きはね、聖女様がどの程度お出来になるのか確かめることでしたの。とても熱心に学ばれたことがしのばれるご様子で、大変素晴らしかったわ。王妃として聖女様がご公務にお出ましになるにあたり、わたくしから申し上げることは何もございません」

「それは、恐れ入ります……?」

「兄さま、そういうことですから、例の教皇即位式には聖女様とご出席される方向で早急に婚礼の儀の打ち合わせに入ったほうがよくてよ。先ほど神殿にはわたくしのほうから一報を入れておきましたから、神事が終わり次第父が担当神官としてこちらに来るそうです。一刻も早くお祝いを言いたいってそれはもう自分のことのように喜んでいてよ!」


 事情をいち早く察した陛下が、額に手を当てうなりました。


「あぁ……アンヌお前、何をしに帰ってきたのかと思ったらそういう……、それならそうとはっきり言ってくれ。今思い返してみてもお前の発言は遠回しすぎる」

「兄さまが以前、わたくしの留学について父を説得してくださったご恩は忘れておりませんから、背中を押してさしあげるとなれば、やぶさかではございませんけどね。子どもじゃないんですから、お相手のお気持ちくらいご自分でお確かめあそばせ」


 サヨコはといえば、口と目を丸くしてポカーンとしています。


「――――陛下とご結婚されるために戻ってこられたんじゃないんですか!? わたしてっきり……、だってほら、妻がいないと国際社会でお困りになるっておっしゃってたじゃないですか! 陛下のお料理の件だって……」

「王族と交流するのよ? 家族ぐるみで親密な関係が築けるならそれに越したことはないでしょう? それから聖女様、子どもができたら兄さまのお料理はちゃんと分け与えなきゃだめよ! お父様の手作り料理なんて特別なもの、欲しがらないわけがないんだから。大人が独り占めしちゃかわいそうじゃない」

「そ、そんな理由……!? いや! でも、未来では陛下の隣でそれはもう美しい装いに身を包み、結婚指輪をはめていらっしゃいました!」

「わたくし、これでも王族の端くれですのよ。わたくしの意志などおかまいなしに絶対結婚させられるのだから、お相手が誰でも指輪ぐらいするわよ。

 ……そう。兄さまの隣に着飾って立っているということは、わたくしの特命全権大使になる夢は近いうちに叶うのね! やる気がみなぎるわぁうふふ!」


 いいこと聞いちゃった! なんて可愛らしく微笑んだアンヌは一転、陛下をギロリと睨みつけ不敬にも指をさしました。


「大体、すべての誤解の原因はわたくしじゃなくて兄さまでしてよ! 聖女様に夜這いまでしておきながらいつまでたっても求婚なさらないってどういうことなの!? ふしだらな! 想う女性に愛人まがいな真似を強いるなんて! 恥を知りなさいっ!」

「――――夜這いなどしておらぬわ! あの日はただ話をしに行っただけだ! 余とサヨコは神に誓って清らかな間柄だぞ!」

「「何もなさっておられない!? あの状況で!?」」


 ハモりながら突っ込んだのは侍女のミーナと護衛騎士でした。それみたことか、といった表情のアンヌがすかさず追撃します。


「なんで何もしてないのよ! 考えてもごらんなさいよ! 侍女が隣室に控え護衛騎士が守る部屋に簡単に忍び込めるわけないでしょうが! みんな気を利かせてそれとなく席を外してたんでしょうよ!」

「そうなのか!? いや確かに今思えば中庭の警備からしていやに手薄だったような気がす」

「聖女様に逆におたずねしたいのだけど、こんな朴念仁のどこがお好きなの? わたくし全然理解できないわ」


 いきなり話の矛先を向けられたサヨコが耳まで真っ赤になり、あわあわしながら何やらよもよも言い始めました。


「えっ!? そうですね、えっと、好きな、ところ……、いつもむすっとしてるけど優しくて、努力家で、仲良くなると意外と面白くて、たまに見せるくしゃっとした笑顔が、えっと、――ああだめだ選べない! ぜんぶ好きです!」

「そ、そうか。うむ。そういえば言っておらんかったな。わ、いや余もそなたのすべてをあ、愛し」

「――――そういうのはあとで二人きりで存分におやりなさいな! 見てるこっちが恥ずかしいわ!」


 照れ照れしつつえへへ、なんて笑い合っていた二人でしたが、唐突に陛下が眉をひそめぐりんっとアンヌを見やりました。


「ちょっと待てアンヌ。なぜすぐ結婚する流れになってるんだ。余が言うのもなんだがサヨコとは身分が違うのだぞ。反対こそすれ婚礼の儀の手配をするとはどういう了見だ」

「は? この間公爵家の養女になったんだから充分資格アリでしょ? えっ結婚するためじゃないのあれ?」


 たずねたつもりが疑問を重ねられ、ますます不可解な顔をする陛下の頭上に、恰幅のいい男性のものとおぼしき怒号が響き渡りました。


「セージュ! お前は私がなんのために縁談を断り続けていたと思っとるんだ! こっちはお前、この領地を与えた時点でああ、聖女殿はお前の特別なお方なのだろうな、身分は違えどそんなに好き合っているなら祝福しようじゃないか、あんなに小さかったセージュがいっちょまえに恋愛にうつつを抜かすようになってお兄ちゃんは嬉しいけど寂しいぞと密かに涙にむせびつつ成長を喜んでだな! だいたい未来の義兄たるこの私をなんで聖女殿のお誕生日パーティに呼ばないんだ! しょうがないから呼ばれてもないのに張り切って一張羅を着ていったわ!」

「どこから出てきたんですか兄上ぇえ!」

「わたくしがお呼びしたのよ」

「アンヌお前勝手にぃい! だいたいほらそう、花嫁衣裳だって今から作ったのでは間に合わないではないか!」


 宰相様に慌てて頭を下げ、お誕生日会の段階では結婚のけの字もなかったと説明するサヨコをよそに、律儀に挙手して発言の許可を得たのはミーナでした。釈然としない様子で恐る恐る口を開きます。


「仕立て屋にご注文されていらっしゃるドレスでしたら、仕上がり予定は今週末です。聖女様のお身体のサイズを測定してお伝えするよう仰せつかりましたので、デザインのご希望もお伝えしております。確か、肌の露出は控えめで、純粋無垢なイメージで、他に類を見ない華やかかつ上品なドレスをと……、色々おっしゃっていましたけれど、要は花嫁衣裳ですよね? だって、お誕生日に専用の扇をプレゼントされていらっしゃったのでてっきり……違うんですか?

 ――――陛下まさか、白い扇は婚礼用って、ご存じなかった……?」

「い、いやしかし、お、王妃教育が済んでいない……」

「済んでおりますよ」


 最後に冷や水をぶっかけたのは、ワウドストラ先生でした。


「えっ?」

「そんなもの、とっくの昔に終わっております。国王のかつての教育係を再雇用し家庭教師に据えるということは、将来的にサヨコ様を王妃にされるおつもりでいらっしゃるのだと判断致しましたので、仮に王妃になれなかったとしても、相応の貴族に嫁げるだけの教育を抜かりなくさせていただきました。

 サヨコ様は平民の出にもかかわらず一切の邪心なく、陛下に対する恋慕だけでよくあそこまでついてこられたものだと感嘆しておりまして、皆同様、あたくしもお二人の恋路を密かに見守らせていただいておりましたが……、違うのですか?」


 幼少期の陛下をビシバシしごいた眼光鋭い老教師に詰め寄られては、これ以上の疑問を口にすることははばかられました。


「違……いませんはい……意向をお察しいただき大変感謝しております先生……」

「セージュ国王陛下、聖女様、ご婚約ならびにご結婚、おめでとうございます!」


 発泡酒の栓が抜かれ、勢いよく吹き出した泡と酒気にわっと歓声が上がりました。いつの間に誰が用意したのか、美しく積み上げられたグラスに琥珀色の酒が気前よく注がれていきます。楽団は市井の結婚式の定番曲を奏で、アンヌの父であるジュリアス神官が謎の舞を披露しています。

 どこから聞きつけたのかアンヌが呼んだのか、騎士団の面々や王国軍の兵士、城の使用人も混じえ、食事会はあっという間に慰労会じみた大宴会と化してしまいました。お祝いのつもりで持ち込んだのか、カイネ様が大きな酒樽から蒸留酒を注ぎ、マルァーカズィ様が巨大な鳥の丸焼きを自ら切り分け皿に盛り、皆に勝手に配りまわっています。



 なんだこれ。

 一瞬気が遠くなりかけた陛下でしたが、隣に寄り添うサヨコもまた、この状況に呆然としていました。


「あれ、王妃教育だったんですか……、全然知りませんでした……。わたし、先生って幼稚園の先生しか知らなくて、お勉強を教えてくれる先生に接したの生まれて初めてだったんです。だから皆あんなもんなんだろうなって疑いもせず……」

「奇遇だな。私もだ」


 にぎやかな宴を眺める陛下の肩を抱いたのは、短い間にすっかり出来上がったサヴァーニラ宰相でした。


「我々を見損なってもらっては困るぞセージュ。反対などするものかよ。皆、お前が凶刃を受け生死の境をさまよったあの日から、お前の幸せを一心に願ってきたのだ。聖女殿、弟は気は利かぬが心根は優しい男です。どうか末永くよろしく……」

「とんでもないことでございます。陛下はわたしにはもったいないほどの素晴らしいお方で……」


 ひとしきり頭を下げ合い、宴に戻る背中を見送ってから、サヨコが決意のにじむ勇ましい笑みを作りました。


「婚礼までにいっぱい食べて、予言、いっぱい残しますね。わたしがどこまで未来を視られるか、限界まで挑戦してみます」

「よろしく頼む。料理は任せておくがいい。ところで、そなた結局あの時何を視たのだ?」

「絶対言いません! それより、陛下は左胸の傷が痛んだりしないんですか? わたしは雨の日、たまにですけど背中が痛むことがあって」

「それはいかんな。さっそく良い薬師を手配してやろう。……なるほど。私の裸体を視たか」

「――――なんでそのことを!? あっいや視っ視てません! さっきほら、宰相様がもう少しで死ぬところだったっておっしゃてたから……何ニヤニヤしてんですかっ! 視てないったら視てないんですからねっ!」

「兄上は凶刃を受け、とは言ったが、どこに受けたかは一言もしゃべっとらんかったぞ」

「うぐ……」

「ふふ。褥教育は十五歳の頃受けたものの一回きりで、しかも座学だけでな。くちづけもそなたが生まれて初めてなのだ。これから、ふたりきりでひとつずつ、じっくりと学んでいこうな……?」

「――――――――!?!?!?!?!?!?!?!?」


 二の句が継げなくなったサヨコを抱きすくめた陛下は、慈しみにあふれた眼差しを向けつつもとんでもない耳打ちを残されたのでした。


 *


 さて、その後についてはもはや語る必要もないでしょう。皆さんがご想像されたとおり、本物の家族となったお二人は、いつまでも仲睦まじく暮らしました。

 限界に挑戦したサヨコは、以降百年の間に起こるであろう自然災害と不作の時期を予言に残しました。ところが、お子さまが何人お生まれになっても未来視の力は衰えることがなかったものですから期間はどんどん延びていき、最終的には千年を視たともいわれています。サヨコの遺した予言は予言聖典として一冊の書物にまとめられ、現在は王宮の宝物庫に厳重に保管されています。


 セージュ陛下は善政を敷き、王妃となったサヨコとの間に予言どおりの人数の子どもをもうけ、公言どおり生涯側室を持つことはありませんでした。お料理のほうも絶好調で何冊か料理本も出版されましたが、サヨコお気に入りの〝練れば練るほど色の変わる不思議なお菓子〟のレシピだけは、最後まで誰にも教えなかったそうです。

 アンヌは望み通り特命全権大使の地位を自らの実力で手に入れました。接受国で出会った王太子と結婚後は、世界を飛び回り慈善活動に尽力したということです。


 陛下がサヨコのためにお作りになった数々のお料理は、今やチゴーネルの名物となり、各国から訪れる観光客を楽しませ、お祝いの席を彩り、人々の幸せの一端を担っています。

 あの湖畔の領地にはレストランが建てられ、王宮料理人の手によって陛下のお料理が再現されています。思い出のカップケーキをはじめ、釣りたての新鮮なお魚が味わえるフルコースや、サヨコの最初のお誕生日パーティでふるまわれた三段重ねの生クリームケーキ、陛下の得意料理だったというランプレドットの煮込みなどをいつでも予約なしでご堪能いただけます。売店では、食欲を誘う豪華な総菜パンが各種取り揃えられており、陛下のレシピをご家庭でもお気軽にお楽しみ頂くことが可能です。


 相変わらず災害の多いチゴーネルではありますが、人々は現在も飢えることなく穏やかに暮らしています。しかしながら、予言聖典の最後のページをめくった後、この国が一体どうなるのか。こればかりは誰にも分かりません。

 晩年のセージュ陛下は国を憂い、予言に頼りきりになることを良しとせず、周辺国と連携して天候の情報を共有したり、協力関係にある国から気象学の権威を王立研究所に迎え入れるなどして気候変動の解明を進めましたが、成果が出るのはきっとずっと遠い先の未来です。それまでは、陛下とサヨコがはぐくみ遺した愛の証が、長く国を守り続けてくれることでしょう。

◆セージュ陛下(30歳→33歳)

四男三女の兄妹の末弟。

長男:サヴァーニラ宰相

次男:マルァーカズィ枢密院議長

三男:カイネ所長

ジュリアス神官:アンヌの父。

サヨコの身柄を狙う国を合法的に退けるためにもさっさと結婚してくれないかな、と思いつつ二人を見守っていたが、なかなか進展しないためテコ入れとして娘のアンヌを呼び戻した。


ご学友とはボードゲームやスポーツも嗜んだのだが、釣り糸垂らしてぼーっとするのが一番好き。

褥教育は15歳の頃受けたものの一回きりでしかも座学だけの童貞で、キスすらしたことがない。ずっと勉強と戦争漬けだったからエロいことやってる暇なんかなかったし、そもそも子どもができたら色んな意味で大変なのでハニトラを防ぐべく職務以外では極力異性と関わり合いを持たないよう心がけていた。

妹ポジションのくせに口うるさい姉みたいな態度を取るアンヌのことが苦手。


身長は185cmで体つきはがっしりめ。首と名のつく部位が細いので着やせする。戦時中はもっと隆々としていたが療養で減ってしまった。マチェテ使い(チゴーネルの伝統武器)。

得意料理:ハードパン全般、ランプレドットの煮込み、フルーツの飾り切り、精肉・鮮魚加工

最近の楽しみ:サヨコと釣りに行くこと、料理のアレンジ

最近の悩み:マカロンを作る練習をしているが、成功したためしがない


◆サヨコ(20歳→23歳)

本名:申示さるじ小夜子

行方不明当時の年齢:6歳 死亡時:16歳

当時は●●(地名)放火殺人事件、申示家次女行方不明事件として報道される。強制捜査後は▲▲教団事件、申示家放火殺人事件、申示家次女誘拐殺人事件の被害者として報道された。

事件発生当時の家族状況:会社員の父(36)、パート勤務の母(34)、小学生の姉(10)

両親共に小夜子の能力については深刻にとらえておらず、子育てイベントの育児相談で母親が世間話の一環として実演してしまった(飴を食べさせ、今から30分後にトイレに入る人を当てさせる)ことから一連の不幸が始まる。母親はパート先の同僚から誘われたイベントに参加しただけであり、同僚もイベント主催者が宗教団体だとは知らなかった。

▲▲教団:昭和時代に千里眼や霊能力でテレビ出演し一儲けした新宗教団体。

育児サークルを騙り読み聞かせなどのイベントを定期的に開いて安心させ、気心が知れた頃に勧誘するという姑息なやり方で信者を集めていた。予言を利用し儲けすぎたため、巫女の身柄について政治団体と暴力団体と三つ巴になった末強制捜査が入る。教祖様と巫女の無理心中後は破産し解散したが、元幹部が地方で活動しているとの情報もある。


・異世界転移

魂だけはそのままに肉体だけが再構築されて異世界に放り込まれた。まるごと全部行方不明の場合は元の世界に帰還できるが、サヨコは遺体を荼毘に付されているため異世界で生きるしかない。


前の人生は心を折られる→奮起する→心を折られる のコンボが過酷すぎたので、今度の人生は絶対に頑張らないと決めている。どうせおまけの人生だからなんでもどうでもいい、いつ死んでもいいけど痛いのだけは絶対イヤ、みたいな感じ。なので奴隷商人にも強気で交渉したし陛下にもフランクに接する。


前の人生では専属のお世話係がいたし、王宮に来るまでは宿暮らし、現在は侍女やメイドがいるため生まれてこのかた掃除も洗濯も炊事も自分でしたことがない。今後もする予定がない。

学校に一切通っていないので世間知らずなところがあり、口のきき方も子どもっぽい。当初話した相手が警戒心を失ったのは、サヨコの内面が幼すぎたから。ワウドストラ先生に教育されて今は年相応になったが、油断するとすぐタメ口になる。勉強は純粋に楽しんでおり、授業のたびに熱心にあれこれ質問してくるので先生も教え甲斐があったようで、ついあれこれ詰め込んでしまったらしい。

通常の食事量は一人分よりやや少なめだが、未来視の際は三人分食べる。なんならおかわりもする。未来視をしている間はいくら食べても太らない。身長は161cmで女性らしい身体つきをしている。


得意なこと:フラワーアレンジメント、ダンス

苦手なこと:運動全般(体力がない)、料理(やる気すらない)

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― 新着の感想 ―
[良い点] ハッピーエンドというだけでなく、話中でその幸せな光景がとても鮮やかに未来視の内容として描かれているところがとても素敵でした。 また、両思いになった後、セージュ陛下が無意識にサヨコを逃がすつ…
[良い点] メイン2人の過去が重い分、穏やかな山あり谷ありラブコメで優しい気持ちになれました たくさん美味しいもの食べてくれ [気になる点] マカロンはね……難しいよね………わたしも成功したことないよ…
[一言] 面白かったです。応援してます。
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